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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)商店街のあゆみ

 ア 栄町商店街の形成

 「川之江で商店が立ち並ぶ場所は、時代の変遷とともに変化していきました。古くは金毘羅街道沿いでしたが、大正時代に川之江駅が開業すると、駅前が賑(にぎ)わうようになり、駅通り商店街が形成されていきます。その後、栄町にも商店が進出していき、昭和20年代後半に商店街が形成されました。
 そのころ、栄町の通りが舗装される前に、勤労奉仕で下水の側溝を掘ったことを私(Aさん)は憶えています。そのときは、それぞれの家庭から人手を出して、みんなが力を合わせて作業をしました。」

 イ アーケードの設置

 「昔のアーケードは、昭和38年(1963年)に設置されました。そのとき、私(Aさん)は県外にいたので詳しい経緯は分かりませんが、私の父を含め、当時の商店街の経営者の方たちが、雨の日でも安心して買い物ができるようにして、お客さんを増やそうとしたのだと思います。駅通り商店街と栄町商店街に設置され、栄町商店街のアーケードは現在よりも長く約550mあり、一部は西側にも設置されていました。」
 「昔のアーケードは、青い縞(しま)模様のテントが張られていました。雪の重みでテントが破れるのを防ぐため、雪が降りそうになるとその度にテントを引っ張って開けていて、大変だったことを私(Bさん)は憶えています。」

 ウ アーケードの解体と新設

 「アーケードを新しくしようという話が出たとき、振興組合がないと補助金が出ないので、駅通りと栄町それぞれに振興組合ができたことを私(Aさん)は憶えています。そして平成4年(1992年)から古いアーケードの解体を始め、新しいアーケードを設置していき、同時進行で路面をアスファルト舗装からタイル舗装に変えていきました(写真1-1-3参照)。
 なお、それまでアーケードがあった部分のうち、南側はアーケードをなくしたいとの意向だったのでアーケードを設置せず、路面はインターロッキングブロック舗装にしました。西側は店舗数が少なく、アーケードは必要ないとのことだったので設置しませんでした。現在のアーケードも防災上、開閉できるようになっています。ほとんど開けることはありませんが、夏の暑いときに開けることがあります。」
 「現在のアーケードは、平成4年(1992年)に古いアーケードの解体工事から始まって、平成6年(1994年)に全体が完成しました。その間の2年弱は、商店街のどこかで工事が行われている状態で、大変不便だったことを私(Bさん)は憶えています。」

(2)昭和40年ころの商店街

 ア 駅通り商店街

 「駅周辺になるので、駅通り商店街や栄町商店街に何軒か旅館がありました。私(Aさん)が子どものころ、駅前の旅館に、巡業に来た照国や鏡里といった横綱クラスの関取も泊まっていたのを憶えています(図表1-1-3の㋐参照)。大相撲の巡業は何回かあり、小学校の運動場や川之江港で行われました。関取の肌がきれいだったことや、鏡里の太鼓腹が立派だったことが印象に残っています。
 駅の近くには、自転車預かり所が2軒あり、2軒あったパチンコ店のうち、南側は食堂になりました。時計店は通りを挟んだ反対側へ、写真店は駅通りの国道近くへそれぞれ移転しています。呉服店は不動産屋さんになり、図書館があった場所は、元は川之江町役場でした(図表1-1-3の㋑参照)。この辺りは商店の移り変わりが大きい場所だと思います。」

 イ 栄町商店街-柴田モナカ本舗まで-

 「医院と新聞店は同族経営でした。医院は内科で、近所の人がよく診てもらっており、小学校の校医でもありましたが、現在はデイサービス施設になっています(図表1-1-3の㋒参照)。呉服店はスーパーマーケットのような店になり、名前を変えました。むらち食品店は当時から酒類や野菜を扱っており、現在も営業を続けています(図表1-1-3の㋓参照)。香川銀行は国道11号の近くに移転しましたが、香川銀行があった場所には、それ以前は眼科があったことを私(Aさん)は憶えています(図表1-1-3の㋔参照)。柴田モナカ本舗は、新町から移転してきましたが、栄町商店街では最も古くからある商店の一つです(図表1-1-3の㋕参照)。」

