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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)四国遍路にかかわる後半生②

 工 宝筐印塔の建立と仏海の入定

 仏海庵の宝筐印塔について、鶴村氏は、「庵の境内には花崗岩で作られた高さ三米の宝筐印塔が建立されており塔の台座の正面に仏海上人像とも見られる僧形の高さ二十八糎の自然石の石像が納められている。(㊸)」と記し、故郷の猿川木食庵に建立されているのと大きさも全く同じ(㊹)であるとも書いている。一方、喜代吉氏によれば、この宝筐印塔は、仏海が法華経千部読誦(どくじゅ)を成満(遂行)した時の記念の供養塔で、自らの姿を塔身に納めたものである(㊺)とし、刻字については、塔身の下側正面には仏海の寿像があり、その右・左には「奉読誦法華千部」・「如意満行供養塔」、そして裏面には「宝暦十四(1764年)甲申三月 願主 木食佛海」とあると述べている(㊻)。
 この記念の供養塔を建てるに値する千部読誦とは何か。喜代吉氏の記述を次に略述してみる。
 法華経「妙法蓮華経」は、観世音菩薩普門品第二十五(観音経)のようなお経が28品集まって一部を構成している(ちなみに観音経は2,080字ほどの漢字で出来ているよし(㊼))。土佐では、この千部読誦が明治4年(1871年)に廃止されるまで、初代藩主山内一豊入部以来270年に亘(わた)って、執行されてきた。これは藩の大事業で、藩内の真言僧百数十名を一宮に呼び寄せての7日間に亘る大法会であった。その百数十名の僧が一日一部の法華経を読誦して、7日間で千部となる大法会である。それを仏海上人は、一人で一日一部ずつ、一千日をかけて千部読誦を成し遂げた。それを示すのが宝筐印塔と仏海庵に残っている祈願札であるというのである(㊽)。
 喜代吉氏が提示した資料(㊾)によると、その祈願札は横幅14.5cm、長さ1m6cmの板札で、「種子 奉読誦法華経千部萬民除災與楽祈所 聖朝安穏・天下泰平・五穀成就・如意満足・修真言者・木食佛海」と刻字してあり、反対の面には、朱筆で、松平豊敷(とよのぶ) (第八代土佐藩主)以下寺社奉行、御郡奉行、御浦奉行等、藩の重役名や佐喜浜御役人、同郷浦大庄屋など40名ほどの名が記されており、「宝暦十一年(1761年)辛巳歳七月吉祥日」の日付けもある。そのことは、「自分勝手に千部読誦したのでは無くて、公の認知をして始め(㊿)」たもので、「形式的なものにしろ藩主以下奉行・役人衆の名を連ねているのは、やはり仏海上人の存在が確固とした信頼のもとにあったからだろう((51))」と、入木における仏海の存在の大きさを指摘している。そしてこの千部読誦がなされたのは、「板札(祈願札)にある『宝暦十一年七月』からこの石塔(宝筐印塔)(写真3-1-10)の建立された『宝暦十四年三月』までおよそ一千日です。((52))」と結んでいる。
 こう見てくると、仏海の活動は、入木の人々や遍路人のみならず、土佐藩において公の認めるところであったのであろう。いずれにせよ、宝暦11年に仏海庵(当時の飛び石庵)を建立(あるいは再建?)してから1千日、約3年間は法華経千部読誦の日々であった。その千部読誦を成し遂げたのを記念しての宝筥印塔の建立であり、そこに寿像を刻んだのである。このとき既に、やがてくる5年後には、この塔身下(土中)に身を入れて死を迎える決意であったのであろうか。
 仏海の土中入定について、鶴村氏は、「入来の里人の伝承によると仏海はこの宝筐印塔の下に生きながら定に入り三七日僅かに水だけをとって何も食わず、香を焚き鐘を叩き誦経百万遍遂に成仏され衆生の為に即身仏となられた。明和六年(1769年)旧十一月朔日である。((53))」と記している。また、「入木の里では毎年旧十一月一日を仏海成仏の命日としてお祭りをして来ており遠く徳島県海部郡や室戸市方面からもお詣りがあり(中略)今でも村中をあげて炊き出しをしてお詣りの人々にお接待の供養をしているという。すでにこうしたことが二百十年余りも続けられているのもこの村で仏海上人の徳があまりにも高く仏海さん仏海さんと一番に尊崇されている。((54))」と述べて、仏海の徳を賞賛している。
 平成13年現在の仏海庵は、庵近くに住む山本さんが庵守として世話をしている。宝筐印塔には花も供物も供えられ、庵全体の清掃も行き届いている。山本さんの話では、時おり伊予の方からも訪ねて来るが、今は接待庵として、人を泊めることもなく、地域あげての祭りなどの行事も絶えているとのことである。そして宝筐印塔の仏海像は、昔の像がいたんだので、平成になってから数年前に新しく造り直したものだそうである。昔の仏海像は、その宝筐印塔の横に並べて祭られている。また『風早第40号』によると、「昭和62年だったか、猿川の柿谷組の人(9人)が入木を訪問し、仏海の墓参りをした。大勢の方が出迎えてくださって心づくしのおもてなしを受けた。(中略)入木からも猿川の木食庵に2度来たことがあった。」と記されている((55))。

