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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)多数度巡拝者

 ア 道休禅師(裸足遍路12度)と山本玄峰(裸足遍路7度)

 江戸時代、貞享・元禄期に活躍した真念は、自ら二十余度の遍路をしているが、その真念の著した『道指南』の八十五番八栗寺の項に次のような記事が記されている。

   ○ たい村、皆々志有やどかす、此所に道休禅師がはか有。此禅門ながく大師に帰命し奉り、はき物せずしてじゅんれい
    する事十二度、すべて二十七度の遍路功なりて、ついに身まかるとて、
       いままでハとをき空とぞおもひしにとそつの浄土其のまゝ(の)月
    皆々回向頼みたてまつる(①)。
 
 道休禅師の墓は現存して、地域の人は「ドウキさん」と呼び慣(なら)わしているとのこと。喜代吉氏は、「墓にははっきりと『廿七遍成就五十三歳』とあった。貞享元年(1684年)四月七日が命日。この年は弘法大師八百五十年忌にあたっている。(②)」と記している。
 二十余度、四国路を経巡った真念は、それがどれほどの苦行であったかは身をもって知っている。その真念に先駆けること27度の巡拝成就である。大師を尊崇する道休禅師への畏敬の念が「皆々回向頼みたてまつる」の言葉の中に踊っているようである。また27度のうち12度は、履き物せずして巡礼するという裸足(はだし)での遍路である。
 明治期に入って裸足で7回遍路した人に山本玄峰(1866年~1961年)がいる。19歳のとき眼病を患い、大学病院等で治療4年の後、失明の宣告を受ける。その失意の中で、救いを求めて諸国行脚に出る。たどりついた四国路で、八十八ヶ所巡拝を裸足で貫行すること7回、ついに高知の雪渓寺で倒れ、そこで太玄和尚に出会い、仏の道に入ったという。ついには臨済宗妙心寺派の管長に上り詰めた人だが、前後17回の四国遍路、その最後は95歳のときであったいう(③)。

 イ 高林玄秀(四国遍路36度)

 高林玄秀は遍路36度を成就した人で、高知県幡多郡の人だと喜代吉氏は言う。延宝8年(1680年)に「四国邊路三十六度往行成就依其」として、高林玄秀が施主となった石塔が延光寺の境内に残されており(④)、36度成就の記念碑である。延宝8年は、澄禅が68歳で生涯を終えた年でもある。

 ウ 芸州忠左衛門(生涯遍路136度)

 香川県長尾町大石にある道端の小庵に、卵型の墓があり、それには「四国霊場百三十六度巡拝」と、かろうじて読めるほどの文字が残されているという(⑤)。これが芸州広島の人忠左衛門の墓であり、文久2年(1862年)8月2日没だという。喜代吉氏は「中司茂兵衛も忠左衛門の噂を聞いたのではなかろうか。百度を越して巡拝を重ねて行くうちに、136度の数値が一つの目標となっていたと考えられるのである(⑥)」という。

 工 その他の多数度巡拝者

 白井加寿志氏が、多数度巡拝者を10人列挙している(⑦)。そのうち、道休、真念、忠左衛門を除いて記すと次のようになる。

   1 切幡寺の参道の「奉供養四國遍礼二十一度為無上菩提」と刻まれた墓(1711(正徳元)年美馬郡半田村願主春□
    (一字不明))
   2 延命寺の本堂前の、1572(宝暦二)年に二十一度巡拝した自覚という僧の記念碑
   3 四国廿一度行者摂州大坂法堂菱垣鷲峯寂範「菱垣寂範は、右衛門三郎に倣い、二十一反廻り…」(1802(享和二)
    年、『宝抓取』)
   4 土佐大日寺の「四國三拾三度供養塔」(1835(天保六)年、予刕宇摩郡御料中村 辻栄助)
   5 大宝寺参道の「奉供養四國八十八箇所二十一遍心願」と刻まれた墓(1850(嘉永三)年、豊後 小原行人村行者)
   6 郷照寺山門横の「為四國廿一度順拝供養」と刻まれた地蔵(1852(嘉永五)年備中帯江茶屋町ヤマキ大吉)
   7 「岡山県荒井エイとて、六十一歳より八十五歳までに五十五度四國順拝せりと云ふ人に遇ふ」(1926(大正十五)
    年、『四国遍路』)

 さらに白井氏は次のように付け加えている。「最近では中務茂兵衛が279回のレコードホルダーとして顕彰され、岐阜市の宮下恵順氏が210回を越して、全国唯一人の先達名誉元老として、錦地の納め札を許されたと、話題になっている。(⑧)」

 オ 多数度巡拝者番付

 喜代吉氏は、「四国辺路多数度巡拝者番付」とも称すべきものが、忠左衛門の136度を超えて、茂兵衛の137度目の年である明治28年(1895年)に発行され、その写しが残されているという(⑨)。その中に巡拝度度数の多いものから、度数・住所・氏名が列記されている(⑩)。100度以上巡拝者は次の通りである。

   ○金札ヲ以テ巡拝スル人名之部
     199度   信州戸隠中村    行者光春
     162度   備後国芦田郡町村  五弓吉五郎
     137度   山口県大島郡    中司茂兵衛
     114度   備中国中田村    小野又蔵
     100度以上 丹後国宮津     大谷勇助
      同    石見国跡市     熊谷倍常
      同    石見国       沢津両吉
      同    伊予国風早郡中島村 村中壱統

 その他、90度以上2人、80度1人、70度以上2人、60度1人、50度以上8人、40度1人、30度以上8人、29度2人、26度1人が、金札を持って巡拝する人として、上記に続いて在所や氏名が記されている。
 また、「廿一度ヨリ白札ヲ以テ巡拝スル人名ノ部」には、21度から28度の人33人の名が、「七度以上赤札ヲ以テ巡拝スル人名乃部」には、7度から19度まで、211人の名が記されているという(⑪)。
 上記のように、明治28年調査の時点で、100度を超えての四国霊場巡拝者は8人(この内、五弓吉五郎は、明治34年167度目の巡拝を以って最後となったという(⑫)。行者光春の199度がその後どうなったかの調査はまだないようである。)、50度から99度までが14人いたことになる。
 トータルでは、50度以上が22人、20度以上が67人、7度以上になると278人の巡拝者がいたというのである。現在と違って、歩き遍路での度数と考えられ、しかも明治28年時点での現役の人たちである。この他にも「一度はお四国参りを」と遍路をした人たちもいる。一体どれほどの人たちが、四国巡拝の旅に出たのであろうか、それほどまでに、八十八ヶ所巡拝に人々を駆り立てるものは何であったのであろうか。いずれにしても、驚くべき巡拝度数の多さである。
 ところで明治28年の時点で、これだけの人名と度数が、よく調査できたものだと思う。編輯(へんしゅう)兼発行印刷者は「佐藤熊五郎」と記されている。彼は何を基にこれだけの記録ができたのであろうか。そのあたりの調査結果はまだ出されていないようである。喜代吉氏は、茂兵衛が136度を超えて137度巡拝を記録した時点で出されたと書いている。そうだとすれば、茂兵衛も資料提供者であったのかもしれない。なお、喜代吉氏は、100度以下の人たちについても、95度の山口県の楠宗次郎、74度の筑前博多の喜作、32度の美濃国の関戸法雲などに触れている(⑬)が、まだまだ明らかにされていない人が多いようである。