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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)廻国修行の前半生

 『遍照庵中興木食佛海叟傅』(以下『仏海叟伝』と略す)は北条市猿川の篠原一興氏が所有しているもので、半紙6枚に900字余りの漢文で書かれている(③)。内容は、仏海の出生、廻国修行の旅に出て、やがて故郷で木食庵を再興するまでの宝永7年(1710年)から寛延3年(1750年)までの40年間にわたる略伝である。これを書いたのは、「老隠士寛応」である。寛応は、今も北条市に残る善弘庵(風早(かざはや)三十三所観音霊場十五番)の第三代目の住職であり、『仏海叟伝』によると、仏海とは法銘を結ぶこと15年とある。この『仏海叟伝』について、鶴村氏は現代語訳(④)を、喜代吉氏は書き下し文(⑤)をそれぞれの著作に記している。なお本節で使う『仏海叟伝』の本文は、喜代吉氏の書き下し文によることにする。

 ア 出自

 『仏海叟伝』によると、仏海は、伊予国風早郡猿川村(現北条市猿川)に、宝永7年(1710年)に生まれた。僧名は「佛海」、字(あざな)は「如心」、俗名は「太良松」である。父は越智氏の脇田孫左衛の子孫で、母は徳永十良左衛門の子孫とある。これについて、鶴村氏は、仏海の先祖は「湯築城の支城、猿川村の十二代城主であった」「河野氏の流れをくむ脇田兵庫頭安顕ともいわれている」とし、母については、「茶臼山城主に徳永十良左衛門通重とあり、この方の後胤らしいがたしかなことはわかっていない。また一説には猿川の萩尾山城主であったとも言う。」と記している(⑥)。

 イ 廻国修行・木食僧として

 (ア)廻国修行と木食行

 仏海はわずか13歳で家を出て、「州ノ内」(伊予国)に師を求めて3年、師範を得ることができず、15歳から改めて諸国修行の旅に出た。18歳で高野山にこもり、24歳にしていよいよ全国廻国修行に取り組んだ。富士山に詣(もう)で、関東、奥羽、北陸から西国、四国、九州と修行は続き、39歳のときには念願の日本国中廻国修行を成就した。それを記念して大坂の地で大法会を催した。彼の前半生はまさに修行の日々であった。その中で、仏海が木食行を始めたのは、『仏海叟伝』によると26歳、それも廻国の途中出羽においてであり、続いて「湯殿山二詣デ」とある。これについて鶴村氏は、「享保二十年(1735年)、関東、奥羽地方より人々は群をなして出羽三山に参詣していた世相でもあり修験道に属する修行僧が荒行によって多くの人々の信仰を得ていた。そして最も厳しい修行の木食の行に入った幾人かの僧がおり彼らは生きながら入定され即身仏となっていったのであった。仏海はこうした影響を受けて木食の行に入られたのである。(⑦)」と記している。また喜代吉氏は、木食ということについて、「米や麦を食さず、木の実・草の根をかじり-つまり火を用いず、生ものを食べる-といった意味合いがあります。主としてソバ(粉)を常用しておられたようです。(中略)修行方法(神仏に帰依し、霊性に近づく為)としてこのようなことをするのです。この結果、特異な霊力(法力)を獲得し、民衆に霊験を伝えることにより大きな宗教活動をした僧もおりました。食は細い粗末なものですが、その為す所-精神的な気迫-は大きなものでした。(⑧)」と述べている。

