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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 城川のくらし

(1)戦中・戦後のくらし

 ア 冬場の仕事

 「冬場に雪が積もると、外で仕事をすることができなくなったため、私(Bさん)の親は家の中で、自分や子どもたちが使う草履をよく作っていました。また、当時は、まだ炭焼きが盛んに行われていたので、お年寄りは、『ダス』と呼んでいた、炭を入れるための俵を編んでいたほか、筵打ちもよく行っていましたが、これは2人でなければできない作業でした。」
 「私(Cさん)が子どものころ、冬場になると、家では保存の利くらっきょうや沢庵(たくあん)、梅干しなどの漬物類をよく作っていました。また、燃料には薪(まき)を使っていて、春先から12月ころまでは山から切って来た木で薪をたくさん作り、母屋とは別の『木小屋』と呼んでいた建物に積んで置いていたことを憶えています。」
 「私(Aさん)の家では、冬場になると父がよく草履を作っていました。私の家のある長崎から土居公民館までは8kmくらいありますが、当時は、そのくらいの距離であれば当たり前のように歩いていたので、草履が1日に1足は必要でした。今の子どもたちには考えられないと思いますが、私が子どものころは、よく裸足で外を歩き回っていて、牛の餌となる草を刈るときには裸足になっていましたし、学校(土居村立窪野国民学校)へも裸足で通っていました。当時は戦時中だったので、学校に着くと、まず、運動場にあった奉安殿に向かって頭を下げて、それから足を洗って校舎に入っていました。」

 イ 小学校のころの思い出

 「私(Bさん)が卒業した小学校(土居村立土居小学校)は、戦時中は国民学校(土居村立土居国民学校)という名前でした。当時、金属類を供出するように命じられ、学生服の金ボタンまで供出しなければならなかったため、木製のボタンを付けていたのですが、木製のボタンは、春の彼岸ころになると乾燥し割れたりすることもあったことを憶えています。その当時は、まだランドセルの鞄(かばん)などはありませんでした。嘉喜尾などの遠方から通学していた子どもたちは、草履を1足持って来ていました。また、雨が降ると、学校から裸足で家へ帰る人が多くいました。土居の町の方に住んでいる人の中には、下駄(げた)を履いて通学する人もいましたが、その下駄も自分の家でマツの木から作った重いものでした。学校では、家から学校までの距離が遠い人から順番に靴が配給されていましたが、使い古して履けなくなったような地下足袋を持参しなければ交換してくれませんでした(写真2-2-7参照)。」
 「私(Cさん)の同級生にも遠方から通学していた人がいましたが、家では自分で草履を作っていたそうです。学校へ草履を履いて通学し、帰りは行きに履いてきた草履は履きつぶしたため、持参していた新しい草履を履いて帰っていました。私が小学校(土居村立土居国民学校、土居小学校)へ通っていた時分は、靴も配給具の一つでしたが、1学級で10足分くらいしか支給されず、全員には行き渡りませんでした。そのため、靴は体の弱い子や遠方から歩いて通学していた子を優先して配られていました。当時、靴の品質はそれほど良いものではなく、靴を曲げているとパッキンと割れてしまうといったことがよくあったことを憶えています。また、私の父親は戦死したのですが、土居の町から省営バス(後の国鉄バス)で出征しました。出征する方々を見送りに来た人たちは皆、日の丸の小旗を振って見送っていたことを憶えています。そのときは今のAコープの前辺りで見送ったように思いますが、学校で見送っていた地区もあったかもしれません(写真2-2-8参照)。」

 ウ 季節労働

 「昔は、宇和まで田植えに出掛けている人もいました。また、牛を使ってこちらでの農作業が終わると、博労さんは田植えに使われた牛を農家の方から買い取って、全て宇和へ連れて行っていました。それらの牛は、ふだんから田植えなどの農作業に慣れていたので、扱うのはとても楽でした。当時は、農業機械がまだ普及しておらず、田植えは宇和を含めてどこでも手植えで行われていたため、多くの人手を必要としていました。こちらから宇和へ出掛けていた人のほとんどは、田植えが終わるとまたこちらへ戻って来ていましたが、私の近所の人の中には、1か月くらい宇和へ出掛けていた人もいました。また、立間(たちま)(現宇和島(うわじま)市吉田(よしだ)町立間)までミカンの収穫の時期に出て行く男衆(おとこし)さんたちがいました。」
 「昔は宇和では溜(た)め池から灌漑(かんがい)用水を引いていたので、順番を決めて田植えを行わなければなりませんでしたが、この辺りでは川から灌漑用水を引いているので、宇和よりも早く田植えを終えていました。こちらでの農作業が終わった若い女の人が早乙女などに宇和へ出て行っていました。中には、それがきっかけで知り合った宇和の男性と結婚することになった人もいました。そうしたこともあって、宇和で田植えを終える時期は城川よりも遅かったと思うのですが、最近は早くなってきました。私(Bさん)の父も出征するまでは立間の加賀山さんという大きなミカン農家の畑へミカンの収穫に行っていました。」

