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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(3)茂兵衛雑記

 ア 遍路の日数と宿泊所

 茂兵衛が残した諸日記がある。そのうちの明治42年(1909年)、茂兵衛65歳のときにどのような遍路行をしたのか、宿泊所と日数を追ってみた。諸日記は『四国遍路道しるべ付茂兵衛日記((63))』に掲載されているものによった。日記は旧暦で記されており、月日と宿泊所、何にいくら使ったかが記された、金銭出納簿的覚え書きのようなもので、乗り物代、薬代、たばこ、郵便はがき、小遣いなど、金額と共に細かな記載はあるが、宿泊代、食事代の文字は見えない。日々の出費、月ごと及び年間の出費合計が月末、年末に記されているが、感想のような叙述はない日記である。
 明治42年の正月元旦(旧暦)に、茂兵衛は神戸の坂井うた方に滞在していた。その後大阪、京都方面の彼の信者と思われる人々を訪れた後、四国多度津から上陸して、塩田栄吉方に滞在するのが2月半ばである。43年も1月8日から岡山を振り出しに京都、近江まで出向いて、多度津の塩田栄吉方へ帰ってくるのが2月9日であり、44年も1月6日から岡山、大阪方面へ出向いて、信者と思われる42・43年とほとんど同じメンバーの人々を訪ねて、塩田栄吉方へ落ち着くのが2月21日である。これが、この2・3年の正月明けにおける過ごし方であったようだ。しかし、大正8・9年の諸日記によると正月は遍路行の途次であり、その2年間は岡山から大阪の方面に行った記録はない。
 さて42年に茂兵衛は5回の遍路行を成し遂げている。彼の遍路行は、必ずしも一番札所霊山寺からではなく、どこから始めたとも規定しがたい。ただこの年に限っていえば、塩田栄吉方を起点に動いたと思われる。神戸方面から多度津に船で上陸して先ず塩田方に4泊してから遍路に出ている。そして遍路行の最後は必ず塩田方に宿泊しているのである。しかも寺院関係以外ではほとんど連泊することのない茂兵衛が、3回目の前には5泊、4回目の前の7月3日から25日までの間、塩田方と本門寿院とで日を送っている。塩田栄吉は茂兵衛にとっては特別な存在であったようだ。
 茂兵衛の明治42年の1年間をみると、正月から2月19日までの48日間、5月の4日間、7月の25日間と12月の20日間の97日間、言うならば年末年始にかけての約2か月間と7月の約1か月間の2回の休み以外は遍路の旅路にあるといえる。その合計日数は286日になる(明治42年は、旧暦では閏2月があり、1年の日数は384日である。)。そして各1回の遍路行は47日から70日かかっている。ところで彼の宿泊所は寺院関係では27か所、それ以外では彼の信者宅と思われるものを中心に50か所近く記録されている。1年5回の遍路行で、宿泊場所は約80か所、宿泊日数は286日である。5回の遍路行で、2回~5回と宿泊した寺院や茂兵衛の支援者宅が幾つもあったということである。特に寺院関係では、5回とも宿泊している寺は、長尾寺、金泉寺、鶴林寺、太龍寺、金剛頂寺(西寺)、安楽寺、延光寺、龍光院、延命寺、仙龍寺の11か寺に及び、しかもこれらは、多少の違いはあるが、連泊した寺々である。
 5回の遍路行で、茂兵衛が連泊したのは、寺院以外では、塩田栄吉方は別として、50か所ほどの内5か所だけである。それも4か所に2泊ずつ、1か所に3泊である。一方寺院関係では、27か寺のうち、14か寺に連泊しており、3泊~5泊と連泊する寺が幾寺もある。信者宅への連泊は、避けようとする意識があったのであろうか。
 連泊するとは移動しない日があるということである。例えば1回目は47日の遍路行であるが、21日連泊している。つまり、21日間は移動せず、実際に遍路として巡るに要した日数は26日ということになる。もし連泊なく遍路行を続けたとすれば、1回目は26日間、3回目は46日間で行ったことになる。
 もっとも、この時の茂兵衛の遍路は歩きのみではない。日記によると、28銭高松迄、30銭馬車代、47銭ツロ港迄、22銭汽車、20銭車代などと記されている。汽車、船、馬車なども利用しているのである。さらに彼は八十八ヶ所だけではなく、現在の四国別格二十霊場も定宿にしている(五番大善寺、六番龍光院、十三番仙龍寺等)。それらを具体的にどのような道筋でたどったのか明らかではない。残された他の諸日記などとも総合して分析するのも、これからの課題であると思われる。

