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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 ドロマイト鉱山の記憶

(1)田穂でのくらし

 ア 農家の仕事

 「私(Aさん)は城川町田穂で生まれ育ちました。私の家は農家で、父が元気に働いていたときには、現金収入を得るために炭焼きや酪農、葉タバコの栽培などを行っていて、米の栽培は少なかったと思います。昔のことで、労働に従事する時間の割に収入が少なかったので、それを少しでも補おうと、畦(あぜ)にダイズを植えたり、田んぼの縁の草を刈って牛の餌にしたりと、工夫をしていたことを憶えています。特に牛の餌にするための草刈りは早朝に行い、それを終えてから朝御飯となっていたので、限られた時間を詰めて行動しなければならず、労働としては厳しいものだったと思います。
 私が子どものころには、仕事に慣れてくると、父からの仕事の指示内容が次第に具体的になってきたことを憶えています。例えば、『草刈ってこい。』という指示が、『どこそこへ行って、うちの草を何把刈ってこい。刈ってきたら牛に出しとけよ。』といった具合でした。子どもの役割には様々なものがあり、牛の世話では餌となる草刈りと運搬、一時期行っていた養蚕であれば桑の葉摘みなどを行っていました。私が中学生か高校生のときには、父が炭焼きを行っていて、近所の仲間と一緒に炭窯を築き、自分の山の木を伐(き)って炭に焼いていたので、私はできた炭をオイコでかるうて(背負って)山から下ろし、炭を集積する倉庫があった道路まで出していました。倉庫に集められた炭は、品質の検査を受けてから出荷されていたことを憶えています。」

 イ 高校生のころ

 「私(Aさん)は野村高校土居分校(愛媛県立野村高等学校土居分校、平成22年〔2010年〕3月閉校)に通っていました。土居分校は定時制で、1週間のうち4日が学校、残りの3日が休みとなっていました。休みの日の3日間は家の仕事を一生懸命に手伝ったり、自分で学費を稼ぐためにアルバイトをしたりして過ごしていました。
 家から土居分校までは片道約12kmありましたが、私は毎日自転車で通学をしていました。雨が降っても風が吹いても自転車で通学していましたが、雪が積もってしまうと自転車では通学できなかったので、歩かなければなりませんでした。片道12kmの道のりを歩いて行くと、3時間以上はかかっていたことを憶えていて、ある雪の日には、早朝に家を出たにも関わらず、学校に着いたのがお昼ごろになってしまったこともありました。私が土居分校に通っていたころには生徒数が多く、1クラスに40名ほどいたと思います。当時は養蚕室のような建物を改造して校舎にしていたので、とても古かったと思います。」

 ウ ドロマイト鉱山への就職

 「私(Aさん)がドロマイト鉱山に就職した理由は、まず、『お前は家におって、跡を継げ。家の手伝いもせよ。』という父の希望が強かったことと、家から通勤できる範囲の職場が希望であったことから、ドロマイト鉱山が最適であると考えたからでした。
 ドロマイト鉱山に就職してからは、鉱山での仕事と家の農作業の手伝いを休みなく行うようになったので大変でしたが、今になって思うと、この生活で心と身体が鍛えられたのではないかと考えています。
 ドロマイトで働く従業員は地元の田穂や野村(のむら)町、近永(ちかなが)(旧広見(ひろみ)町)など、近隣から通勤してくる人がほとんどでした。私は、入社当初は自転車で、その後はオートバイで通勤をしていました。家から職場まで2kmしかないので、徒歩で行っても30分程度、雪が降り積もっても時間はかかりますが歩いて行ける距離だったので、通勤は本当に楽でした。」

