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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)戦前の松前港とからつ船

 ア 東レ誘致前の松前港

 「昭和12年(1937年)に東レが誘致されるまでの松前港は、国近川と長尾谷川から流れて来る土砂が堆積して大きな中州が形成されていて港の入り口が狭く、本当に小さな港だったことを私(Aさん)はよく憶えています。また、干満時それぞれの風景が全く異なっていたのも昔の松前港の特徴です。干潮時には潮が200mくらい沖の方へ引いて遠浅の状態(海や川の岸から遠方まで水の浅いこと)になり、新立から本村(ほんむら)まで歩いて渡ることができるほどでした。当然船は沖の方の波打ち際に停泊させなければならず、漁から戻って来た人々は遠浅になった所を歩いて帰って来ていました。満潮時には、潮が満ちて新立から対岸の本村までの幅が25mくらいになったので、そのときには何度か泳いで渡ったことをよく憶えています。しかし、港の改修工事が繰り返し行われた結果、そのような風景を見ることはなくなってしまいました。
 なお、現在東レの工場がある場所は、松前港に堆積していた中州の土砂を利用してできた埋め立て地です。飛島組という浚渫(しゅんせつ)会社が、浚渫船から大きなサンドパイプを松前港に設置して、土砂を誘致場所までどんどん運び込んでいました。その当時、私は友人たちとサンドパイプの近くでかくれんぼなどをして遊んでいたので、その光景はよく憶えています。浚渫作業が終わると中州がなくなっていたので、港が本当に広くなったように感じました。」
 付記 国近川は、もともと東レの西側を南へ流れて松前港へ注いでいたが、昭和30年代後半から40年代にかけて行われた筒井(つつい)地区の圃(ほ)場整備事業と同時に伊予灘へまっすぐ流れるように流路が変更された。

 イ からつ船

 陶磁器(からつ)を積み、販路を遠隔地に求めて行商する帆船のことを松前地区では「からつ船」や「五十集(いさば)船」、「わいた船」と呼んでいた。「五十集船」とは五十集物(干魚や塩物などのこと)を運送する船のことをいい、「わいた船」とは行商中に寄港した場所で陶磁器の大安売りをして賑わった様子から付けられた呼称である。砥部の窯元から直接買い込んだ陶磁器を大量に積み込み、大体年3回、定期的に航海に出た。からつ船の構造について、Aさんは次のように話してくれた。
 「からつ船は風の力で動く帆船で、船の中は機関室と『からつ』を入れるための荷室がいくつかあるだけでした。荷室の天井部分は蓋になっていて、神輿(みこし)の館の屋根の形をしていたので、からつを搬入したり搬出したりする際には、その蓋を取り外した状態で行っていたことを憶えています。
 私はからつ船に乗って行商をしたことはありませんが、船の上から海に飛び込むという遊びを子どものころ(昭和10年代)はよくしていました。二つある帆のうち、後ろの帆の辺りに登って立ち、そこから何回でも海に飛び込んだものです。」
 付記 『松前史談第6号』に高木辰男さんが寄稿した「新地界わい」によると、「初めのころは五十集船で商売に出かけていたが、後に機帆船へと変わっていった。(中略)イサバは昭和11年(1936年)ごろ、機帆船は昭和15年(1940年)ごろ戦争が激しくなりやめていった(⑥)。」という。

(2)陶器問屋が並んでいた住吉通り

 Aさんは、「私たちは、住吉神社に続く道ということで、陶器問屋が多く並んでいた通りのことを『住吉通り』と呼んでいました。陶磁器は砥部街道(現県道214号)を通って馬車で運ばれ、陶器問屋に到着したらまず倉庫に一旦搬入し、からつ船が港に停泊したときに陶器店の方が陶磁器を担いで積み込んでいました。」と話す。住吉通りとは新立地区の海岸から一本東側に南北に走る道のことで、からつ行商の最盛期である明治から大正時代にかけては陶器問屋が軒を連ねていた(図表1-2-4参照)。昭和20年代の住吉通りの様子について、次のように話してくれた。
    
