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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 鉱業と人々のくらし

(1)子どものころの記憶

 ア 旧佐々連鉱山での生活

 「両親がともに旧佐々連鉱山で働いており、私(Cさん)は、旧佐々連の社宅で生まれ育ちました。父は坑内の落盤を防ぐための支柱工として、母は選鉱場で働いていました。その当時は60人くらいの人たちが働いていていたのではないかと思います。旧佐々連の社宅は全部で50軒もなかったと思いますが、販売所と共同浴場がありました。社宅は、6畳と2畳の2間しかなく、5人家族の私たちには狭かったことを憶えています。小学校は社宅のすぐ近くの一本杉という所にあり、社宅の子どもばかりでした。放課後は、社宅の子どもたち同士で、校庭で遊んだことを憶えています。中学校は、片道8kmの道のりを徒歩で通学しました。社宅以外の子どもも通っており、校舎は私が卒業した後に、ダムができて水没しました。]

 イ 新しい社宅での生活

 「中学校3年生のときに、旧佐々連で働いていた人たちが、一斉に金砂に移動しました。社宅は2畳の部屋が4畳半に変わった程度で、あまり広くありませんでしたが、それでも新しくてきれいだったことを憶えています。金砂に移動してから、どんどん従業員が増えていき、最盛期には従業員が800人近くになり、社宅の人口も3,000人くらいいました。
 金砂の社宅は、北京区、東区、南区に分かれており、それぞれに販売所がありました。販売所では、食料品や生活用品などが売られていましたが、旧佐々連のときより品数が豊富で、スーパーマーケットのようだったことを憶えています。なお、第2尾鉱(びこう)ダム(堆積場)の下に金砂別という所もあり、鉱山とは関係ない方が住んでいました。北京区が一番広くて4区まであり、洗心寮と明徳寮の二つの独身寮や診療所がありました。娯楽施設として北京区にパチンコ店が、小学校裏に会館がありました。会館は平日の日中、小学校の講堂として利用されていましたが、土曜日と日曜日には映画が上映されていたことを憶えています。グラウンドもありましたが、元々は堆積場で、鉱石の滓(かす)で満杯となったためグラウンドとなった場所です。堆積場は第3まで造られていました。社宅から少し離れた所に神社もあり、そこでは相撲大会が行われていました。また、社宅以外に住んでいる社員は、バスで通勤していたことを憶えています。」

(2)鉱山で働く

 ア 入社

 「私(Cさん)は昭和31年(1956年)から閉山する昭和54年(1979年)まで、佐々連鉱山で働きました。鉱山で働くことにしたのは、ほかの仕事と比べて賃金が格段に良く、大手製紙会社の倍近くもあったからです。入社後、長い間運搬業務に従事し、最後の7年間は削岩工として働きました。金砂に移動してから、坑道は奥深くまで掘り進められていきました。30mごとに坑道があって、私が入社したころは6番から24番までで、最後は42番までできました。従業員は立坑を使って坑道に下りて行き、鉱石は斜坑を使って巻き上げていました。立坑は当初、中央立坑だけでしたが、深くなっていくと下部立坑ができました。」

 イ 勤務時間

 「勤務時間は8時から16時までと16時から0時までの2交替制で、1週間ごとに代わっていましたが、まれに、3交替ということもありました。8時からの勤務の場合は12時から13時まで、16時からの勤務の場合は20時から21時までが食事休憩でした。それ以外にも適宜休憩を取っていて、勤務時間8時間のうち、実際に仕事をしていたのは半分くらいで、残りは休憩時間と作業現場までの往復時間でした。勤務日は月曜日から土曜日までで、日曜日が休みでした。祝日は勤務日でしたが、5月の連休とお盆、年末年始にはまとまった休みがありました。休日は、社宅で仕事仲間とマージャンをよくしていました。たまに三島に行って遊んだり、赤石山に登ったりすることもありました。」