(2)ドロマイト鉱山

 ア 創業当初

 「ドロマイト鉱山(大日本ドロマイト鉱業株式会社)は、昭和31年(1956年)に設立されているので、すでに60年以上の歴史があります。設立当初の2年間はドロマイトを掘り進めるための準備として、表土剥ぎを行っていたようです。私(Aさん)が入社した昭和39年(1964年)には、その表土剥ぎの作業はすでに終わっていて、鉱夫がドロマイト採掘のために坑道へ入っていました。当時の坑内にはすでに木(き)ドロ(木製の鉱石運搬ゲージを取り付けたトロッコ)が設置されていたことを憶えています。
 表土剥ぎの作業が終わると、最初は山の頂上の方から鉱石が採掘されていました。頂上の方から採掘をするので、下の方に坑道を掘り、坑道をある程度掘った所で立坑を抜き、大きな擂鉢(すりばち)状の集石場に積まれている採鉱石をポケット(立坑の穴)に落とし、ポケットに落とした鉱石をトロッコに積んで坑道から出すという作業が行われていました。この作業が行われる前に、質の良い鉱石は坑道を水平に掘り進めながら採っていき、坑道の延長に合わせてレールを敷設し、採った鉱石を木ドロに載せて坑外へ出していました。木ドロの操作は単純で、停止させるためにブレーキをかけるにはレバーを引っ張るだけでした。レバーを引っ張ると車輪に横棒が当たり、摩擦の抵抗で停止させるという簡単な構造だったのです。
 坑道は、採掘権ギリギリの境界線に当たる400mほどを水平に掘られたと思います。坑道を掘り進める際には、鉱石の良し悪しが重要で、質の悪い鉱石に当たるとその部分は避けて掘り進められていきました。もし、採掘した鉱石の品質が良くないものであれば、それは商品にならないので、採石でできた空洞部分に全て廃棄されていました。会社としては、品質の良い鉱石だけを出していたということです。また、品質の悪い鉱石を出し続けていると、商品とならない鉱石を置いておくためのスペースの確保が難しかったということも理由としてあると思います。鉱石の品質によって、掘進計画に基づき掘り進められることから、坑道は1本ではなく、内部で蜘蛛(くも)の巣のように枝分かれした状態になっていました。
 品質の良い鉱石と悪い鉱石とは、仕事に慣れてくるとある程度その場で見分けることができていました。約2億年前、この地域は海の底で、その後、海底が隆起してこの辺りの陸地が形成されています。ドロマイト鉱石は、そのころの珊瑚の死骸が長い年月をかけて形成していったもので、マグネシウムが主成分となっていて、カルシウムを主成分とする石灰とは違うものです。ドロマイト鉱石はマグネシウムが主成分であるため、本来は白色をしていますが、掘り出した鉱石の中には、珊瑚により形成される過程で白黒になっていたり、茶褐色になっていたりしている鉱石がありました。良い鉱石は基本的には白色の鉱石が多かったと思います。」

 イ 危険な発破

 「私(Aさん)が入社した当時は、坑内作業の機械化が進んでいませんでした。採鉱は手動削岩機で掘削後に爆破し、爆破によるガスが落ち着くと、鍬(くわ)でかいて(掻(か)き集めて)ハンミ(箕)をうずんで(抱きかかえて)一輪車に積み込むまでを手作業で行っていました。一輪車に積み込んだ鉱石は、擂鉢状のシュート(鉱石を傾斜面に沿って落下させる設備)口(ぐち)に投入していました。
 坑内では、削岩機で岩盤に小さな穴(直径32mmから36mm、長さ1.2mから2.0m)が開けられ、その穴にはダイナマイトが装填されていました。発破に使われるダイナマイトの数は鉱石をどのように採るかで大きく変っていて、高さ3m、横幅4m、奥行1.4mほどの坑道にするために、削孔本数が30本で、170本ほどのダイナマイトを使っていたと思います。ダイナマイトを使って坑道を掘り進める作業は、山が崩れないように規定通りに行わなければなりませんでした。これらの指導は通産省保安監督部の管轄で、私たち作業員には保安部の指示通りの採掘が求められていました。
 ダイナマイトを爆破するときには、以前は起爆剤に導火線が用いられていました。導火線はその長さによって燃焼時間が分かっていました。記憶が定かではありませんが、1mの長さの導火線であれば、燃え尽きるまでに3分以上あったのではないかと思います。それくらい十分な時間が確保できていたので、導火線に点火してから坑道の外の安全な場所へ退避をしていたようです。私が入社した当時は、坑道掘進のときに導火線は使われておらず、電気発破になっていました。電気発破の場合でも、全員が坑道から安全な場所まで退避したことを互いに確認してから点火スイッチが入れられていました。
 発破を行うと、粉塵(じん)が坑道の中に蔓(まん)延します。この粉塵が収まらなければ作業を行うことができなかったので、発破を行った坑道は一昼夜そのまま置いていたことを憶えています。お昼ごろに発破をした場合は、その坑道への立ち入りが禁止され、作業内容が変えられていました。仕事場が1か所であれば、従業員の作業効率が悪くなってしまうので、3か所から5か所は作業場が設けられ、発破ガスが来ない場所で、従業員が効率良く仕事ができるように工夫されていたと思います。坑道のような密閉に近い空間に発破ガスが蔓延している状態のまま作業員が仕事に入ると、呼吸ができなくなり、酸欠状態を招いて歩くことすらできなくなるため、命に関わる問題となってしまう可能性があったので、発破の際の仕事のあり方については、慎重に行う必要がありました。
 発破後に大量の石が堆積した場合、鉱石を掘っていると坑道の奥からガスが出てくることがあるので、坑道内の通気を良くすることが大切でした。どのようにして通気を確保するか、が常に問題となっていて、解決しなければならないことでした。
 また、地下水への対策も必要とされていました。雨水などが山の表面から地中に浸(し)み込み、地下水となります。鉱石を掘り進めるうちに、その坑道が水脈に当たってしまうと、水が吹き出してしまうので大変危険でした。さらに、梅雨や台風による増水は想像を超える場合があり、下部レベルの坑内各重機、資材は全て上部坑に移動させ、動力源を切って水没に備えていました。自然の猛威には逆らえず、ポンプ能力の数倍の水が流入する場合の止むを得ない処置でした。」