 (ア)おもちゃ屋

 「私(Bさん)は子どものころ、おもちゃ屋さんへよく行っていました(図表1-1-3の㋖参照)。駄菓子屋のおもちゃ屋版という感じで、主に花火や独(こ)楽(ま)、ビー玉、メンコなどといった素朴なおもちゃが売られていたことを憶えています。当時人気があったブリキのおもちゃも売られていたのかもしれませんが、記憶にはありません。昔はそれぞれの店は屋号で呼ばれていました。おもちゃ屋さんは『リキチ』という屋号で通っていて、私たちより上の世代の方がそこへ行くときは、『ちょっとリキチへ行ってくるわ。』と言っていたことを憶えています。ちなみに、私の店(髙原呉服店)の屋号は初代の名前からとられた『モスケ』です。」

 (イ)バスの離合

 「私(Bさん)が子どものころの商店街は、現在のように大型車の通行が禁止されたり、時間帯によって通行制限が行われたりすることはありませんでした。そのため、川之江駅を発着するバスが栄町商店街の中を通っていたことを憶えています。当時のバスはボンネットバスで、私の店の向かいにある香川銀行の前にあったスペースで離合していました。」

 ウ 栄町商店街-交差点まで-

 「文房具店は元は呉服店で、後に伊予銀行が移転した跡地へ移り甘味処を始めました。その当時、私(Aさん)は、『伊予銀行を買収したのか。』と冷やかしていたことを憶えています。書店は閉店しましたが、伊予銀行の並びにある金物店と洋品店は現在も営業を続けています。この辺りは川之江小学校のすぐ前にあったことから、文房具店と書店が集まっていました。電機店の南にある菓子店は現在も営業していますが、元はタンス店がありました。歯科医院の場所は現在も変わっていませんが、小学校が移転した後、真向かいに診療所が開設されました。
 文房具店の南の菓子店は後にスポーツ用品店になり、現在も営業を続けています(図表1-1-3の㋗参照)。先代の方が、西条高校で野球をしていて、後にプロ野球の読売ジャイアンツに入団した選手と同級生だったこともあってスポーツ用品店を始めたそうです。交差点付近の精肉店や鮮魚店、食堂は、国道へ通じる道路の拡幅工事のため、後に立ち退かなければならなくなりました。」

 エ 西側アーケード

 「当時、栄町商店街から西側に伸びていたアーケードは、建設会社の手前辺りまでだったと私(Aさん)は思います。文房具店は西へ移転し、その跡地はコーヒーショップとなっています。」
 「私(Bさん)が小学生のころに、西側アーケードの先にあった製材所の跡地に、フジ川之江店ができました(図表1-1-3の㋘参照)。当時、この辺りでフジが出店したのは初めてだったので、オープンのときには大変な行列ができていたことを憶えています。」

 オ 栄町商店街-南端部まで-

 「西側にあった旅館は現在、水引を扱う店になっています。八千代館の閉館後には店舗が入り、自転車店があった場所は駐車場となり、薬局は移転してそのまま空き家になっています。東側のスポーツ用品店は現在も営業を続けています。印刷会社の跡地は、近隣の土地も合わせてスーパーマーケットになりました。タクシー会社の南隣の空き地には、昔は映画館があったと私(Aさん)は思います。傘屋さんは後に婦人服や作業服を扱う店になりました。」

 カ 賑わっていた食材を扱う店

 「生鮮食品を扱う店には、たくさんのお客さんが来ていました。食材は毎日必要で、昔は冷蔵庫の性能も現在ほど良くなかったので、生鮮食品を扱う店は必要性が高かったのではないかと私(Bさん)は思います。むらち食品店には、朝からお客さんがたくさん来ていました。交差点の南側にあったスーパーマーケットも、規模は小さかったのですが、お客さんがかなり来ていたと思います。精肉店や鮮魚店にも、近所の方がよく買い物に来ていました。フジ川之江店ができてからも、生鮮食品を扱う店には、お客さんがよく来ていたと思います。」

