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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)くらしの風景

 ア 忙しい生活の中で

 「私(Hさん)の母は松本洋品店で働きながら、私たち兄弟4人の世話と家事を同時にしなければならず大変だったので、父が、『何を勘弁してでも買うてやらないけん。』と言って、時計会社のシチズンが取り扱っていた丸い形の洗濯機を購入して母にプレゼントしました。それは昭和30年(1955年)よりも前のことで、おそらく三瓶町で一番早かったのではないかと思います。
 私が小学生のころだと思いますが、卸屋さんの招待で松山(まつやま)市へ家族旅行をしたことがあります。『あの時のオムライスは、おいしかったわねぇ。』と私が言った時、『そがいな(そんな)ことを憶えとるの。』と母に驚かれてしまいましたが、普段は店勤めが忙しく、ほとんど家族旅行をすることなどなかったので、よく憶えているのだと思います。
 松本洋品店の隣にあったタバコ店の方には、私が幼いころ大変お世話になったこともよく憶えています。その方にはお孫さんがいなかったので、私が行くといつも御飯を食べさせてくれ、本当の孫のように大切にしてくれました。
 このように、昔は地域の人々が子どもを育ててくれていました。互いに忙しいこともあり、助け合うということが当たり前にできていたのでしょう。」

 イ 三瓶町の地域性

 「非常に景気が良いころのことですが、三瓶町の人々はお金の遣い方が非常に派手でした。年末や大みそかには、朝の早い時間から買い物に行かなければ、買いたいものを買うことができませんでした。それだけ購買力があったのだと思います。一方、正月休みに宇和町に新しくできたスーパーマーケットに行くと、商品が大量に残っていて、安い値札に貼り替えていることがありました。その時私が、『どうしたんですか。』と尋ねると、店の方が、『浜の方(三瓶町)と同じ売れ行きのつもりで仕入れたら、売れ残ってしまったんですよ。』と教えてくれました。宇和町よりも売れ行きが良かったということは、宇和町と比較して当時の三瓶町は本当に経済力があり、人々の羽振りもよかったのだと思います。これも三瓶町の地域性といえるのではないかと思います。」

 ウ 夫の子どものころ、若いころ

 「昭和10年(1935年)生まれの私(Eさん)の夫に聞いたところ、実家の食料品店が農家の方から仕入れた野菜などを運搬するときには、自動車ではなくリヤカーを使用していたそうです。そのころ夫は小学生で、ソフトボールの練習中に、『ちょっと来てくれや。野菜取りに行くけん。』と父親が呼びに来ると、『また来たのか』と思いながらも練習をやめて手伝ったと聞いています。当時は、親の手伝いをすることが当たり前で、ましてや親に文句を言うことができない時代だったので、すぐに手伝っていたのでしょう。
 夫は7人兄弟の二番目で、祖母と義父の妹もいる大家族の中で育ちました。食事のときには兄弟で争って食べていたそうで、お正月に餅を炊くときには一鍋に餅を60個入れて炊いても子どもたちがどんどん食べてしまうので、義父母が、『私らが食べる分がなくなったが。』と嘆くことがよくあったそうです。
 また、夫が中学校を卒業した昭和25年(1950年)ころはサバ船景気で、周木だけでも7、8隻のサバ船が停泊していて、夫は卒業するとすぐに親戚が所有するサバ船に乗り込みました。しかし、サバ船が韓国水域で拿(だ)捕されるという事件が相次ぎ、夫が乗り込む予定の船も拿捕されたのですが、その時はたまたま体の調子が悪く、夫は乗船していませんでした。後に夫は、その時のことを友人たちから、『体調が悪くて船降りとったが、お前は良かったな。生き運があった。』と言われたということを、繰り返し何度も私に話してくれました。」

 エ 英語の塾

 「私(Fさん)は、小学校高学年のころ(昭和30年〔1955年〕ころ)に三瓶簿記珠算学校へ英語を学びに通ったことがあります(同じ教室を利用して珠算と英語を教えていた)。ところがしばらくして担当の先生が来なくなったので、すぐ近くにあった英語塾へ通い直しました。先生はいつも和服をきちんと着こなし、一見、お華かお茶の先生のような雰囲気をもち、すらっとした体形で、細面の美しい方でした。先生の家は小さく、玄関から入ってすぐの所にある四畳半ほどの狭い部屋で、3、4人の小学生が時に隣同士つつき合いながらも、『This is a pen. Jack is a boy.』と習いました。
 先生は、昭和49年(1974年)の愛媛新聞連載の『女の地図』という愛媛の女性を紹介する連載の候補にもなっていたそうです。残念ながら掲載はされませんでしたが、そのくらい人望があった方だったのだと思います(図表1-3-2の㋦、㋧参照)。」