 エ 役牛について

 「当時、山で伐採した材木は索道で運ばれていましたが、掛け飛ばしの索道が使われていたころは、材木が索道のワイヤーから落ちることがよくありました。その当時は、どの農家でも牛を2頭くらいは飼っていたので、牛を使って道路に落ちている材木を拾い集めていた人もいたことを私(Aさん)は憶えています。」
 「私(Cさん)の家でも牛を2、3頭飼っていました。話は変わりますが、三嶋神社の御田植祭りなどでも、昔は各農家で役牛として飼っていた牛を使っていたので、何の苦労もありませんでした。今はどの農家も牛を飼わなくなったので、畜産用の牛を使っています。当時は、牛が農作業に慣れていて作業行程を憶えていたので、牛の後を付いて行けばよいくらいでした。石塔というのは、石碑などのことですが、それを建てるために石材を運んだり、農耕をしたりしていました。昔、城川町にはマンガン鉱の一宝鉱山があり、そこではたくさんの坑木が必要でした。そこで、牛を使って、坑木にするマツやスギ、ヒノキの丸太をよく山から引っ張っていました。牛は利口なもので、買い主が牛をつないでおいて、夜、店屋(飲食店)で一杯やって酔ってしまっても、牛に『帰るぞ。』と言って、牛の尻尾を持っておれば、牛が家まで引っ張って連れて帰ってくれました。」
 「昭和30年代は、ほとんどの農家が農耕用の役牛や生産牛を飼っていて、春には、牛が稲架(はさ)掛けにつながれていたことを私(Bさん)は憶えています。また、当時はトラックがほとんどない時代だったので、木材や石材を運ぶときにも牛が使われていましたが、木馬に載せた木材や石材を牛が引っ張っている途中で木材などが落ちてしまうことがしょっちゅうありました。そうしたときには、今のようにレッカー車があるわけではなかったので、大きな牛にワイヤーを引っ張らせて運び上げていた人もいたことを憶えています。また、当時は、家で飼っていた牛を博労さんに売ると良いお金になっていて、農家の現金収入になっていました。」

 オ シイタケの栽培

 「城川町ではシイタケの栽培が盛んですが、私(Bさん)もかつてはシイタケを栽培していたことがありました。当時はまだ植菌(シイタケの種菌を原木に植え付けること)は行われておらず、鉈目(なため)といって、原木に鉈で傷を入れて、空中に舞っているシイタケの胞子が原木に自然に付着するのを待つという栽培方法でした。シイタケを栽培していた人の中には、シイタケ菌がうまく原木に付着してくれず、シイタケが生えてこないために生活ができなくなり、夜逃げ同然で出て行く人も多かったという話を聞いたことがあります。シイタケの人工栽培法を完成させたのが森喜作さんという方で、森産業(森産業株式会社)を創業しました。彼の銅像は、学生時代に人工栽培を志した大分県の大山(おおやま)町(現日田(ひた)市)に建てられています。」

 カ 一宝鉱山のこと

 「私(Bさん)の叔父は、若いころ九州の炭鉱で働いていたのですが、帰郷してから一宝鉱山に勤めていました。桑正株式会社が経営していた一宝鉱山はマンガン鉱を採掘していた鉱山で、当時は鉱山の景気が良かったので、一宝鉱山には城川町から多くの人が働きに行っており、多いときで300人くらいの労働者がいました。一宝鉱山ではマンガン鉱の採掘作業のときに粉塵(ふんじん)を吸い込んだために肺をやられて、珪肺(けいはい)(塵肺(じんぱい)の一種)になって亡くなった方も随分いました。今のようには規制が厳しくなかったので、防塵用のマスクなども付けずに作業をしていたのかもしれません。
 鉱山では山神祭りが行われていて、お祭りのために『桑正』の文字が入った法被(はっぴ)まで作られていました。また、鉱山が宇和島の融通座という大きな芝居小屋を借り上げて、東京や大阪の方から演劇団を招いていました。当時の鉱山長さんは人柄の良い、スポーツがとても好きな方でした。特に野球が大好きで、会社でノンプロの野球チームまで作っていました。また、鉱山長さんはあまりお酒を飲みませんでしたが、周りの人にお酒を勧めるのが好きな方で、会社の名前が入ったガラス製の銚子まで作っていたことを憶えています。」

