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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)戦後の遍路②

   e.その他の四国の巡拝バス

 愛媛相互銀行(現愛媛銀行)が発行した『ひめぎん情報』 No.64 (昭和59年)に掲載された「四国八十八か所について」のレポートによると、巡拝バスについて次のように述べている。

   四国に本社を持つ私鉄会社などの巡拝バスのシェアーは伊予鉄バス、せとうちバスが共に約30%で、残りのバス会社が
  約40%となっている。伊予鉄バスとせとうちバスの1年間の巡拝者は、合わせて約5万4,000人であり、その他が約3万
  5,000人の合計約8万9,000人である。マイカー利用者などを加算すると、約10万人となる。
   さらに伊予鉄以外で四国遍路の巡拝バスを運行している会社は、愛媛県内ではせとうちバス・宇和島バス、香川県では
  琴参バス・大川バス、徳島県では徳島バスがある。なお、昭和57年春季(2~6月)のバス会社別運行台数及び人員は、
  せとうちバス84台・2,872人、伊予鉄バス56台・2,898人、琴参バス28台・906人、大川バス7台・188人、徳島バス18
  台・685人、宇和島及び高松バスは0でその他を含めて469台・1万5,525人となっている。さらに、巡拝バスの1年間
  の運行台数は、多い所で約900台、少ない所では20~30台である。バス1台につき35人程度乗車している。台数の多寡
  (たか)は、四国八十八ヶ所巡拝への力の入れようによって異なり、中には年間売上高の20%程度を巡拝バスで占めている
  バス会社もある。これらのうち、巡拝バス運行の歴史の古い企業ほど着実に巡拝客を動員し、現在のシェア一につながっ
  ている。しかし、ここ2~3年はほとんどの企業で、巡拝者のバス利用が横ばいの傾向を示している(⑫)。

 愛媛県で2番目に巡拝バスの運行を開始した四国せとうちバス(本社今治市)で、現在観光課長の**さん(昭和21年生まれ)に、最初の巡拝バスの運行について、話を聞いた。
 「せとうちの巡拝バスは伊予鉄道より遅れること3年、昭和31年(1956年)の春『四国八十八ヶ所巡拝バス』として最初のバスを運行しました。これには伊予鉄道の順拝バスの運行が大きく影響したのは事実です。バスの座席は8列、32人乗りの中型のボンネットバスを使いました。第1号の乗客は巡拝客22人、運転手2人、それに添乗員2人の26人でした。運行に当たり、バスの試運転を行い、安全に万全を期しました。日程は15泊16日、経費は2万円あまり、各自米を持参したようです。宿泊は1日600円の宿坊が中心で、あとは旅館に泊まり、特別なトラブルもなく無事結願(けちがん)し、成功裡(り)に終わったそうです。高知の中村から足摺(あしずり)岬の金剛福寺までの道路幅が狭いため、昭和42・3年ごろまで中村から高知県交通の小型のバスに乗り換えて巡拝したことなど、巡拝バスに携わった先輩から聞いています。時代が大きく変わった今でも、懐かしい思い出として語り継がれています。」
 当初は伊予鉄と同様に試行錯誤があったという。さらに、平成11年度春のピーク時には1日40台の遍路バスを運行し、年間延べ約4万人のお遍路さんを運んだという。近年は3泊4日の一国参りが中心で、ほかに日帰り巡拝、四国八十八ヶ所巡拝や西国三十三ヶ所参りなどメニューも多様化した。平成12年現在、11泊12日の四国八十八ヶ所巡拝の経費は20万6,000円である。今後の遍路バスの見通しを聞くと、「良くて横ばい、他社との関係で下がるかもしれない」という。その理由として大手の旅行会社が直接バスをチャーターしはじめたことや東予地区に小規模な新しいバス業者が多く現れたことなどを挙げた。
 平成11年5月に開通した今治と尾道を結ぶ「しまなみ海道」の架橋ブームは、ほぼ半年で終わり、今はその効果は少ないという。しかしNHKが全国に放映した「ハイビジョン映像で巡る四国八十八ヶ所」の反響は大きく、地味ではあるが全国からの遍路は後を断たないという。