 (イ)仏海の彫像活動

 彼が彫像を始めたのは、『仏海叟伝』によると、秋田県千木郡神宮村の宝蔵寺で、教えを受けた潜巌和尚が、地蔵菩薩を彫像して有縁の衆生に施与する姿を見てからだという。27歳にして地蔵尊彫像を始めた仏海は、31歳にして「施仏既ニ一千体供養成就ス」と『仏海叟伝』には記されている。喜代吉氏は、「始めの一千体。主として東北から北陸地方にかけて施与されています。(⑨)」と述べているが、31歳までの作品はほとんど不明の状況である。
 仏海の地蔵尊彫像三千体の内、千体地蔵と百体地蔵が愛媛県内に残されている。32歳のとき、「四国二渡リ、四月八日与州宇摩郡金光山河瀧寺三角寺奥院也二登リ、高祖大師ノ遺跡ヲ拝シ、信心忽二発キ、地蔵尊一千体ヲ刻ミ奉ツリ末代二伝ヘント誓イ山二居ルコト二年」と『仏海叟伝』には書かれている。この千体地蔵は、現在、奥の院にはなく、川之江市の五明院に安置されているものがそれであろうという。五明院の千体地蔵は、同院の地蔵堂(「十王堂」とも言う)の正面の壁7段と、左右の壁5段に13~14体ずつびっしりと安置されている。一体の像高は台座共で14~15cmだが、彩色を施された一千体の地蔵尊像が並ぶと壮観である。喜代吉氏はこの彩色について、地蔵尊台座に記された施主の村名と氏名から、地蔵堂の改築されたという弘化2年(1845年)になされたのではないかと推測している(⑩)。
 また、百体地蔵については、『仏海叟伝』に「三十六歳ニシテ与州新居郡大島二渡リ、百体地蔵ヲ刻ミ」とある。その百体地蔵は、新居浜市大島の吉祥寺が管理している。これについて、鶴村氏は次のように記している。

   間口二間ほどの古いお堂の中央に厨子が置かれ百体地蔵尊が安置されていた。七段の仕切りになっており中央の下段にあ
  る大きい地蔵尊を取り囲むようにして九十九体の木彫の小さな地蔵尊がおかれていた、木造はすべて像高十五糎位で肩幅
  三、五糎材質は杉で金箔を施してあり直径四糎の丸い金具の光背を付けてあるのが四九体であとの五十体はこわれている
  (⑪)。

 なお、北条市立ふるさと館々長の竹田覚氏の話によると、愛媛県における仏海作の地蔵尊像は、これらとは別に、新居浜市大島に2体、同市田の上に1体あり、さらに故郷、北条市の5体は、北条市猿川原の蓮生寺、滝本の弥勒堂、八反地の西原家、高田の公原家、ふるさと館(高さ10cmほどの小形で、まだ公開されていない)にあるとのことである。
 ところで、彫仏ではなく、自らの像を刻んで残すこともある。このような生前に作られた像を「寿像」といい、入定後にはそれが「御影」として尊ばれると喜代吉氏は述べている(⑫)。その彫仏と寿像ということについて、喜代吉氏は次のように述べている。

   作仏というのは、自分の信仰する仏菩薩の姿を、この世に顕現させる方法として木彫や石彫をするのですが(中略)自ら
  を刻んで《本尊物》となすという信仰があります。《寿像信仰》に通ずるものですが、これは弘法大師が大日如来、もしく
  は弥勒菩薩の三昧に入って(つまり入定)高野山に身をとどめ(留身)、そうして衆生済度の方便とされたことに連なる思
  想です。つまり、作仏行者の行きつくところは、わが身の仏体化(即身成仏)に至るのです。ここに土中入定という特異な
  る死が予想されます(⑬)。

 ウ 故郷での作善行

 『仏海叟伝』や木食庵に残された資料によると、故郷に帰った仏海は、まず遍照庵(水長寺阿弥陀堂・木食庵)を復興するとともに日本国中廻国供養の宝筐印塔を故郷にも建てた。そして法華経、地蔵本願経等を一字一石に書いてその下に納めている。さらに、現北条市に、「たき本村 来光寺」(奥の院高縄寺)を第一番として、風早三十三所観音霊場を開創している。現在は猿川の木食庵(元廿九番遍照庵即ち木食庵)が第一番となり、来光寺は消滅している(⑭)。その間、「多くの信者さんを相手に結縁教化していたようです。単なる諸国話とか、刻像を与えるようなことばかりではなく、積極的に治病等の加持祈禱も行ったものと思います。(⑮)」と喜代吉氏は述べている。日本国中廻国を成し遂げ、修行を積んだ仏海のもとには、『仏海叟伝』にあるように「日盛ンニシテ万人招カザルニ群レヲ成シ好縁ヲ結ブ。」という状態であったのであろう。今も仏海庵には仏海像や仏海の位牌が残され、その庭には宝筐印塔や木食仏海の名が刻まれた五輪の塔が並んでいる。