 イ 故郷への思い

 茂兵衛は22歳で故郷を出てから、死ぬまで一度も故郷へは帰らなかった。その間56年、彼が故郷とどのようにかかわっていたか、それを詳述したものは、管見(かんけん)には入っていない。鶴村氏は遺品についても、「すべての持ち物には中務本家と署名しており、庄屋であった実家の名をはずかしめないように、誇りを持っていたことがうかがわれる。((64))」と述べている。また喜代吉氏は、「伊予の添句歌四基のうち三基は歌であるが、これらは五十二番太山寺から道後石手寺の間にある標石に添えられている。この辺りは故郷周防大島からの人々が舟に乗って最初に往来する地点に相当、茂兵衛の発した故郷へのメッセージなのである。『出奔した庄屋の息子は頑張っているぞ、中司の亀吉は四国で元気にしているぞ』と宣言しているのである((65))」と書いている。彼の故郷への思いは庄屋としての誇りを持ち続けることであったのだろうか。またここでいう「故郷へのメッセージ」とは故郷を懐かしむ思いだろうか、それとも自分の存在を故郷の人々に印象付けることだったのだろうか。
 また一方で喜代吉氏は、茂兵衛の書簡を2通紹介して、「22歳で村から出奔して2度と帰らなかった茂兵衛であるが、実家との交流はしっかりと続いてある((66))」と記している。一つは「中司ムメ殿行」のもの、後の一つは、茂兵衛70歳の大正3年のもので「中司あね様 仝をんめ殿」となっており、茂兵衛宛の書簡への返事だと説明している。この2通の手紙の中へは、ともに「中功院(父の戒名)御宝前へ」としてお金を包んでいる。既に父が亡くなって50年以上経ってのことである。
 また彼の遺品の中に、木製の奉納札挟みがある。その内側には、両親や兄をはじめ親族と思われる9人の戒名と命日が書き込まれている。鶴村氏が指摘するように、表面の中央部は磨り減って、書き込まれた文字が消えている部分がある。ずっと持ち続けて戒名を唱えつつ供養をしていたものであろうか。
 茂兵衛は姪のウメやその娘のタマと松山で会っており、その時「よう来てくれた。わしが死んだら椋野の墓へ入れてくれ、それまでわしは帰らん。」、「おまえたちのことは私が守ってあげると言われ着物や帯を買ってくれた」という、ウメの孫にあたる中司善子さんの話を、鶴村氏が記している((67))。そのウメ宛てに年玉を贈り続けたようである。晩年の諸日記の中に、大正8、9、10年の暮に5円ずつウメに送っていることが記されている((68))。
 こうして見てくると、いつごろから生家との交流があったのかは分からないが、兄亡き後、没落していったという生家、その生家を支えている兄嫁やその娘を気遣う気持ちとともに、亡き両親や親族への思いは、年とともに膨らんでいったようにも思われる。
 茂兵衛は56年にわたって四国八十八ヶ所を280度も巡り続け、230余基の道標石を建立した。その修行実践を通して、遍路行者、通り名 茂兵衛義教として、全国の実に多くの人々の崇敬を受ける存在となった。それは同時に多くの信奉者を四国遍路へと導く存在であったともいえよう。標石の添句歌の中に「迷う身を教えて通す法の道」「旅嬉しただ一筋に法の道」というのがある。茂兵衛にとって、遍路道は仏の道へただ一筋に歩む喜びの道であったのかも知れない。とはいえ、まだまだ悟り得ぬわが身の修行の道であったのかもしれない。喜代吉氏は茂兵衛の添句歌に触れながら、「二十二歳から五十六年間の生涯を過ごした辺路道は、まさに仏の光りを探し求めた道でもあった((69))」と述べている。この生涯を通して仏の光りを探し求めた彼の姿こそが、人々に崇敬された所以(ゆえん)かもしれない。遍路への出発こそ不本意な故郷の出奔であり、生きて帰ることのなかった故郷ではあるが、先祖を思い、生家を気遣う故郷への思いを抱きつつの遍路の旅であったようにも思う。そして果てしない信仰の旅を終えた彼のなきがらは、遺言のままに、今故郷の両親の墓の下で安らかに眠っている。彼自身の墓碑は無く、戒名も書かれてはいない。しかし、その彼の眠る墓地のすぐ下方に、四間四方・檜造りの立派な茂兵衛堂(写真3-1-21)が建立され、今も茂兵衛を慕う人びとが訪れつづけているという。
 喜代吉氏は書いている。「墓は無いに等しいが、四国中に280度順拝の足跡として標石を残している。単に道しるべの立石を残したのみではなく、自身の逆修塔(死後の冥福を祈って、生前にあらかじめ立てておく塔)的存在である」と。そしてその魂は「四国の空の下、<へんろみち>のあちこちに遊んでいるのではないか」いや、今も「弘法大師と共に四国の道守りとして活躍しているのである」と((70))。