 ウ 大切な通気

 「坑口は1か所で、坑道が中で分かれていきます。坑道は基本的には出来上がりの状態で縦3m、横4mでした。トロッコが入ることができる程度の大きさの穴を掘って前へ進め、その後、規定の大きさの状態にまで穴を広げていました。
 坑道は上部の第一段階のものが水平に掘り進められ、20mか30mごとに発破ガスを抜くことができるように立坑を抜き、坑口から入気(にゅうき)して立坑から排気するという空気の流れが作り出されていました。これは、酸素の確保と発破ガスの逃げ道を作るということが大きな目的でした。立坑は、空気の流れを作る大切な施設であるので、一定の間隔ごとに抜かなければなりませんでした。立坑を抜いておかなければ、坑道の先端部分の袋状態になっている所にいつまでもガスが残留してしまうことになるのです。このため、立坑を抜いていない場合には風管を必要な長さだけ何十mも繋(つな)ぎながら、局部扇風機を使って坑道内へ送風を行い、空気を循環させる必要がありました。
 立坑は坑道から山の地表に向けて坑道を掘るので、最初は坑道から上へ向けて削岩機を使って掘り進めていきます。ある程度掘り進めることができればアンカーを岩盤に打ち込み、鉄梯子(はしご)を掛けて上向きに掘ることができるようにしていました。ダイナマイトを使うときには、装填の際にダイナマイトが落ちることがないように、隙間に紙を、ときには6cmから7cmの長さの丸竹を入れていました。これだけの作業を伴うので、それに使う資材の運搬が大変だったことを憶えています。立坑がだんだんと高くなってくると、空気の逃げ道がない状態になってくるので、ガスが一晩では抜けず、送風をしたり、作業場でほかの仕事をしたりしてガスがなくなるのを待ち、ガスがなくなってから現場に入って作業を再開していました。1回の発破で進めることができたのは、1m30cmくらいだったと思います。削孔技術やダイナマイトの装填の仕方など、効率良く掘り進めていくためには、きめ細かな技術力とチームワークが必要でした。」