<注>
①鶴村松一『木喰佛海上人』1977
②喜代吉榮徳『木食僧仏海上人伝』1987
③現在の『仏海叟伝』は、半紙1枚を二つ折りにした表紙に遍照庵中興木食佛海叟傅と墨書し、本文は半紙6枚に約900字の漢文で墨書している。さらに、昭和14年に佛海百五十回忌追善を行ったことを追記した新しい半紙1枚を加えて、コヨリで綴(と)じ直している。
④前出注① P4~7
⑤前出注② P25~35
⑥前出注① P39・40
⑦前出注① P119
⑧前出注② P3
⑨前出注② P38
⑩喜代吉榮徳『奥の院仙龍寺と遍路日記』P47 1986
⑪前出注① P24
⑫前出注② P62
⑬前出注② P10
⑭前出注② P77~79
⑮前出注② P41
⑯前出注① P111
⑰松野仁『佐喜浜郷土史』P249 1977
⑱前出注② P48
⑲前出注② P50
⑳真野俊和『旅のなかの宗教』P72 1980
㉑前出注② P99~100
㉒前出注② P52
㉓前出注② P51
㉔前出注② P51~52
㉕前出注② P53
㉖越智通敏「解題」(伊予史談会編『四国遍路記集』解題 P324 1981)
㉗九皋主人写『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』(伊予史談会編『四国遍路記集』 P241 1981)
㉘澄禅『四国遍路日記』(伊予史談会編『四国遍路記集』P28 1981)
㉙前出注① P107
㉚前出注② P56
㉛前出注① P105
㉜新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』(P1028)によると、宝暦14年上書の山内家史料に、「四国辺路三月より七月まで一日二、三百人も通り申候」とある。これによれば、月に六千人から九千人となる。
㉝前出注① P114
㉞前出注① P112~113
㉟前出注① P104
㊱前出注① P105
㊲前出注② P101
㊳前出注① P108
㊴前出注① P109
㊵前出注⑤(伊予史談会編『四国遍路記集』P241)
㊶前出注② P56
㊷前出注② P56
㊸前出注① P105
㊹前出注① P111
㊺前出注② P59
㊻前出注② P59
㊼小原弘万『般若心経と観音経』P28 1984
㊽前出注② P57~59
㊾前出注② P57、P101~102
㊿前出注② P59
(51)前出注② P102
(52)前出注② P60
(53)前出注① P106
(54)前出注① P108~109
(55)風早歴史文化研究会『風早 第40号』P40 2000

写真3-1-10 仏海庵にある宝筺印塔

写真3-1-10 仏海庵にある宝筺印塔

室戸市佐喜浜入木。平成12年12月撮影