<注>
①280回目は、八十七番長尾寺と八十八番大窪寺を残して亡くなった。従って、巡拝完了は279回というべきかもしれないが、本節では一般にいわれている280回として記すことにした。
②鶴村松一「中務茂兵衛義教の生涯」『四国霊場略縁起道中記大成』P70 1979
③鶴村松一『四国遍路二百八十回中務茂兵衛義教』(1978)が最初のものであるが、その増補改訂版が②である(②の後書き)。本節では、増補改訂版を取り上げる。
④喜代吉榮徳『へんろ人列伝』P241~242 1999
⑤前出注② P73
⑥前出注② P70
⑦村上節太郎「四国遍路の道標」(愛媛文化財保護協会『愛媛の文化 第22号』P183 1983)
⑧中務茂兵衛の姪である「ウメ」の子「タマ」の養女
⑨前出注② P84
⑩喜代吉榮徳『四国遍路道しるべ付茂兵衛日記』P167 1984
⑪前出注⑩ P189
⑫前出注④ P252
⑬喜代吉榮徳『中務茂兵衛と真念法師のへんろ標石並に金倉寺中司文書』P20 1985
⑭七十六番金倉寺の住職で茂兵衛の師僧であった。
⑮前出注⑬ P18
⑯喜代吉榮徳『遍路の大先達 中務茂兵衛義教』(度牒の部)2000
⑰前出注⑬ P25~26
⑱前出注⑬ P27~82
⑲三男説は、前出注②、前出注⑩、村上節太郎「四国遍路の道しるべ」(愛媛県文化振興財団『文化愛媛 第11号』1986)
 次男説は、鶴村松一「中司茂兵衛の二八〇回遍路」(『大法輪』1979)、戸籍は貳男である。また過去帳には、三男説において兄とされる林吉であろうか、「釈貞利專証童子」として、嘉永元申年十一月没「中司次郎左衛門三男、俗名林吉」が添え書きされている。
⑳村上節太郎「四国遍路の道しるべ」(『文化愛媛 第11号』P91)
㉑喜代吉榮徳『奥の院仙龍寺と遍路日記』P95 1986
㉒前出注② P71
㉓前出注② P71
㉔白木利幸『こころを癒す巡礼参拝用語事典』P129 2000
㉕前出注② P74
㉖前出注② P74
㉗前出注② P75~76
㉘村上護『遍路まんだら』P140 1986
㉙前出注② P76
㉚前出注② P77
㉛前出注㉘ P141
㉜鶴村松一「中務茂兵衛の二八〇回遍路」(『大法輪』P105 1979)。『四国霊場略緑記道中記大成』の奥付では、明治16年1月出版、出版人は、徳島県名東郡の黒崎精二となっている。
㉝前出注⑬ P14~16
㉞前出注⑬ P20
㉟前出注④ P237~239
㊱前出注㉜ P105
㊲前出注⑩ P219~222
㊳前出注④ P274
㊴前出注② P124~125
㊵梅村武『四国遍路シリーズ 中務茂兵衛の標石』P16 私家版 1999
㊶前出注㊵ P18~20
㊷前出注② P102~124
㊸前出注⑦ P183
㊹前出注㊵ P22~105
㊺前出注④ P241
㊻前出注④ P241~248
㊼前出注④ P244
㊽前出注④ P246
㊾前出注④ P36~37
㊿前出注④ P247
(51)前出注④ P247
(52)前出注④ P243
(53)前出注④ P244
(54)前出注② P99
(55)前出注② P99、中司善子さんは、母はタマ、祖母はウメだと語っている。(平成12年)
(56)前出注② P73
(57)前出注② P81
(58)石川椿『四国遍路二百八十回中務茂兵衛義教』 私家版 1983
(59)前出注④ P262、前出注⑩ P183・184
(60)前出注④ P271
(61)喜代吉榮徳『四国辺路研究 第7号』P27 1995
(62)前出注② P131
(63)前出注⑩ P131~139
(64)前出注② P132
(65)前出注④ P246
(66)前出注④ P250
(67)前出注② P75、P73
(68)前出注⑩ P161・175・183
(69)前出注④ P281
(70)前出注④ P276

写真3-1-21 椿山茂兵衛堂

写真3-1-21 椿山茂兵衛堂

大島郡久賀町椋野。平成12年9月撮影