 キ 出稼ぎについて

 「三八豪雪のあった翌年の昭和39年(1964年)には東京オリンピックが開催されましたが、東京オリンピックから大阪万博(昭和45年〔1970年〕開催)のころにかけて、この辺りでも冬場になると多くの人が出稼ぎに行っていました(図表2-2-3参照)。昭和45年(1970年)ころには、城川町が出稼ぎ者対策協議会という組織を設けたと思います。出稼ぎ先としては、大阪や神戸など関西地方の建設業の会社が多かったことを憶えています。当時、町の職員が出稼ぎ先へ慰問に行っていて、私(Cさん)も何回か大阪や京都へ慰問に行ったことがありました。5、6人のグループで同じ会社へ出稼ぎに行くこともありました。当時は、城川町から本当に多くの人が出稼ぎに行っていました。各家庭の大黒柱が出稼ぎに行き、残された母ちゃんとじいちゃんとばあちゃんが農業をすることを三ちゃん農業と呼んでいましたが、その時分からだんだんと農業が衰退していきました。昭和38年(1963年)ころになると、中学校を卒業後、高等学校へ進学する人が増えましたが、それ以前は中学校を卒業すると就職する人が多くいました。この辺りの高等学校としては、定時制高校(愛媛県立野村高等学校土居分校)がありましたが、私たちの年代でも高等学校へ進学する人はそれほど多くありませんでした。」
 「三八豪雪の以前から、城川町では出稼ぎに行く人が多くいました。当時はどこでも多くの人手を必要としていました。私(Aさん)の住む長崎にも出稼ぎの斡旋(あっせん)をしていた方がいて、斡旋した人数に応じて出稼ぎ先の会社から紹介料を受け取っていました。出稼ぎに行くと良いお金になりましたし、地元に残った家族の負担を減らすことにもつながりました。」

 ク ブラジルへの移住

 「城川町では、窪野、土居の新開(しんがい)、嘉喜尾などからブラジルに移住された方がいました(図表2-2-4参照)。兄弟が多くて食べ物に苦労していたためだと思いますが、兄弟のうち3人が上高地へ開拓に入り、1人はブラジルへ移住したという家もあったと私(Aさん)は聞いたことがあります。また、野村町からブラジルへ移住した人の中には、大きな農場を経営していて、現地の人たちを雇っているため自分では仕事をしなくてもよい、という人もいたそうです。」
 「当時は人口が多かったので、農家の二男・三男対策の一つとして、城川町でもブラジルへの移住に注目したようです。役場の担当の職員が、各地区の青年団を回って、ブラジルへの移住を勧めていました。当時、私(Cさん)もブラジルへ移住しようかと思ったものでしたが、周囲から反対されて断念したことを憶えています。ブラジルへ移住する方たちは、神戸で暫(しばら)くの間研修を受け、旅券の手続きをした後、船で1か月かけてブラジルへ渡っていました。
 平成に入ってから、私はブラジルの開拓団の方々を訪れたことがあるのですが、ブラジルに移住してからずっと農業に従事しているという人は少なかったように思います。サンパウロ近郊に居住し、大農場を経営して成功を収めたという八幡浜(やわたはま)出身の方もいましたが、現地で成功している方の多くは、電気事業を興したり、造園事業を手掛けたり、サービス業に就いたりしていたように記憶しています。その中には、『ブラジルの開拓予定地は農業に適した土地がおよそ50町歩(約50ha)も広がっている』という宣伝を信用して現地に行ってみると、実際はジャングルのような土地ばかりで農業をすることもできなくなり、やむを得ず転職したという人も多かったようです。また、野村町出身で、リンゴの栽培で成功を収めた方にもお会いしたことがありますが、最近は3年に1回くらいの割合でブラジルからこちらへ里帰りをするようになったようです。その方は、ブラジルへ渡って随分苦労されたそうで、一時は借金取りから逃げて回っていたこともあったそうですが、そうしたとき、現地に講演に来られた日本の大学の先生から、ブラジルでもリンゴが栽培できるのではないかというヒントをもらい、リンゴ栽培を始めたというお話を聞きました。」

 ケ 不便だった交通事情

 「昭和38年(1963年)ころは、交通事情が今と比べて随分悪かったので、私(Bさん)が森林組合の出張で松山(まつやま)へ行ったときには、日帰りができませんでした。朝の5時半か6時ころにこちらから大洲回りのバスに乗り、大洲からは松山行きの列車に乗り換えて松山まで行き、会合が終わるとその夜は松山に宿泊しなければなりませんでした。朝に会合があったときには、前日から松山に宿泊し、当日と併せて2泊しなければならないこともありました。当時、県内でも東予地方の新宮(しんぐう)村(現四国中央(しこくちゅうおう)市)や別子山(べっしやま)村(現新居浜(にいはま)市)、南郡(なんぐん)(南宇和郡)の一本松(いっぽんまつ)村(現愛南(あいなん)町)、城川町の土居地区、魚成地区などは交通事情が非常に悪く、『陸の孤島』といった感じだったことを憶えています。」


<参考引用文献>
①『城川町誌』 1976
②『広報しろかわ 第85号』 1964

<その他の参考文献>
・愛媛県『統計からみた市町村のすがた』 1971、1981
・愛媛県『愛媛県史 資料編 社会経済下』 1984
・愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』 1985
・西予市『西予市誌』 2015
・城川町『広報しろかわ』

写真2-2-7 旧土居小学校の校舎

写真2-2-7 旧土居小学校の校舎

平成30年12月撮影

写真2-2-8 国鉄バスの土居駅があった場所

写真2-2-8 国鉄バスの土居駅があった場所

平成30年12月撮影

図表2-2-3  城川町の出稼ぎ者数

図表2-2-3  城川町の出稼ぎ者数

『統計からみた市町村のすがた』により作成。

図表2-2-4 郡市別海外移住者数(昭和28~60年度)

図表2-2-4 郡市別海外移住者数(昭和28~60年度)

『愛媛県史 資料編 社会経済下』により作成。