 ウ 詰め所

 「坑内の詰め所に更衣室があり、そこで作業着に着替えていました。ヘッドライトが付いたヘルメットと防塵(じん)マスクを着けて作業に向かいます。防塵マスクは使い捨てで、何日かごとに取り替えていました。削岩のときには、さらに保護メガネを装着していました。仕事が終わると、作業着が汗まみれになって汚れているので、詰め所にある洗濯場で自分の作業着を洗濯して、干してから帰っていたことを憶えています。干した作業着は翌日には乾いていました。作業着は洗濯をしながら毎日着ていて、破れるなどしたら新しいものに交換していました。詰め所は2坑道に一つずつあり、そこで弁当を食べたり休憩したりしていました。詰め所には電灯もあり、明るかったのですが、現場には電灯がなく、ヘッドライトの明かりを頼りに作業をしていました。」

 エ 暑かった坑内

 「坑内は夏冬関係なく年中暑くてサウナのようで、冬場は下から坑口近くまで上がって来ると、いきなり寒く感じたことを憶えています。熱中症対策という意識はありませんでしたが、詰め所でお茶を沸かして水分補給をしていました。やがて、暑さ対策として、30番坑道ができたころに、通風洞という空気を送るための新しい坑口が開けられました(写真3-2-9参照)。そこに大きな扇風機のようなものを設置して、チーリングと呼ばれる機械で空気を冷やして坑内に風を送ると、5度近くは温度が下がり、体感的にも暑さが和らいだことを憶えています。」

 オ 運搬業務

 「昔は、発破後の鉱石を鋤簾(じょれん)で運搬していたそうです。私(Cさん)が入社したころには、ローダーという機械で鉱石をトロッコに移して、集積場まで人力で押していくように変わっていました。また、集積場に集められた鉱石を坑外へ運び出す際、エンドレスという電力で引き上げる機械も使われていたそうです。その後、トロッコは手押しではなくなり、蓄電車でトロッコを牽(ひ)いて、300斜坑前の貯蔵庫まで運ぶようになりました。貯蔵庫まで運ばれた鉱石は、トロッコを横にしたようなスキップに載せて、45度の傾斜がある300斜坑で、巻き上げ機を使って坑口の大切坑まで引き上げていたことを憶えています(写真3-2-10参照)。大切坑から、また蓄電車でトロッコを選鉱場まで運びました。」

 カ 削岩業務

 「基本的に1人で岩盤に穴を開けて、そこに火薬を詰め、その日の作業の最後に発破をかけていました。サブレベルの削岩のときには、10mくらい下向きに穴を掘ってから発破をかけます。その際は1m20cmから1m30cmくらいのビットを繋(つな)ぎ足しながら穴を掘っていきました。発破の作業には、何百kgものアンフォという火薬が必要でした。普通の坑道を掘り進めるときは、20か所くらい穴を開けて、火薬を詰めて発破をかけていたことを憶えています。昭和34、35年(1959、60年)くらいまでは、導火線で発破をかけていたと思います。それ以後は電気式に代わり、スイッチを押して発破をかけていました。発破の作業後は粉塵が舞っているので、坑内に入ることができませんでした。翌日、坑内に入ると、また奥に進んで岩盤に穴を開けていきました。発破の作業は1週間に1回くらい行われていました。」

 キ 危険な落盤

 「鉱山で働いていて一番大変だったのは、落盤の危険と隣り合わせだったことです。私(Cさん)は実際に運搬作業をしていたとき、落盤に巻き込まれそうになったことがありました。現場に着いて、ローダーで鉱石をすくい上げようとしたとき、変な音が聞こえました。勘が働いたのでしょうか、とっさに危ないと思い、慌ててすぐにそこから飛び出しました。すると落盤が起きて、蓄電車やトロッコ、ローダーが岩盤に埋もれてしまったことを憶えています。」