 キ 商店街の様子

 「塩谷に富士紡績川之江工場(昭和9年から50年〔1934年から75年〕操業)があり、そこで働く女性は九州など遠方の出身の方が多くなかなか実家に戻れないので、休日は商店街へよく来ていました。そのため、商店街には婦人服を扱う店が多くあり、お客さんで賑わっていたことを私(Aさん)は憶えています。
 仕事帰りに商店街に来るお客さんも多くいて、夜でも人通りが多かったため、私たちが店を閉めるのは大体21時で、店を閉めると寝る時間だったこともありました。特に大晦日(おおみそか)は、夜遅くに『やっと給料をもらえた。』と、年越しの給料を握り締めてお客さんが来ていたので、夜中まで店を開けていました。大変忙しかったので、毎月1、10、20日の3日だけ店を休みにしていました。
 昔の商店街は人通りが多かったのですが、ウインドウショッピングを楽しむ人が多かったと思います。つまり、ぶらぶらと商店街を歩いて、何か良いものがあれば買い物をするというお客さんが多かったということです。夏には団扇(うちわ)を持って、夕涼みの散歩がてらに商店街をぶらぶらと歩くお客さんもいました。そのため、新しい商品を飾っていないと、お客さんが立ち止まってくれないため、ウインドウに飾る商品は頻繁に変えていく必要があったことを憶えています。
 現在のお客さんは、『この商品をあの店で買おう。』などと、目的があって特定の店に来ることもあり、商店街全体では人通りが少なくなっています。現在、商店街はどの店も経営が厳しくなっていますが、それでも何とか続けていけるのは、そのようなお客さんが来てくれるからです。」

(3)商店街の取組み

 ア 商店街を盛り上げる

 「父が現役のころには、商店街の催しで忠臣蔵の行列をしたことがありました。私(Aさん)は商店街を盛り上げるために、チンドン屋さんや、バナナの叩(たた)き売り、南京玉簾(すだれ)などを呼んでいました。チンドン屋さんは、わざわざ大阪から呼んだこともありました。」

 イ 盆踊り

 「盆踊りのときには、商店街も大変盛り上がっていました。私(Bさん)が子どものころには、夏の盆踊りが盛大に行われていた記憶があります。各地区の愛護班が小学校のグラウンドで踊った後、商店街の中でも踊っていました。また、花火大会のときには商店街にもたくさんの人が来ていたので、店も遅くまで開けていたと思います。そのころから商店街が主催するイベントは多くはありませんでしたが、秋祭りのときには町全体が大変盛り上がっていたことを憶えています。」

 ウ 芸能人を呼ぶ

 「私(Bさん)が小学生のころには、川之江小学校の講堂で、商店街が企画した芸能人の興行が行われていたことを憶えています。音楽室が芸能人の控室になっていて、父に控室へ連れて行ってもらった記憶があります。興行の出演者は、駆け出しの芸能人が多かったと思いますが、後にテレビ番組に頻繁に出演するようになった人もいました。その興行を見るためには、商店街で一定の金額以上の商品を購入して、招待券を手に入れる必要があったと思います。興行に小学校の施設を利用するようなことは現在では考えられませんが、当時はそうしたことにも寛容だったのでしょう。川之江小学校が商店街に隣接していたため、利用しやすかったのではないかと思います。」

 エ アーケードの装飾

 「私(Aさん)は長い間アーケードの装飾を任され、夏には青竹を組んで糸瓜(へちま)を飾り付けるなど、季節に合わせた飾り付けをしてきました。印象に残っているのは、現在のアーケードができて間もないころ、鯉のぼりを飾ったことです。人形店に鯉のぼりを飾りたいと相談したところ、協賛してくれることになり、たくさんの鯉のぼりを寄付していただきました。その鯉のぼりをアーケード全体に飾り付けると大変話題になり、NHKが取材に来たことを憶えています。」

