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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3章 朝立の町並み

 三瓶(みかめ)町朝立(あさだつ)の町並みは、古くからある本町周辺、塩田(しおた)町の商店街でアーケードのある銀天街(ぎんてんがい)、それに直交する非常に広い通りの大街道(おおかいどう)、銀天街と並行している立花通りが主だった所であるが、これらの土地は、『三瓶町誌上巻』に「藩政時代は、藩主が石高を増すために埋立てに対して奨励策をとるようになり民間人による意欲的な埋立工事が相次いで行われた(①)。」と記載されているように海岸の浅瀬を埋め立てて造り出されたもので、現在の三瓶二区(本町)の大部分(国造(くにつくり)神社の数軒西側から海岸住宅地まで)も幕末に造成された土地で、菅新地(かんしんち)と呼ばれている。
 明治維新以降も埋め立ては続いた。塩田町銀天街アーケード北端辺りから大街道との交差点辺りまでの海側の土地は朝屋(あさや)新地と呼ばれる埋立地で、明治39年(1906年)に造成が完了した後、埋め立てをした朝井猪太郎が、「土地を貸し建物に対しても金を貸し、更に営業の資金も融通して(②)」繁華街を形成していった。さらに、現在の大街道から朝立川までの間の塩田町銀天街辺りから海側は塩田新地と呼ばれ、大正時代に三好勘三郎によって埋め立てられた土地である。これらの埋立地に商店が立ち並び、時代とともに推移してきた。
 さらに、大正時代に始まる三瓶織布株式会社から入山綿布株式会社、そして酒六織布へと受け継がれた地元の繊維会社のみならず、昭和初期の県外資本である近江帆布(のちに朝日紡績、敷島紡績、伊予紡績、喜福工業と変遷)の大規模工場は、女性工員だけで1,000人を優に超える従業員を抱え、戦前戦後の三瓶町の経済の中核を占めていた。それらは昭和50年代に相次いで撤退廃業をしたが、その後も水産業や畜産業の振興などにより、町は賑(にぎ)わいを見せていた。
 本節では、昭和40年(1965年)にアーケードができ、銀天街と呼び始めたころを中心に、終戦前後から昭和末期ころまでの町並みについて、地域の方々から話を聞いた。

聞き取り調査協力者
 Aさん(大正15年生まれ)、Bさん(昭和7年生まれ)、Cさん(昭和7年生まれ)、Dさん(昭和11年生まれ)、Eさん(昭和12年生まれ)、Fさん(昭和19年生まれ)、Gさん(昭和22年生まれ)、Hさん(昭和22年生まれ)、Ⅰさん(昭和24年生まれ)