   f.巡拝用品について

 ここで巡拝に欠かすことのできない衣装や巡拝用品について触れておきたい。これらの品物はバス会社や札所などで販売している。昭和59年(1984年)2月10日現在、バス会社販売分の「巡拝用品価格表」の一覧を挙げておく。なお、平成12年1月1日現在の伊予鉄観光社の順拝用品の価格をみると、昭和59年に比べて値上りした品物は、数珠小(1,000円)、大(1,700円より)、持鈴(1,700円)、菅笠(2,500円)、地下足袋(2,700円)、合羽(1,000円)で、他は変わっていない。参考までに朝日新聞社編の『値段史年表』(昭和63年発行)から、ほぼ同年代のいくつかの品物の値段を列記すると、昭和59年の白米10kgは3,545円、ビール大瓶は310円、同58年のたばこ(ゴールデンバット)は100円、牛乳180ccは70円となっている。遍路装束一式を揃(そろ)えるのもかなりの出費となる。

 (ウ)自家用車による遍路

 急激な経済成長による経済的な豊かさは、多くの人々をレジャー指向に誘(いざな)い、モータリゼーションと相まって空前の観光ブームをもたらした。四国遍路も世の中の動きとともに徐々に息を吹き返してきた。そして従来主流をなしていた「歩き遍路」は減少するものの、好景気を背景に、大型バスやマイカーを利用する、信仰より観光やレクリエーションを目的とした「観光遍路」が生まれ、かつてない四国遍路ブームが到来する。ここではモータリゼーションの進展に伴い増大していった自家用車による遍路について述べてみる。
 建設省『四国のみち保全整備計画調査報告書要約』(1980年)によると、「わが国における自動車保有台数は、急激な伸び率を示しており、昭和30年(1955年)から同50年(1975年)までの21年間の伸びは19.4倍を示している。中でも乗用車は同期間中(昭和50/30)に約93.8倍と驚異的な伸びを示し、モータリゼーションの急激な進展ぶりを如実に物語っている(⑬)。
 愛媛県のモータリゼーションの進行について、『愛媛県史 県政』では次のように述べられている。

   昭和30年代半ばころからスタートしたモータリゼーションは、まず国産小型乗用車を突破口に、40年代に大衆レベルの
  マイカー時代に突入し、「車社会」が進行した。愛媛県でも、昭和35年(1960年)の3万2,620台が昭和41年10万台、
  昭和45年20万台、昭和51年40万台、昭和55年50万台、昭和60年60万台とほぼ5年刻みで10万台の増加となったが、昭
  和50年(1975年)前後は20万台の大幅増を記録した。(中略)また、自動車の普及は流通革命と並んで生活革命の旗手
  となり、核家族化や生活の都市化と並行して、県民の生活意識を変革しつつ大衆社会化の進展に一層拍車を掛けている。
  (中略)
   道路改良とバス交通の発達は県内の国鉄利用の足を遠のかせ、自動車時代は国鉄に厳しいものとなった。全国規模で進行
  する時間距離の短縮化は、モータリゼーションも絡んで行動圏の拡大と意識の変革をもたらし、中・四架橋を含め四国高速
  道路など道路整備への熱いまなざしを向ける、新しい時代の幕開けの予兆となった(⑭)。

 自家用車を利用した正確な遍路数は分からないが、前述の「四国八十八か所について」のレポートから概数をひろってみると、昭和59年(1984年)中で、約1万1,000人くらいの人が自家用車を利用した遍路でないかと思われる。