 オ 『今夜何かが起きる』

 「アーケードが新しくなったころ、大晦日に『今夜何かが起きる』というキャッチフレーズで、八幡神社と吉祥院への初詣客をターゲットにイベントを行ったことは、私(Aさん)にとって、一番思い出深いことです。その日には19時になると、商店街の各店が一斉に店を閉めます。お客さんは何が起こるのか期待しますが、その時点では教えませんでした。
 21時になると、各店が再オープンして特別セールを行い、アーケードの至る所で樽(たる)酒を振る舞ったり、新巻鮭が高い確率で当たる抽選会を行ったりしました。その結果、商店街はたくさんの人であふれ返っていました。私の店は21時から深夜の1時まで店を開けていましたが、その4時間で普段の何倍もの売り上げがありました。そのほかの店も、工夫を凝らした店ではかなりの売り上げがあったようです。『今夜何かが起きる』を企画したとき、商店街の店を1軒1軒回ってイベントへの協力をお願いしました。『人は集めるので、それぞれの店の努力でお客さんを店に呼び込んでください。』と訴えて、『正月に売るものがない』という店には、『問屋から商品を借りて来て並べたらどうか。』などと提案して、開催することができたのです。
 このイベントは10年ほど続きましたが、私は、そのようなお客さんを喜ばせる仕掛けを考えるのが大好きでした。私たち商売人は、大晦日のような、人が休んでいるときに仕事をして、人が仕事をしているときに休めばいいので、人が多くて混雑しているときに遊びに行かなくてもよく、いろいろな所が空いている時期に遊びに行くことができます。」

 カ 紙まつり

 「『紙まつり』の前身であるペーパーカーニバルは、昭和53年(1978年)、青年会議所の主催で始まりました。当時、私(Aさん)は青年会議所に属していなかったので、始まった経緯をよく知らないのですが、今まで40年以上も続いているのは、すごいことだと思います。」
 「私(Bさん)が高校生のときに紙まつりが始まり、現在のアーケードができたころから、商店街のイベントが増えてきました。紙まつりは、栄町商店街や商店街横の広場、市民会館を会場としていましたが、妻鳥地区に紙産業技術センターができた後は、そちらが会場になっていた時期もあります。また、現在は栄町商店街とアーケードでつながっている駅通り商店街も会場になっています。さらに、栄町商店街横の広場では、『にぎわい広場(仮称)』というイベントステージが建設されているので、来年(令和2年〔2020年〕)の紙まつりはそちらも会場になると思います。」

 キ 駐車場

 「現在、小学校の跡地の一部は広い駐車場となっています(写真1-1-9参照)。昔は自家用車を持っている人が少なかったため、商店街に駐車場は必要ありませんでした。フジ川之江店ができたときも、最初は数台分の駐車場があったくらいでした。昭和40年代、この辺りは、まだまだ車社会ではなかったのだと私(Bさん)は思います。しかし、自家用車を持っている人が増えてくると、商店街に駐車場があるかどうかが、集客に大きく影響するようになりました。郊外に大型店が進出する流れになっているのは、広い駐車場を確保しやすいからだと思います。フジ川之江店も、その後、隣接地を買収して広い駐車場を確保し、社会の変化に対応しました。栄町商店街には、お客さんが無料で利用できる広い駐車場があるので、車で来てもらいやすくなっており、商店街にとって駐車場は欠かせないものだと思います。
 ただし、駐車場は市が所有していて、無料開放されているわけではないので、1台当たりいくらというように料金を設定して年間使用料を算出し、市に支払っています。金額が大きいため、商店街以外の、近隣の事業所や飲食店などにも協力をお願いして会員になってもらい、会費を集めて使用料を何とか確保しているところです。金銭的な負担にはなりますが、駐車場がないと商売が成り立たないので続けています。」