(3)坑内での仕事

 ア 勤務形態

 (ア)勤務時間

 「私(Aさん)が入社した当初は、始業が7時30分で、15時30分に終業となっていました。休憩時間の1時間を除くと、1日の実働時間は7時間で、これは、労働基準法の関係で、坑内労働は1日の労働時間が7時間と決められていたからでした。しかし、同じ会社内でも坑外での仕事に従事する場合は、8時間の実働時間が課せられていました。この勤務時間の違いは後に解消され、坑内外を問わず実働時間が同じになりました。
 また、繁忙期には三交替での勤務があり、昼も夜も操業していました。1の方が朝から夕方にかけての勤務、2の方が夕方から夜中にかけての勤務、3の方が夜中から朝方にかけての勤務となっていて、仕事の引継ぎも含めて勤務時間が重なるように設定されていました。『繁忙期』と言われたのは、採掘量が増加したときや、採掘現場を切り替えるための次の鉱脈探しのときでした。現在採掘している鉱石と同等以上の鉱石を見つけることができない場合、低品位の断層帯を突破すると高品位鉱脈帯の存在が明らかな場合もあったり、測量に基づく鉱脈の傾斜角度や方向、距離が想定外に変化している場合もあったりしたので、粗悪帯の強行掘進で難関を乗り切ることもありました。山の寿命を延ばすためや地場産業を継続させていくため、また、採掘計画の設定を確実にするためにも、新鉱脈の発掘や新たな作業現場の確保に日々努力を重ねる必要があったのです。
 普段は鉱山での仕事が15時30分に終わっていたので、それ以降は帰宅して農作業の手伝いを行っていました。特に農繁期になると、仕事で身体が疲れていても手伝っていました。仕事から帰宅した後に行うべき農作業をしっかりと行っておかなければ、後で会社を休んで農作業を行わなければならなくなるため、手伝うことができるときには一生懸命に農作業を行っていたことを憶えています。忙しいときには帰宅してから日没まで、特に夏場は19時30分過ぎくらいまで、日が沈んでも薄明かりの中で農作業をしたこともあったくらいです。」

 (イ)休憩時間

 「昼休みになると坑道から出て休むこともありましたが、坑道内の作業場が坑口から遠い場合は、坑内で食事と休憩を取ることが当たり前でした。そのため、朝、坑道へ入るときには、昼に食べる弁当やお茶、多少のおやつなどを持って入ることがありました。坑内には、休憩を取ることができるようにトイレが設置されていました。女性が入坑することはないので、男性用のトイレだけでしたが、坑内にポリ容器を置いて蓋、もしくは入口に扉を設置しておくだけの簡単なものだったので、多少の臭(にお)いは漏れていましたが、作業場からは離れた場所に設置されており、坑内で仕事をする鉱夫のための必要な施設であるため、我慢をしなければならないと思っていました。
 鉱夫の休憩時間は、昼までに15分、昼に30分、午後に15分の合計60分と決められていました。体力を使う仕事だったので、疲れた場合には手を休めて適宜休憩を取っていたと思います。私は当時タバコを吸っていました。石炭やマンガンなどの鉱山は、坑道内での火気は厳禁となっていますが、ドロマイト鉱山は石炭鉱山とは違って粉塵爆発を起こすことがないので、坑内での休憩時にもタバコを吸って一服をすることができていました。」

 イ 坑内の様子

 (ア)坑道の明かり

 「坑道内には電線が引かれ、電球で明かりが確保されていました。電線は坑道が掘られるのに合わせて配線が延長されていたので、明かりがなくて困るという心配はありませんでした。坑道内では60Wから100Wの電球が使われ、大体10mの間隔で吊(つ)り下げられていました。足下の明るさに不自由はありませんでしたが、よく見える電球の真下の部分とは違って、電球と電球との間の所では、少し暗いと感じていました。ただ、坑道の末端での作業場には200W程度の投光器が用いられていて、とても明るかったことを憶えています。」