 (エ)「車遍路」と「歩き遍路」

 モータリゼーションが「道」に及ぼした影響について、早稲田大学道空間研究会(以下、「早大道研」と略す)は、次のように述べている。

   モータリゼーションは「車遍路」の隆盛を促したばかりではなく、生活全般を再編していった。自動車の出現と道路の車
  道化は、遍路道そのものの意味を見失わせるほどの勢いを示し、商業車や自家用車、バス・タクシーなどの行き交う道に、
  かつての遍路道の面影をしのぶことは難しい。
   戦後日本の社会・経済の変容は、遍路道ばかりでなく遍路や寺院、その他の関連主体をも、その大きな流れの中に飲み込
  んでいった。戦後日本の社会経済の発展とともに進展した「車社会」の出現、道路行政による遍路道の車道化、バス会社の
  遍路行きへの介入による巡拝バスの成立、貨幣経済に大きく依存するようになった寺院経営、それらの結果としての「線的
  道中修業の衰退」と「点的霊場修業の集中化」、最近特に目立ち始めた一部の遍路に見られる朱印と納経帳収集の目的化、
  遍路目当ての観光業者や宿泊施設の市場競争など、経済的合理化、効率化、貨幣経済依存の影響によって、新たな意味づけ
  と意味変容を伴いながら再組織化され、相互対立または相互依存を深めてきた。今日の遍路事情はモータリゼーションの問
  題を抜きには語れない(⑮)。

 このように現代の遍路をみると、「歩き遍路」の減少と「車遍路」の増加という構図が強く印象づけられるが、その一方では、「歩き遍路」の復権を求める動きがある。これらの動向について「早大道研」は、次のように記している。
 「近年の歩くことによる人間性の回復、地域の人との触れ合いなど『歩き遍路』が微増しているのも現実の姿である。『歩く道の復権』については、行政(四国のみち)、民間団体(へんろ道保存協力会)、企業団体(香川経済同友会『ウォーキングアイランド四国(辿る四国)』の提唱)など、さまざまな方面から試みがなされている。それらの試みの背景には、伝統的な遍路の観念と信仰ないし、それへの共感が強く息づいていると思われる。今後、『歩く道の復権から道に豊かさの復権へ』、これこそが道中修行を主たる目的とする歩き遍路の盛衰を左右する大切な要素であると思われる。(⑯)」
 歩き遍路の数は正確には把握されていないが、遍路の実態について調査した、五十六番泰山寺大本住職の調査(昭和44年実施)、西条市の秋山節男氏による六十四番前神寺の納札の調査(平成4年実施)や「早大道研」の調査(平成9年実施)などから推測して、四国遍路数を若干少なく見積もって年間10万人として、歩き遍路はその1%に当たる1,000人前後と思われる。歩き遍路の数は、全体からすれば微々たるものだが、近年若者や定年退職者を中心に、歩き遍路のよさが見直され、近年確実に増加傾向にあると言われている。このような状況から、再び遍路道の重要性が浮上してきた。今日また「歩く道の復権」へ、さらに「道に豊かさの復権」に向かおうとしている。
 今日の状況から「早大道研」は、「『歩き遍路』と『車遍路』の調和をどのように図っていくかが基本的に重要となる。言い換えれば、分断された関係をどのように、より豊かな関係へと再構成していくかということである。(⑰)」と述べている。
 以上のように、モータリゼーションに伴う交通機関の発達は、マイカーやバスなどの「車社会」を出現させた。これら科学技術を駆使した交通の利便性・迅速化への指向は今後も続くと予想されるが、その一方で人々は歩くことへの価値や必要性を以前にも増して感じ始めた。これらの欲求は、余暇時間の増大や自分探し・癒(いや)し・安らぎの場所探しの高まりと共に、昨今の健康指向ブームと相まって、ますます強くなるものと推測される。

<注>
①山本和加子『四国遍路の民衆史』P247 1995
②前出注① P248~250
③比良河基城『遍路日記』P93~94 1955
④前出注③ P127~128
⑤西端さかえ『四国八十八ヶ所遍路記』P186~191 ・ 203~207 ・ 249~255 1964
⑥前出注⑤ P344~345
⑦建設省計画局・四国地方建設局編『四国のみち保全整備計画調査報告書要約』P2 1980
⑧前出注① P250~251
⑨伊予鉄道株式会社編『伊予鉄道百年史』1987
⑩村上節太郎「いよてっの順拝バス」(伊予鉄社内誌『いよてつ』寄稿シリーズ P818~820 1983)
⑪岡崎忠雄『四国八十八ヶ所巡拝バス第1号お遍路の記』1953
⑫愛媛相互銀行発行「四国八十八か所について」(『ひめぎん情報No.64』P5 1984)
⑬前出注⑦ p.2~3
⑭愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 県政』 p.635~636 1988
⑮早稲田大学道空間研究会編『現代社会と四国遍路道』 p.97~98 1994
⑯前出注⑮ p.99
⑰前出注⑤ p.100