データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)旧西条市内の商店街

 ア 商店街の変遷

 旧西条市の商店街は、藩政の初めに大町(おおまち)から商人を城下町に移したことに由来する。昭和初期まで商店街の中心は本町と東町であったが、昭和10年(1935年)ころから東町と紺屋町に移っていった。戦後の混乱期が過ぎた昭和28年(1953年)には、紺屋町南端にあった光明寺が大町字下町(しもまち)に移転し、紺屋町以南の栄町や登道の商店街が活況を呈するようになった。昭和30年代半ばころからは、栄町筋を中心として紺屋町、東町、登道、駅前西大通りなどが細長い商店街を形成するようになった。

 イ アーケードができたころ

 駅西に住み、栄町商店街や紺屋町商店街、東町商店街を通って通勤していたAさんは、アーケードができたころの商店街の思い出について次のように話してくれた。
 「栄町や紺屋町の商店街に行かないと欲しい商品がなかったので、アーケードができる以前も人通りは多かったと思います。当時は、用のない人も商店街を歩く、という時代で、若い人は『銀ブラ』ではないですが、街の中を上(かみ)から下(しも)まで散歩がてらに歩く人がいたことを憶えています。商店街の通りにアーケードができたのは、昭和30年代から40年代ころのことだと思います。アーケードがないころは雨が降るとずぶ濡れになり、不便を感じていたので、アーケードができて、さらに道路がカラー舗装(タイル貼り)されると『立派になった』と思いました。」
 商店街のアーケードは、登道商店街が昭和37年(1962年)、紺屋町商店街が昭和38年(1963年)、栄町上組商店街が昭和43年(1968年)にそれぞれ完成した。また、昭和46年(1971年)には、紺屋町商店街と中央商店街に新アーケードとカラー舗装が完成した。カラー舗装は、昭和40年代から50年代にかけて栄町商店街など、ほかの商店街でも順次整備されていった。現在は、商店街の一部が再開発されて、紺屋町商店街や中央商店街が商店街としての命脈を保っているが、栄町商店街や登道商店街はシャッターを下ろしている店も多く、昔の面影はない。 

(2)商店街の移り変わり

 登道商店街で生まれ育った西条史談会のDさんは、戦中、戦後から現在にかけての登道商店街をはじめ、栄町、紺屋町、東町の各商店街の移り変わりを見てきた。登道商店街を中心に、各商店街の移り変わりについて話を聞いた。

 ア 戦前からある商売

 「酒屋さんは息が長く、戦前から現在まで続いています。商店街の酒屋さんとしては栄町の下の方に明治屋さんという大きなお店があり、食料品もずいぶん売っていますが、贈答品の販売が中心となっています。登道には、西条魚市場(文野(ぶんの)魚市場)のすぐ西側に、戦争中から営業を続けている佐竹酒店さんが今もあります(図表1-1-2の㋐、㋑参照)。また、今でも登道には営業を続けている呉服店があります。昔は、どちらかというと着物を着ることが多かったので、呉服店の数が現在よりはやや多かったのだろうと思います。河原呉服店は首藤印刷の隣にありますが、昔からあったように思います(図表1-1-2の㋒、㋓参照)。また、登道商店街にあったちゝ婦(ぶ)屋呉服店は栄町上組商店街に移転しましたが、引き続き登道商店街でちゝぶや寝具店を開いていました(図表1-1-2の㋔参照)。栄町上組商店街のちゝ婦屋呉服店は平成に入るころまで営業していましたが、お店のあった場所は現在空き地になっています。登道商店街を少し西に外れた所に、昔から変わらず今も営業している西条魚市場があります(図表1-1-2の㋐参照)。この魚市場は、歴史が古く、私が知っているだけでも3代続いています。西条のもともとの魚市場である北浜の魚市場、あるいは漁師町との昔からの付き合いの関係から、西条祭りのときには、北浜の神輿が必ずここで休憩をとっています。私が子どものころから、神輿が魚市場の広くなっている所で休憩し、かき夫が昼食を摂っている姿をよく見かけていました。登道商店街の入り口の南側には、石川製氷店の隣に藤田鮮魚店がありましたが、現在は店を閉めています(図表1-1-2の㋕、㋖参照)。」

 イ 戦後栄えた商売

 「電気製品を販売する店は昔からありましたが、戦後になると、良い品物が店頭に並び始め、電器店が充実してきました。ナショナルや日立、サンヨーなど、いろいろな大きいメーカーができて、それらの製品を販売する電器店が増えてきたと思います。そのほか、戦後には、パーマ屋さんや化粧品店が増えました。人々のくらしがだんだんと豊かになり、女性のニーズが高まったことから、化粧品店も戦前より多くなり、立派な化粧品が店舗に並ぶようになりました。東町には市内の商店街の中でも大きな化粧品店がありましたが、今はお店を閉めているようです。」

 ウ 戦後、規模の縮小や閉店をした店

 「家具店は昔からありましたが、結婚の際の持参品が変わってしまったことから、店を縮小したり閉めたりした、という話を聞きます。家具店は、西条市内の商店街を見ても、非常に少なくなりました。登道商店街にある藤田家具店は、それほど古くからある店ではなかったのですが、家具店で間口が広いため、現在は町内のだんじりを格納したり、青年団の集会場や商店街のイベントを準備する場所として利用されたりしています(図表1-1-2の㋗参照)。また、昔は、写真館が商店街の中だけに限らず、方々にありました。その写真館がなくなって今はカメラ店が増え、現在、登道商店街にはハルキフォートと椿本カメラの2軒のカメラ店があります(図表1-1-2の㋘、㋙、1-1-3の㋐、㋑参照)。」