 (イ)必要な装備、大切な道具

 「身に付ける装備には、ヘルメットと防塵マスクがありました。防塵マスクは何時間かの使用で粉塵が詰まって使えなくなり、事務所へ行ってフィルターを付け替えなければならないほどでした。それくらい坑道内は空気が汚れていたので、タオルで口を覆っただけでの作業というようなことは絶対にありませんでした。粉塵を吸い込んで水気を加えると、粉塵が固まって呼吸困難に陥ってしまう危険があって、私(Aさん)もそれを経験したことがあったので、防塵には最大限の注意を払わなければならず、仕事をする上では難儀なことだったと思います。
 その他の装備としては充電式の懐中電灯がありました。この懐中電灯は鉱夫1人がそれぞれ一つずつ持っていました。坑道内の作業は、鉱夫2人1組で行われていて、繁忙期にはこの体制で三交替制による勤務となっていました。2人1組の作業では、削岩機を1人が使い、もう1人は作業が終了するまでの間、ダイナマイトや照明などの必要な資材の運搬、次の作業の準備というような補助的な役割を果たしていました。補助的な役割を担う人も坑内に入るときには必要なものを持ち込み、まだ使える道具は坑内から持ち出して再利用しなければならないため、何も持たず手ぶらで坑内へ入り、手ぶらで坑内から出てくるということは絶対にありませんでした。特に道具は大切に扱われ、発破で吹き飛んで壊れてしまうような所には置かないということが徹底されていたと思います。」

 (ウ)皮の手袋とノミ先もち

 「削岩機のノミ先を当てる岩盤には凹凸があるため、ロッド(掘削棒)を打ち込むのにちょうど良い場所があると、『ノミ先もち』と言って、ロッドを手で固定し、削岩機自体の振動でロッドがその場所からずれないようにしておかなければなりませんでした。ロッドを持つ手には皮の手袋をして、指で輪を作り、その中でロッドが回転しながら岩を削るので、大きくぶれないようになっていたことを憶えています。私(Aさん)はペアになった社員に、『おい、そこで我慢して持っとけ。』などと、当たり前のように言ったり言われたりしていましたが、慣れると要領を得ていたとはいえ、今考えるととても危険なやり方だったと思います。手袋が古くて解(ほつ)れていれば、その部分からロッドに巻き付いてしまう危険もありました。ただ、どうしてもうまくいかないときには、それ以上の危険を冒すことなく、場所を変えてロッドを当てるようにしていました。1人で扱う短いロッドを用いる場合は、片手で削岩機の操作を行いながら、もう片方の手でロッドの先を持って作業をしていたこともありました。」

 ウ 命を守る作業や規則

 (ア)浮石検査

 「鉱山の仕事では、怪我(けが)をすることがありました。また、落盤事故も経験しました。鉱山の開発当時は多くの作業が人の力で行われていて、機械化が進んでいなかったこともあって、天板の補強ができない場合がありました。また、一度廃坑になった坑道へ入坑して、『少し採ってみるか。』というようなこともあったそうです。そのような今では考えられない仕事のあり方の中で、坑道上部の岩盤が崩落するという痛ましい事故が起こることもあったのです。
 発破を行うと強烈な振動が起こるので、周辺の岩盤の一部が浮いて外れそうになってしまうことがあり、これを『浮石(うきいし)』と呼びます。私(Aさん)は、この発破後の浮石点検で怪我をした経験があります。浮石点検では、落ちそうな石を金属製の長さ1.2mから2mの姑息棒(こそくぼう)で突(つつ)いて音を確認します。今でもトンネルの壁面の点検や列車の車輪のボルトの緩みなどを金槌(づち)で叩(たた)いて検査していますが、考え方はそれと全く同じです。突いても落ちない石からは、姑息棒で叩くと『コンコン』という乾いた音が出ますが、岩盤との間に1mmから3mmという僅かな隙間が生じていると、『ズンズン』という鈍い音が出ていました。このように、発破後に打診による点検を行うと反響音の違いで浮石の存在を確認することができるのです。ただ、落ちる石が3tや5tもある、ものすごく大きい場合には、岩盤を叩いたときのような音がすることがあったので、音だけでは分からないことがありました。この見極めはベテラン鉱夫の経験によるところが大きかったと思います。
 大きな浮石を発見した場合は、僅かな隙間に少量の爆薬を詰めて爆破し、その振動で完璧に落としておく必要がありました。発破後は、この検査を完全に実施していなければ、坑内作業中に突然浮石が落ちてくる可能性があったので、私たち鉱夫にとってはとても大切な検査でした。鉱夫の命を守るために、時間をかけて完璧に、かつ入念に実施しなければならない検査だったことを憶えています。」