 ア 昭和20年代の陶器問屋

 (ア)金井陶器店 

 「卸専門のお店で、砥部焼の窯元と提携して兄弟で商売を行っていました(図表1-2-4の㋐参照)。新立地区にある店舗の中では販売せず、出店(でみせ)で販売していました。いつのことだったか私の所に来て、『田んぼを貸してほしい。』と頼むので貸してあげたところ、そこに家を建て、陶磁器の販売を行うようになったことをよく憶えています。
 出店での販売以外ではからつ船での遠方への販売が中心で、瀬戸内海の島々を廻って販売する方法と県外へ販売しに行く方法との二通りがありました。からつ船は金井陶器店が独自に所有しているものではなく、網元が所有する船を契約して使わせてもらっていました(図表1-2-4の㋑参照)。新立地区の人々の生活は昔から漁業が中心です。個人営業で、自分が所有する小型の機帆船を活用して主にエビこぎ漁を行っていたので、かなり多くの船が港に停泊していました。新立地区に陶器問屋が数多く集まって来たのも、網元と提携すれば船が活用できたからです。これはどの陶器問屋も同じで、からつ船を自分で所有しているという所はありませんでした。
 また、建物は東西に長く、東側(住吉通り側)が事務所、西側(港側)が倉庫になっていて、倉庫の入り口から船の停泊場所までの距離は現在の道幅と同じで、全く変わっていません。その距離を、陶磁器を担いだ人たちが歩いて往復していた光景を私はよく憶えています。また、船が出航する前日には、商売繁盛と家族の無事を願うために祝宴が開かれていました。八幡浜(やわたはま)の方でもトロール船が出港する前日に祝宴を開きますが、それと同じです。私は金井陶器店の方とは親戚で、私の父親が祝宴によく呼ばれていたので、私もついて行って御馳走(ごちそう)をいただいたものです。
 住吉通りの一番北にあった阪井陶器店も金井陶器店の親戚で、戦前にはすでに洋品店に変わっていました(図表1-2-4の㋒参照)。その理由は分かりませんが、おそらく洋服が普及していく中でその販売に専念することを決め、陶磁器の販売については金井陶器店に任せるようにしたのではないかと思います。
 これは戦後のことですが、私が松前小学校に勤務して社会科主任を務めていたとき、校内に郷土室を作りました。松前町内の多くの方々に協力していただき、展示する郷土資料を集めましたが、金井陶器店の方が、『これは砥部で最初に作られた陶磁器です。』と言って貸してくれたことをよく憶えています。展示中に割れてしまってはいけないのでお借りしたのはわずかな期間ですが、この陶磁器は今でも金井陶器店に保管されていると思います。」

 (イ)兵頭福松商店

 「このお店は、金井陶器店と同様に兄弟で陶磁器の卸販売を専門に商売をしていました(図表1-2-4の㋓参照)。戦前はからつ船での陶磁器販売が中心で、店舗が海に面していないので、陶磁器をからつ船に搬入するときには、いつも金井陶器店の北側にある細い道を通って陶磁器を運んでいたことをよく憶えています(図表1-2-4、写真1-2-3参照)。この道幅も昔と全く変わっていません。戦後には、美術の授業で使用するための陶器のお皿の販売を専門とするようになり、各学校を訪問して契約をしていました。」

 (ウ)沢井陶器店

 「沢井陶器店は、兵頭福松商店のすぐ北側にありました(図表1-2-4の㋔参照)。住吉通りに面した所が店舗で、そこから東に2軒離れた所が自宅でした。沢井陶器店が営業をしていたのは戦前までで、戦後はやめていたと思います。」

 (エ)個人でからつ行商を行う

 「金井陶器店から5軒ほど南に、からつ行商を行う個人経営のお店がありました(図表1-2-4の㋕参照)。そのお店の歴史までは分かりませんが、北海道や九州のような遠方へ行商をしに行くのではなく、瀬戸内海の島々を船で廻られていたと思います。」

 イ 儀助煮の製造、販売

 「私が子どものころにはすでに製造・販売をされていたので、旧松前町でのお店の元祖だと思います(図表1-2-4の㋖参照)。儀助煮(ぎすけに)というのは、芋けんぴくらいの大きさの小魚を煮て、青のりなどをかけて炉の中で炙(あぶ)って乾かしたものです。子どものころ、このお店に行って儀助煮を食べさせてもらったことを今でも憶えています。
 儀助煮の販売は、おたたさんが行っていました。おたたさんは近所の家々や松山市など近距離で商品を売り歩いていましたが、自分が販売を担当するエリアが決まっていましたし、お得意さんもそれぞれで獲得していました。代金については、販売した商品の名前と金額を『通い帳』におたたさんが書き留め、それを基にしてお盆と節句の時期にまとめて支払うという形でした。新立地区は、かつては本当に松前の中心地で、お金持ちもたくさんいたことをよく憶えています。」
 付記 儀助煮という名称は、もともと福岡県の宮野儀助氏がつくだ煮の腐敗を防ぐ研究の過程で考案されたことから名付けられたものである。松前町で儀助煮の製造が始まったのは明治末期ころのことで、Aさんにお話いただいた方を含め3社で製造を開始した。戦時中は3社とも製造をやめ、戦後復活したが、新立地区の製造業者の方は間もなく廃業されたそうである。

 ウ 素潜りで護岸工事

 「陶磁器販売や漁業とは関係ありませんが、住吉通りの近くに素潜りで護岸工事などを請け負う方がいました(図表1-2-4の㋗参照)。東レが誘致されてから何回か松前港の護岸工事が繰り返されましたが、その際には他の建築業者と一緒に護岸工事に従事していたことを憶えています。石垣を築造する際には、彼が素潜りで石を運んでいた様子を見たことがあります。瀧姫神社がある天保山から西側の海岸線付近に彼が築造した石垣が残っていて、今でも見ることができます。」

図表1-2-4 昭和20年代の住吉通り

図表1-2-4 昭和20年代の住吉通り

聞き取りにより作成。

写真1-2-3 陶磁器を運んだ細道

写真1-2-3 陶磁器を運んだ細道

平成29年9月撮影