 オ クラゲの思い出

 「豊島医院は、私(Fさん)が小学生のころ、クラゲに刺された時にお世話になりました。当時、私は夏休みになるとほぼ毎日、まだ舗装されていない道を30、40分かけて、二本松(にほんまつ)の海水浴場まで歩いて行っていました。昭和30年(1955年)前後のことなので、たまに通る車の砂煙でほこりまみれになったものです。
 クラゲに刺された時は台風の余波で少し波があり、海水も濁っていたのですが、『せっかく来たのだから』と考えて泳ぐことにしたのです。しばらくすると腿(もも)の付け根辺りと腕の裏側辺りがひりひりと痛み出しました。痛みを感じる所を見ると、一本の線になって何か茶色の紐(ひも)状のものがくっついていました。一緒に泳いでいた兄も同じような状態になり、『クラゲだ。』と私に言いました。急いで陸(おか)に上がり、裸のままで走って家まで帰りましたが、痛みが次第にひどくなり、最後には兄に背負われて一番近くにある豊島医院に直行しました。いつもお世話になっている井上医院とは200mも離れていないのに豊島医院に直行したのは、悲鳴を上げている私を一刻も早く医者に診(み)せたいという兄の必死の思いだったに違いありません。豊島先生は、赤く線状に腫れ上がった腿に張りついているクラゲの一部を手際よくはぎ取り、その局部に注射を打ってくれました。そのおかげか、翌日には生まれ変わったような気分で朝を迎えました。豊島医院が閉院してから何十年も経っているにも関わらず、生垣や庭木の造りなど、昔のままで全く変わっていません(図表1-3-2の㋨、㋩参照)。」

(2)レール通り

 朝立にはかつて、「レール通り」と呼ばれ、トロッコが町内を横断して走っていた道があった。この通りの由来などについて、Bさんは次のように話してくれた。

 ア レール通りの歴史

 「このレールを敷いたのは、恐らく近江帆布を誘致した時(昭和3年〔1928年〕)からだろうと言われていて、その時には輸送するものが船しかありませんでした。現在のJA営農管理センター付近は道というより岸壁で、この岸壁に起重機を置いて船から原綿を下ろし、トロッコで紡績工場まで運搬していました。トロッコのレールは、伊予紡績と酒六織布とに入る2本がそれぞれ敷かれていたという話ですが、私は伊予紡績までつながるレールのことしか憶えていません。しかし、2本あったということは、それぞれの工場が活用していたのだろうと思います。トロッコは最初気動車(エンジンを搭載した車両のこと)で牽(けん)引されていましたが、いつのころからか三輪自動車が牽引するようになっていました。
 このトロッコは、恐らく昭和38年(1963年)ころまで使用されていたと思います。その後、原綿等の運搬はトラックを利用するようになりました。塩田町商店街から海側辺りでは、昭和50年代まではレールがそのまま残っていました。しかし、レールの上から舗装していただけだったので、数年前に掘り起こして撤去した所もありますし、今も埋まったままの所もあります。そのような所は、レールの跡がうっすらと見えています(図表1-3-2参照)。」

 イ 度胸試し

 レール通り沿いでくらしていたⅠさんは、原綿を運搬する様子や子どもの遊びについて次のように話してくれた。
 「船から起重機で下ろすとき、原綿はむき出しのままで幅の広い針金と鉄製のベルトのようなものでしっかりと固定されていて、近くに寄ってみると原綿の匂いがしていたことをよく憶えています。トロッコは幅1.5mほどしかなく、原綿を横積みにして3段くらい積んでいたので、トロッコからかなりはみ出していて、高さもかなりありました。気動車が牽引して工場まで原綿を運搬していましたが、かなりの数のトロッコが連結されていました。
 私の実家がレールの側(そば)にあったので、小学生のころにはトロッコに飛び乗ってよく遊んでいました。起重機の近くでは見つかってしまうので、レールが直線になった瞬間に飛び乗ります。積み荷の幅が広く、高さがあるので、トロッコの真後ろにしがみつくと運転席からは全く見えませんでした。そして、現在の三瓶小学校正門付近でレールが大きく左に曲がる所辺りに差し掛かると、運転席から後ろが見えるようになるので、その前に飛び降りて、『どんなもんだ。』と言って度胸試しをして、よく遊んでいました。
 レールは塩田町商店街と三瓶小学校正門との中間点あたりで分岐し、一方は酒六織布工場の通用門の方へ延び、もう一方は現在の三瓶小学校正門付近から大きく左へ曲がり、大街道から延びる道が当時の敷島紡績の敷地に突き当たる辺りにあった正門付近へ延びて、さらにそこから工場の敷地内に入って奥の倉庫群まで続いていました。また、酒六織布の正門は敷島紡績の正門と向い合せの位置にありましたが、真向かいではなく、敷島紡績の正門から20、30mほど北側にありました(図表1-3-2参照)。」

 ウ 危険なレール通り

 Dさんは、レール通りで起きた事故について次のように話してくれた。
 「レール通りで鉄工所を経営していた私の義祖父(配偶者の祖父)が、『自分の目の前でトロッコにひかれた子どもを抱き上げ、病院まで走ったことがある。』と私に話してくれたことがありますし、義父も義母も私に、『子どもから目離されんぞ。気を付けとかんといかんぞ。子どもが外へ出たぞ。』とやかましいくらいに言ってくれていたことをよく憶えています(図表1-3-2の㋞、㋪〔両者を合わせた範囲がかつて鉄工所だった〕参照)。
 ある時、子どもの保護者同士の会話の中で、義祖父が私に話してくれた方とその時のことについて話したことがあります。その方は私と変わらない年代で、今でも足にギプスをつけているということでした。
 当時のことを振り返ると、原綿を大量に積んだトロッコがレール通りを走るときには、チンチンという警笛音がよく聞こえていましたし、港と工場との間を早いスピードで、我が物顔で走っていたような印象があるので、事故がよく起こっていたのでしょう。」


<参考引用文献>
①三瓶町『三瓶町誌 上巻』 1983
②三瓶町、前掲書

<その他の参考文献>
・三瓶町『三瓶 町勢要覧1970』 1970
・三瓶町『続三瓶町誌』 2004