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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)川之江小学校

 ア 商店街にある小学校

 「私(Bさん)が小学校4年生のとき(昭和46年〔1971年〕)まで、川之江小学校は栄町にありました。金物店の前辺りが正門で、横断歩道があり、信号もあったかもしれません(図表1-1-3の㋛、写真1-1-12参照)。校舎に入ると、中庭に丸池がありました。1年生の教室が線路に一番近く、すぐ側(そば)を列車が通るので、その度に『窓を閉めなさい。』と先生が言っていたことを憶えています。夏は暑くて窓が開けられたままだったので、列車が通ると先生の声が全く聞こえませんでした。
 栄町の子どもたちは、小学校の8時のチャイムが鳴り始めてから登校しても間に合うくらい、すぐ側に住んでいたので、集団登校ではありませんでした。ほかの地区の子どもたちは集団登校をしていたので、それが格好良く見えたことを憶えています。
 私が5年生のときに小学校が現在地へ移転して、私も2年間はそちらへ通いました。なお、現在の校舎は移転当時のものではなく、新しく建てられたものです。」

 イ たくさんの子どもたち

 「現在の川之江小学校は学年ごとに3クラスですが、私(Bさん)が小学生のときは5クラスで、6クラスの学年もありました。講堂に全校児童が集まるときには、1階が低学年、2階に高学年と分かれて入っていて、ぎゅうぎゅう詰めの状態でした。低学年の児童は整列するとき、『小さく前へならえ。』をしていたのを憶えています。私より上の戦後のベビーブーム世代のときは、さらに子どもの数が多く、全校児童数が1,700人くらいだったと聞いています。なお、講堂は小学校が移転した後も残っていて、しばらくは市民体育館として利用されていました。」

 ウ 子どもたちの遊び

 「昔は子どもの数が多くて、商店街の中にも隣近所に一緒に遊ぶ友達がいました。放課後や休日には小学校でもよく遊んでいて、グラウンドでソフトボールをしていたことを私(Bさん)は憶えています。また、山下地区の辺りにも友達が多かったので、よく遊びに行っていました。
 友達と映画を観(み)に行くこともありました。映画館は栄館、八千代館と、名前は忘れましたが、もう一つあったと思います。八千代館で映画を観た記憶がありますが、栄館は私が小学生のころにはもう営業していなかったと思います。
 西新町の辺りが現在のように埋め立てられていなかったとき、私は海に向かって石を投げて遊んだことがありますが、体に海水が掛かると、そこが赤くなりかゆくなっていました。当時、子どもたちの間では、『ヘドロかいかい病』と言っていたのを憶えています。今となっては昔話ですが、私が子どものころは公害が深刻な問題になっていて、海にはたくさんのヘドロが溜(た)まっていたのです。」

(2)行商

 「毎日夕方ころになると、行商のおばあさんが商店街へ来ていたことを私(Bさん)は憶えています。このおばあさんは、私の店のお客さんでもあった方で、川之江高校の前を過ぎて商店街に入り、駅前辺りまでリヤカーを引きながら歩いて来て、『今日はいるものないで。』と言いながら売り歩いていました。リヤカーには野菜や果物、味噌(みそ)などの加工品を一杯に載せていたと思います。味噌は美味(おい)しかったようで、おばあさんが行商をやめた後、『あの味噌はどこかに売っていないだろうか。』とお客さんに聞かれたことがありました。私の息子が幼いころ、おばあさんが息子にヤクルトをくれたことを憶えているので、平成の初めころまで続けていたと思います。このおばあさん以外にも、リヤカーに商品を載せて売っている方が何人かいました。現在はリヤカーではなく、自動車に商品を載せて販売している方がいます。」

(3)新しい道

 「栄町商店街の東側に駅前へと南北に抜ける道ができたのは、小学校が移転してからそれほど経(た)たないうちだったと私(Bさん)は思います。この道ができたため、駅に向かうバスは栄町商店街を通らなくなりました。同じころに花園山が削られ、四国中央病院や川之江高校の北側を東西に通っている道が国道11号線へと抜けました。」


<参考文献>
・川之江市『川之江市誌』 1984
・愛媛県『愛媛県史 近世 下』 1987
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994

写真1-1-12 旧川之江小学校正門付近

写真1-1-12 旧川之江小学校正門付近

令和元年12月撮影