 エ 商店の変遷の背景

 「人々の生活の移り変わりによって、商売そのものも業種がだんだんと変わってきています。西条の商店街をみても、多くのお店がシャッターを下ろしお店を閉めている、ということ自体が、生活の移り変わりが激しいことの表れであると思います。商店街は人々の生活状況に大きく影響を受けて、非常に変遷が激しいということです。
 現在、栄町の方では古くなった商店が更地になり住宅が建てられているのを見かけますが、商店街のありさまも大きく変わってきたと思います。」

(3)登道商店街での営業

 BさんとCさん御夫婦から、登道商店街の移り変わりや電器店を営んでいたころの思い出について、Dさんから登道商店街が賑わっていたころの思い出について、それぞれ話を聞いた。

 ア 登道商店街の現況-昭和41年と比べて-

 「昭和41年(1966年)には、登道商店街の入り口近く、通りの東側にハルキフォートという写真店がありましたが、今は西側に移っています。椿本カメラは洋品店でしたが、代替わりした昭和30年(1955年)ころからカメラ店も始めました。サニー美容室は、昔はケイパーマという店名で営業していましたが、店名が変わりました(図表1-1-2の㋚参照)。そのケイパーマは、登道商店街にある箪笥(たんす)店の娘さんが始めたお店で、サニー美容室はその娘さんの親戚の方が今でも営業をしています(図表1-1-3の㋒参照)。現在、藤田電機の向かいにある内田美容室は、以前は内田パーマといって、同じく商店街の西側にお店がありました(図表1-1-2の㋛、1-1-3の㋓参照)。
 首藤印刷やその隣にある河原呉服店は今でも活発に営業をしています。また河原呉服店より栄町の方へ数軒先に行くと松葉家がありましたが、今は私の家の北隣りに移って来ています(図表1-1-2の㋜、1-1-3の㋔参照)。松葉家の所からは町名でいうと栄町上組になります。河原呉服店の斜め前には、かつて藤田酒店がありましたが、今は新聞販売店になっています(図表1-1-2の㋝、1-1-3の㋕参照)。
 その隣が食品モリヤマ(森山商店)で、今でも野菜などの販売をしており、御主人は、私(Bさん)より御高齢です(図表1-1-2の㋞参照)。昭和41年(1966年)には、藤田電機から1軒おいて南側には西原理髪店がありましたが、その後、白馬というレストランに変わりました(図表1-1-2の㋟、1-1-3の㋖参照)。」

 イ 藤田電機店の歴史

 「私(Bさん)が電器店を始めたきっかけは、若いころからラジオの組み立てなど、電気製品で遊ぶことが好きだったからです。藤田ラジオ店を川原町で開いたのは昭和27年(1952年)で、登道商店街に移ったのが、松山(まつやま)のNHKがテレビ放送を開始した昭和32年(1957年)でした。
 最初は、店でラジオを組み立て、製品として完成したものを購入してくれたお客さんに渡していましたが、お客さんは組み立てが終わるまで待ってくれることが多くありました。そのうちに、電気アイロンや電気釜、洗濯機、冷蔵庫などが出てきて、その後、テレビ放送が始まりました。
 昭和38年(1963年)ころ、幼稚園の先生の月給が5千円くらいであったのに対し、冷蔵庫が3万8千円もするなど、電気製品は高額でした。販売は売掛で行うことが多く、盆と暮れに売掛金を回収していましたが、回収不能になることも多くありました。その後、クレジット払いが行われるようになり、契約書を作成するときに、現金での支払いを提案すると、『自分を信用してくれないのか。』と言うお客様がいたことを憶えています。同じ年に、登道商店街の今の場所へ移り、それに合わせて店を株式会社にしました(図表1-1-2の㋠参照)。当時の新装開店祝の写真を見ると、表示してある冷蔵庫の価格が分割払いの価格になっていました。店では、セールス担当の人を雇っていました。私が若いころには、西条近辺だけではなく、松山の三津(みつ)の方まで、広くお得意さんがありました。テレビを早くから扱っていたので、多くのお客さんに購入していただき、山の方や島の方など、いろいろな所へ届けていました。昭和30年代、大保木や加茂に住んでいる方の家までテレビを届けたときには、路面の状況が悪い所が多く、車では運べないので、購入した家の人が背負って家まで運んでいたことを憶えています。山ではテレビの電波が届かない所が多く、アンテナを立てて映る場所を探るのに非常に苦労しました。そのため、山では共同聴取といって、1本のアンテナを電波が届く山に立てて、その電波を増幅して家に引っ張るというような方法を取っていました。最近では電気製品の大型量販店が市内に進出してきたこともあり、平成に入ってからは、私の息子がパソコンを主体とする店に変更しています。」

 ウ 商店街が賑わっていたころの記憶

 「昭和30年代から40年代、商店街の近くには朝日館やミリオン座、近松座などの映画館や劇場がありました。大保木や加茂に住む人々も映画鑑賞のためにバスに乗って来ていました。登道のバス停で降りて、登道商店街の入り口から商店街の中を通って映画館へ行き、映画が終わると商店街で食事をしたり買い物をしたりしていました。大勢の人が映画を観(み)に来ていたので、商店街にも活気があったことを私(Dさん)は憶えています。」
 「昭和40年代後半から50年代にかけて、アクセサリーなどを売っている小間物屋があり、高校生や中学生がよく買いに来ていたので、若い子で賑わっていたことを私(Cさん)は憶えています。そのころは、今と違って商店街には民家が少なく、商店がほとんどで、デパートなどがあったほか、商店街の近くには映画館などの遊興施設もありました。」

図表1-1-2 昭和40年ころの登道商店街

図表1-1-2 昭和40年ころの登道商店街

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-1-3 現在の登道商店街

図表1-1-3 現在の登道商店街

愛媛県立西条高等学校 地域・歴史研究部による調査をもとに作成。