 (イ)先輩からの大切な教え

 「私(Aさん)がこの検査の大切さを訴える理由はただ一つ、私自身が浮石によって危険な目に遭った経験があるからです。
 私が経験した出来事は、落ちてくる瞬間に、『小さい30cm程度のものかな』と思ったら、畳2枚分はあろうかというとても大きな浮石が一度に落ちてきた、というものでした。発破後には、このようなことが起こり得るので、『いきなり前方へ行ってはいけない。』と、先輩から言われていました。浮石検査を行うときも、決して自分の真上の部分は突かず、手前の部分から少しずつ確認していくことが大切で、作業手順として確立されていました。
 この浮石検査の作業は鉱夫の命を守るための大切な作業なので、経験の浅い鉱夫が訓練を兼ねて確認作業を行った後に、ベテランの鉱夫がもう一度確認作業を行うというように徹底されていました。ベテランの鉱夫による確認作業の際には、最初に確認を行った経験の浅い鉱夫も同行し、『これを見落とさないように。』などと注意を受けながら、ベテランの鉱夫が身に付けている検査技術のノウハウを学び取っていました。私は、『真正面から突いてみて大丈夫と判断できても、右方向や左方向から同じ場所を確認すると音が違う場合がある。真正面からもやらなければならないし、左右から、あるいは後ろからも徹底的に確認を行わなければならない。周囲から確認して次へ進むこと。』というような、浮石検査の心構えを先輩鉱夫から学んだことを憶えています。
 鉱脈には石目というものがあります。一般的には『断層』と呼ばれているものです。この部分、例えばドロマイトの層と石灰の層との境目には、必ず鏡のようにきれいな擦れがあります。この石目から全体が落ちてくることがあったので、石目の見極めも確実に行わなければなりませんでした。私たち鉱夫には、仕事を通して得ることができる豊富な経験とともに、地質学的な基礎知識も必要とされていたのです。
 地質学的な基礎知識については、鉱山長という技術者の方に教えてもらうことが多かったと思います。鉱山長は鉱山の各施設を絶えず巡回していて、坑道内の現場では、『ここは発破して落とすな。鉱柱(こうちゅう)(採掘せず、柱状に残した鉱石)に残しておけ。』というように、適切な指示を私たち鉱夫に与えてくれていました。鉱山長の指示に従わなければ、浮石が落ちてくることはもちろんのこと、山全体が崩れることにもつながる可能性があったのではないかと思います。また、保安規則では、坑道の幅や高さ、鉱柱の大きさはピラの厚み(下部と上部までの天板の厚み)まで決められていて、鉱柱に関しては、『何mおきに何m角の鉱柱を垂直に必ず残しておく』とか、『鉱柱を残す際には、地圧の5倍くらいの力には耐えられるようにしておく』というような、細かい内容まで指示されていたことを憶えています。」

(4)坑道から出される鉱石

 ア 「木ドロ」と「バッテリーロコ」

 (ア)いろいろな仕事

 「トロッコのレールを敷設する作業も私たち鉱夫の仕事でした。鉱夫はただ採石を行うだけでなく、坑道内のあらゆる作業を行わなければならなかったのです。初めて鉱山で仕事をするというような人は、先輩のベテラン社員の方に様々な技術を教えてもらっていました。その他、シュートに鉱石を入れる人が5人から6人、運搬を行う人が2人いましたが、繁忙期になると交替要員が必要となってくるので、社員全員がいろいろな仕事を当番制のような形で担当しなければなりませんでした。採鉱もする、運搬もするというように、繁忙期には交替で仕事を行っていたのです。
 これは鉱夫の誰もが、全ての作業を行うことができるようになることを目的にしていたと思います。専門的な技術だけを持っていると、その方が休暇を取得するなどした場合に鉱山の仕事が前に進まなくなるため、常に交替要員を確保しておく必要がありました。それを社員全体で補うことができるように技術を身に付けることが必要とされていたのです。」