(4)商店を営んで

 ア マルマス洋品店

 (ア)洋品店を営む

 「私(Aさん)は高校卒業後、県外の一般企業に就職しましたが、昭和39年(1964年)、23歳のときに川之江に戻ってきて、父の仕事を手伝うようになりました。すぐに父に代わって仕事を任されるようになりましたが、当初は必死でした。商売が面白いと思い始めたのは、仕事にも慣れて少し余裕が出てきた昭和50年(1975年)ころです。当時の店舗の広さは現在の半分ほどで、昭和54年(1979年)に北隣を買収して店舗を広げました(図表1-1-3の㋙、写真1-1-10参照)。
 洋服を扱う小売店はどこでも同じだと思いますが、店主とお客さんの年齢は大体同じくらいで、店主はお客さんと一緒に年を取っていきます。お客さんが高齢になると、多くの洋服を必要としなくなったり、お客さん本人が亡くなったりして、常連さんが徐々に減っていきます。また、店主が高齢になると、30歳代くらいまでの若いお客さんが来たとしても、店主が勧める洋服を信用して購入しようとはしないのではないかと思います。後継者がいれば、若い年齢層のお客さんのニーズにも対応することができるのでしょうが、現在の小売店ではなかなか難しいのではないかと思います。」

 (イ)忙しい時期

 「洋品店が忙しい時期は、一般的には10月から2月の間と7月ころではないかと私(Aさん)は思います。特に10月から12月の間は冬物がよく売れる時期なので忙しくなります。今は普段から良い服を着ているお客さんが多く、年始だから良い服を買おうという方はあまりいませんが、寒い時期になると着込む必要があり、普段以上に洋服が売れるためです。2月と8月は洋服の端境期に当たり、2月には冬物が、8月には夏物が終わるので忙しさが少し落ち着きます。」

 (ウ)女性が購入

 「大阪(おおさか)で生活した若いころに、『商売というものは、女性か口が絡むと面白い。』と聞いたことがあります。これは、女性が買う商品か、食品や酒を扱うと儲(もう)かるという意味です。私(Aさん)の店のように、紳士物を扱っている店でも、買い物に来るのは男性よりも女性が多いのです。これは、夫婦の場合、御主人の服を奥さんが購入する場合が多いからです。お洒落(しゃれ)にこだわる男性は、自分で店に来て洋服を選んで購入しますが、そのような男性はあまりいません。奥さんが来られても、御主人を知っている場合が多いので、『こんな服はどうですか』と勧めることができます。
 オーダーメードの背広の場合は、採寸を行うため、男性本人に来店してもらう必要がありますが、そこはお客さんにも理解いただいています。なお、背広を作りに来てくれるお客さんは、大体が常連さんです。オーダーメードの背広には高価なイメージがありましたが、最近は4万円くらいで仕立てることができるようになり、昔に比べると随分安価になっています。」

 (エ)商品の配達

 「私(Aさん)の店では、お客さんの自宅への配達もしていて、以前は平日の日中に、常連の方の奥さんから『夫にこういう服が欲しいので、見繕って持って来て。』という注文がよくありました。私は常連の方の好みを知っているので、職業や年齢なども考えて選んだ商品を何点か持って行き、奥さんに『御主人にこれはいかがですか。』と勧めると、こちらの洋服選びを信頼してもらっていたため、全ての商品を買っていただいていました。また、『夫のズボンが欲しい。』という注文があったときは、その方のサイズも分かっているので、2、3本を選んで持って行き、『ついでにシャツはいかがですか。』と勧めて買っていただくこともありました。
 このような売り方は、今どきの量販店とは違います。古くから付き合いのある常連さんの場合、配達の際に自宅に上がらせてもらい、世間話などをしながら仕事をしていく中で、家族構成なども分かってくるので、その方に合う商品を勧めることができるのです。新商品が出たときには、常連さんには着ていただきたいので、似合いそうな商品を選んで配達します。すると、御主人に似合うかどうか不安そうにしている奥さんから『これは主人が着ても大丈夫ですか。』と言われることがあります。そのようなときにも、私は自信を持って商品を勧めています。」