 ク 閉山

 「昭和38年(1963年)に大規模な合理化が行われて、従業員が大勢減りました。その後も何回か合理化が行われて、どんどん従業員が減っていきました。従業員が減っていったときには、親しい仲間がいなくなり、社宅の人も減っていくので寂しかったことを憶えています。閉山時には、従業員が120人から130人くらいになっていました。なお、合理化によって従業員が減っていき、社宅に空きができると、そこが縫製工場になったことを憶えています。
 私(Cさん)は閉山の2、3年前に鉱山の社宅を離れ、三島から自家用車で40分くらいかけて通勤するようになりました。社宅を離れたのは、特に理由があったわけではありませんが、通勤してみようと思ったからです。閉山を知らされたのは、閉山の1か月前でした。鉱石が終わりに近づいてきているとは感じていましたが、閉山の気配はなかったので、みんなが驚いていたことを憶えています。そのころは、坑道の奥深くまで掘り進み、かなり暑くなっていたので、体力的に限界になってきていました。閉山を聞かされて驚いた一方で、『いよいよ閉山するのか』と、ホッとしたことを憶えています。その後は、旧佐々連の坑口を塞ぐ作業を行い、閉山を迎えました(写真3-2-12参照)。閉山後は、新居浜市西原町の精銅工場で勤務しました。鉱山で勤務していたころに比べて、かなり給料が減ったので、最初は驚いたことを憶えています。旧佐々連の時代を含め、長い間鉱山で生活してきました。現在の生活とは全然違いますが、当時は特別な生活だとは思っておらず、そこでの生活が当たり前だと感じていました。」

(3)現在の佐々連鉱山

 閉山後の佐々連鉱山は、元診療所を管理事務所とし、現在社員2名で鉱山施設の管理を行っている(写真3-2-13参照)。施設内は安全確保のため立ち入り禁止とされているが、今回の報告書の作成にあたり、特別に許可をいただいて現況の写真撮影をさせていただいた。佐々連鉱山の現況について、管理事務所の方に話を聞いた。
 「私たちの主な仕事は、坑水処理と堆積場の管理になります。閉山後、坑口から出てくる坑水を継続して処理してきました。徐々に水質が改善されており、処理対象となる鉄イオンとCOD(化学的酸素要求量のこと。この値が高いことは水の中に有機物が多いことを示し、水質汚濁の指標の一つ。)の値は2010年以降排出基準をクリアする濃度まで下がっています。これまで薬剤を用いた処理設備(鉄イオンの除去)と活性炭処理設備(CODの除去)を用いて坑水処理をしてきましたが、関係官庁の許可を受けて、水路を用いた自然流下方式による坑水処理方法へ変更しました。この方式は、水路を流れ落ちる際に空気が坑水中に取り込まれることで鉄イオンが除去されるため、薬剤や電力を用いない環境にやさしい処理方法です。現在のところ鉄分を沈殿槽で沈殿分離させる必要がありますが、さらに水質の改善が進むことで、将来、坑水処理は不要になるかもしれません(写真3-2-14参照)。私たちは坑水処理や堆積場の管理を通して、お世話になった地域社会へ貢献していく所存です。」


<参考文献>
・住友金属鉱山会社『住友金属鉱山二十年史』 1970
・伊予三島市富郷農業協同組合『伊予三島市 嶺南』 1984
・伊予三島市『伊予三島市史 下巻』 1986
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・四国中央市富郷地区協議会『ふるさと富郷』 2013

写真3-2-9 通風洞

写真3-2-9 通風洞

令和元年12月撮影

写真3-2-10 大切坑

写真3-2-10 大切坑

令和元年12月撮影

写真3-2-12 佐々連鉱山碑

写真3-2-12 佐々連鉱山碑

令和元年12月撮影

写真3-2-13 佐々連事務所

写真3-2-13 佐々連事務所

令和元年12月撮影

写真3-2-14 沈殿槽

写真3-2-14 沈殿槽

令和元年12月撮影