 (イ)「木ドロ」から「バッテリーロコ」へ

 「採った鉱石は木ドロへ積み、レールの上を走らせて粉砕場へ送っていました。鉱石の搬出用として木ドロは古くからありましたが、後に、『バッテリーロコ』と呼ばれる、木ドロよりも大きく、レール幅も広い蓄電池式の動力車が用いられるようになりました。
 木ドロは連結することなく単体で運用します。鉱石が積み込まれると、重たい木ドロを2人の鉱夫が押して動かしていました。木ドロを押して粉砕場へ向かうときには、まず鉱石で重たくなった木ドロを押し出さなければなりませんが、坑内の出発地点にはわずかに下りの傾斜がつけられていて、木ドロを押し出しやすい構造になっていたことを憶えています。木ドロは連結されなかったので、鉱石が積まれても何とか押し出すことができていましたが、もし、2両、3両と連結されていたら重たくなり過ぎてしまい、人の手では動かすことができなかったのではないかと思います。ただ、粉砕場から坑内へ戻るときには、空の木ドロを押して坑内へ戻らなければなりませんでしたが、空であっても重たいものでした。
 木ドロはレール上を走らせるので、一旦動き出すとスムーズに鉱石を運ぶことができていましたが、たまに脱線してしまうこともありました。脱線をするには、線路上に石があった場合やレールの下に敷かれてあった枕木が腐って傾いてしまっていた場合など、様々な原因がありました。
 トロッコが脱線をしてしまうと、トロッコに積んでいた鉱石を全てトロッコから出し、線路をきれいに直してから再び鉱石を積み込む作業を行わなければなりませんでした。トロッコから鉱石を出したり、復旧後に再び積み込んだりする作業が手作業で行われていた時代は、それは大変なことだったと思います。
 バッテリーロコは、12Vの蓄電池を20個から30個連ねて、電池の電力で動くトロッコでした。動力は電力でしたが、力がある牽引(けんいん)車で、鉱石を積むトロッコを2両くらい連結して運用することができました。一度に木ドロの倍の鉱石を搬出することができたので、バッテリーロコを使うことで、効率が一気に良くなったことを憶えています。粉砕場から坑内へ戻るときも、木ドロよりも短時間で鉱石を積み込む場所へ戻ることができていました。私たちが仕事で坑内へ入ったり、仕事を終えて坑内から出てきたりするときにも、このバッテリーロコを利用する場合もあったことを憶えています。」

 イ 索道で鉱石を下ろす

 「トロッコで積み出された鉱石は粉砕機(クラッシャー)で粉々にされてからシュートに入れられ、シュートのレバーを操作することで適切な量の鉱石がドラム缶を半分に切ったような箱に入れられていました。シュートへ鉱石を入れたり、シュートから鉱石を出したりする作業を行うのは鉱夫とは別の男性社員でした。粉砕機では、積み出された鉱石が大きく、機械に入らないサイズであれば、人が玄能で叩き割ったり、削岩機を使って小さく砕いたりしなければなりませんでした。
 粉砕機を通過し、20mmから30mmの大きさにまで粉砕された鉱石は、120mほどの長さで整備されていた索道に積まれていました。索道は、人の力で押し出され、動き始めると、下で到着を待つ受け取り役の人の様子と、索道全体をよく見ながらブレーキ操作をして鉱石を下ろしていました。
 ブレーキの操作は天気によって変わっていました。雨や雪の日になると雨水や雪でワイヤーが濡れ、ブレーキが滑って効きにくくなる場合があったので、より慎重に操作をしていたと思います。現在、索道は使われなくなり、その代わりとしてベルトコンベヤーが使われるようになっています。
 下の工場では、下ろされてきた鉱石をさらに細かい微粉にしていました。当時は粉状の肥料を生産していたので、農薬並みの微粒粉にまで加工する必要があったのです。
 また、ドロマイトには『耐熱効果がある。』と言われていたので、九州の八幡製鉄所で用いられる耐火レンガ用に20mmの大きさの鉱石も出していました。八幡製鉄所へと送られる鉱石は、旧明浜(あけはま)町高山(たかやま)へ送られ、高山から八幡浜(やわたはま)へ、八幡浜から九州へ送られていたようです。当時は高山の石灰の積出港とは別に、ドロマイトの積出港があったと聞いています。八幡製鉄所では、溶鉱炉の寿命を延ばすために、その内面にドロマイトを含む耐火レンガを作って貼っていたようです。現在は耐熱、耐火にドロマイトが使われず、もっと安価な鉱石が使われているようです。
 また、宇和海の養殖生け簀(す)では、撒(ま)き餌を行った後に沈殿物の浄化と、生け簀内の酸素を補う目的でドロマイトが撒かれていたこともありました。さらには、ビール会社や酒造会社が使う瓶の製造原料としても用いられていました。」

