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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 旧土居町の交通と人々のくらし

 本県における鉄道の建設は私鉄によって始められ、明治時代には、松山(まつやま)市を取り巻いて伊予鉄道があるに過ぎず、県内に国有鉄道は存在しなかった。大正5年(1916年)に、国鉄が香川県の観音寺(かんおんじ)駅から西南に向かい、県境を越え川之江駅までようやく開通し、翌6年(1917年)に伊予三島駅まで開通した。次いで伊予土居駅が同8年(1919年)に開業すると、旧土居町域における陸上交通は飛躍的に発達するとともに、駅前には商店などが次第に増加し、賑(にぎ)わいをみせるようになった。なお、その後も線路の西進は続き、昭和2年(1927年)には県庁所在地である松山まで国鉄線が延長され、それまで正式には讃予線と称した路線名は同5年(1930 年)に予讃線と改称され、さらに、翌6年(1931年)には予讃本線と改称された。
 終戦直後の混乱期を経て昭和24年(1949年)に公共企業体として新しく出発することになった国鉄は、相次ぐ近代化・合理化を推進し、昭和25年(1950年)に準急行列車「せと」の運行を開始し、昭和30年代に入るとディーゼル機関車の導入を急速に進め、スピードアップと列車の増発を図った。それに伴い気動車用旅客駅が次々に設置され、旧土居町域では、昭和35年(1960年)に赤星(あかほし)駅、翌36年(1961年)には関川(せきがわ)駅が開業した。なお、同36年には急行「四国号」が、同47年(1972年)には四国で初めての特急「しおかぜ号」がそれぞれ運転を開始し、大幅なスピードアップが実現した。その一方で、昭和40年代に入るとモータリゼーションの進展とともに国鉄の利用者は減少し、伊予土居駅においても乗客数は年々減少していった(図表3-1-2参照)。
 本節では、戦中・戦後から昭和40年代ころを中心とする国鉄や伊予土居駅とともにあったくらしについて、Aさん(昭和3年生)、Bさん(昭和9年生まれ)、Cさん(大正13年生まれ)、Dさん(昭和30年生まれ)から話を聞いた。

図表3-1-2 伊予土居駅の乗客者数

図表3-1-2 伊予土居駅の乗客者数

『土居町振興計画』により作成