 (オ)メーカーの展示会

 「私(Aさん)の店で扱う商品は専門的なメーカーの商品です。メーカーは、年に2回、秋冬物と春夏物の展示会を大阪で開きます。その展示会で商品を実際に自分の目で見て、Aさんにはこれがいい、Bさんにはこれがいいなどと、常連さんのことを想像しながら発注します。メーカー側からすると、受注が少ない商品は廃盤にすることができるため、ロスが少なくなるというメリットがあります。このようにメーカーと太いパイプでつながっているのです。
 私の店と取引のあるメーカーは、多いときには30社以上ありましたが現在は10数社で、展示会を行っているのはそのうち7、8社です。洋服はそれぞれのシーズンが終わったころに次年度の発注が始まるため、夏物の場合は9月に次年度の夏物の発注が始まります。問屋で商品を一通り揃えることもできますが、粋な商品、いわゆるブランド物は、なかなか揃えることができません。このように、個人の洋品店と量販店とでは商品の流れに違いがあります。
 展示会はメーカー同士が日程を調整していて、大抵は同じ日に行われていました。当時、私は大阪で開かれていた展示会に妻と出掛けて、1日に7会場を回ったこともありました。私は大阪の地理に詳しかったので、1日で効率良く回る方法を考えながら会場を回っていました。当時、大阪へ出掛けるときには、夜に川之江港を出ると早朝に青木港(神戸市)に着くフェリーを利用し、川之江への帰りは新幹線を利用していました。その日のうちに川之江へ帰るためには、新大阪駅を17時までに出発する新幹線に間に合わせなくてはなりませんでした。
 岡山駅で新幹線から在来線に乗り換えて宇野駅まで行き、そこから宇高連絡船で高松に渡ります。高松駅からは川之江駅に21時24分に到着する便に乗り、大体4時間半かけて帰っていました。なお、宇高連絡船のデッキで売られているうどんが大変おいしくて人気があったので、行列ができていたことを憶えています。連絡船に乗ると、皆さん荷物を置いて、うどん屋さんに急いで行っていました。私が乗船したときには、一度に2杯注文して食べていました。」

 (カ)洋品店を続けて

 「店を続けて来て良かったことは、人脈が広がったことです。お客さんはもちろんですが、それぞれの店のオーナーさんにも知り合いがたくさんできました。ちなみに、私(Aさん)が若いころには、地域のお年寄りに挨拶をした際、『この人は誰かな』という顔をされることがありましたが、現在では逆に、私が若い方から挨拶をされても『誰だったかな』と思うことがあります。
 私が店を手伝うようになった当時と現在の商店街とを比べると、店舗数は減りましたが、店の種類はそれほど変わっていないと思います。その一方で、人の流れは変わってきました。世の常として避けて通れないのですが、バイパスができるなど道路事情が変わってきて、郊外に量販店ができたことも要因の一つではないかと思っています。」

 イ 髙原呉服店

 「髙原呉服店は、新町から栄町に移転してきましたが、当時のことは、私(Bさん)はあまり聞いたことがありません(図表1-1-3の㋚、写真1-1-11参照)。ただし、移転した当時、この辺りでは柴田モナカ本舗と並び、最初に出店した店舗の一つだったそうです。
 子どものころ、イベントのときは別として、普段からお客さんで店が一杯だったというイメージはありません。昔、着物は普段着だったので、日常的に布や雑貨を買いに来るお客さんがいたのではないかと思います。現在、着物は特別な日に着るフォーマルなものになってきたので、以前のように日常的に来るお客さんの数は減ってきました。
 商店街をぶらぶらと歩いていて、ふらっと店に立ち寄り、欲しいものがあったから買って帰るというお客さんは少なくなり、買いたい物があるので店に来るというお客さんが増えました。ただし、柴田モナカ本舗にお菓子を買いに来て、ついでに私の店へ買い物に来るお客さんが、今でも結構いらっしゃいます。お菓子を扱う店は、現在でも根強い人気があると思います。」

写真1-1-3 現在のアーケード

写真1-1-3 現在のアーケード

令和元年11月撮影

図表1-1-3 昭和40年ころの駅通り商店街、栄町商店街の町並み

図表1-1-3 昭和40年ころの駅通り商店街、栄町商店街の町並み

Aさん、Bさんからの聞き取りにより作成。民家は表示していない。灰色部分はアーケードを示す。

写真1-1-9 駐車場

写真1-1-9 駐車場

令和元年11月撮影

写真1-1-10 マルマス洋品店

写真1-1-10 マルマス洋品店

令和元年12月撮影

写真1-1-11 髙原呉服店

写真1-1-11 髙原呉服店

令和元年12月撮影