 ウ 大切な品質検査

 「製品として使用できるドロマイトは、マグネシウムの含有量が15%以上という品質の規定があったので、品質の分析作業を2時間おきくらいで行っていました。工場の粉末と、山で鉱石を叩き割って5cmから10cm程度の大きさにしたものを持って下り、その鉱石の一つ一つに番号を書き込んで鉱石の縁の部分に印を付け、『ここを分析してくれ。』とお願いをしていました。
 ドロマイトは製品になるまでに、岩石の状態でも品質の分析を実施し、製品になる過程でもサンプルを採取して品質の分析を行います。つまり、製品になるまで絶えず分析を行い、その品質を調べながら肥料として製造されたものが最終的に出荷をしてよい製品であるとの判断材料とするために、品質の分析は行われていたのです。
 会社には品質の分析を担当する職員さんが1人いました。私の会社では、製品になるまでの様々な段階で品質の分析を行っていて、一つの坑道でも12か所から15か所の鉱石を採取し、それを分析に出していました。発破を掛ける前、採掘前のものまで分析をしていたので、良い品質を維持するための取組みが十分になされていたのではないかと思います。分析の結果、もしそれが品質の悪いものであると判明した場合には、『その鉱石が採れた場所ではこれ以上採掘してはいけない』ということが坑内で作業する鉱夫に伝えられていました。
 品質の良いドロマイトは原則として白色のものですが、白色の中に黒色のまだら状や帯状の模様、黒い粒模様の中に白色、茶褐色のものと、ドロマイトは色が変化するので質が良いかどうかを見た目だけで判断することが難しく、分析を行わなければなりませんでした。
 分析に出すと、3日程度で品質についての結果が報告されていました。以前は分析器の性能が良いものではなかったため、もっと多くの日数がかかっていましたが、それも技術の進歩のお陰でかなり時間を短縮することができていたので、私たち鉱夫も、品質の悪い、採っても無駄な鉱石を掘ることがほとんどなかったと思います。さらに性能が良い分析器ともなると、数分でその品質が分かっていたようですが、かなり高額だったため、私の職場を含めて中小の鉱山には置かれていなかったのではないかと思います。もし、製品となったドロマイトがマグネシウム含有量15%以下であれば、1袋当たりだったか、1t当たりだったか、一定の割合についていくらというペナルティ(反則金)が購入先から会社に課せられていました。製品を出す以上は、ペナルティを受けることのない良い品質の商品を安定的に出すことが大切であるため、この鉱石の分析はなくてはならない大切な作業だったと思います。」

(5)地元で働いて

 「地元で仕事をしてきたことについて、今、振り返って考えてみると、鉱山は自然の恵みで人間の力で動かすこともできません。それが地場産業として今日まで続いているということは、地域への貢献も大きく、地域にとって大切なことであると私(Aさん)は思っています。これからも地域の重要な産業として、ドロマイト鉱山が長く続いていくことを心から願っているところです。
 また、現代では、鉱業への物的・人的支援体制が十分ではないと思っています。支援体制を早期に拡充していただくことが必要であるとも考えています。現在、私が勤めていた鉱山では、山の仕事は3人で行われていて、この3人が坑内の全てのことを任されています。社員には専門分野ではなく、社員全員がどのような仕事でもこなすことができる、ということが求められています。これは山だけではなく、工場で仕事をしている人も同様で、事務職の方も工場へ行ったり、山へ行ったりして仕事をしています。社員同士がお互いを補い合いながら仕事を進めているので、社員には、オールマイティな力が求められています。私が勤務していた当時でも、『専門分野を三つ持て。一つだけではいかんぞ。』と言われていたことが思い出されます。
 この地域でドロマイト関係の仕事に従事した人を合わせると、恐らく何千人という数になると思います。退職後は鉱山での仕事を通して地域の発展に微力ながら貢献することができたことを誇りに思っています。ドロマイト鉱山は、地域にとってなくてはならない産業として大切にしていかなければならないと思っています。会社には長い間大変お世話になり、心から感謝しています。」