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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 米を作る

(1)昔の米作り

 ア 牛を使った農作業

 「当時、農作業には牛が欠かせず、どの農家にも牛小屋がありました。まず、牛に犂(すき)を牽(ひ)かせて田起こしをします。次に、まだ田には大きな土の塊があるので、その塊を砕くために、『飛行機』を使いました。飛行機とは、真ん中から開く、下に歯が付いた農具です(写真2-1-3参照)。その飛行機を牛に牽かせて、塊を砕いていくのですが、子どものころの私(Cさん)は、そのときに飛行機の上に乗ることをとても楽しみにしていたことを憶えています。最後に、クレタタキという先の尖(とが)った農具で地面を叩(たた)き、土を細かく砕いていました。その後、田んぼに水を張って、代かきを行いますが、この作業にも牛の力が必要でした。
 たまに牛が暴れて逃げ出すことがありましたが、そのようなときは、オスやメスの関係なく、他の牛を連れて行けば落ち着くので、落ち着かせたところで牛に飛びつき、捕まえていました。」
 「この辺りでは、どの農家も牛を飼っていました。その中でも、牛の扱いが上手な名人がいたことを私(Bさん)は憶えています。牛を操るためには、牛の鼻輪に繋(つな)いだ綱を使い、右側を引っ張ると右へ、左側を引っ張ると左に曲がっていました。牛の扱いが上手にできなければ、両手で綱を引っ張らなくてはなりませんでしたが、名人は『片綱』と言って、片手で器用に牛を操っていて、『あの人は、牛の扱いが上手(うま)いなあ。』と言われていたことを憶えています。」

 イ 田植え

 「水を張った田んぼに籾(もみ)を蒔(ま)いて、苗を育苗するための苗代を作ります。生長した苗を束ねて水を切るために、下が網目になっている籠に入れて、田植えをする田んぼまで天秤(びん)棒で担いで持って行きました。田植えのときには、男衆(おとこし)さんを雇っていましたが、苗を田んぼに植える人よりも、苗代から苗を取って、田植え用に束にまとめていく作業を行う人の方が、はるかに高給取りだったことを私(Cさん)は憶えています。まとめるには技術が必要で、『あの人は苗を束にするのが上手い。』などと言われていました。束にした苗は次々に田んぼに投げ込まれますが、根の方が重いので、上手く田んぼに刺さるのです。それを田植えの作業を行う人が植えていました。
 田植えをする際は、印の付いた糸を張っていました。今でも『田植え縄』という名前で売られており、農協で50mの長さのものが1,000円くらいで販売されています。まず、どのような形の田んぼでも、真ん中に1本の直線を入れます。そして、その直線と垂直に交わるように糸を張って、田植えをする人が印を一つずつ飛ばして横に並び、右に移動しながら端まで植えていきます。引き返すときに飛ばした印の所に植えて、さらに先に植えた苗との中間にも目測で植えていきました。これを繰り返すことで、縦横をきれいに揃(そろ)えることができたのです。」
 「運ばれてきた苗代の苗は田んぼに立てられ、それを苗取りの人が取っていきました。上手でない人は片手で苗を取っていきますが、上手な人は両手でそれぞれ取っていたことを私(Bさん)は憶えています。両手にそれぞれ苗を取って、田んぼの水で洗って回転させると束になっていました。つまり上手な人は、そうでない人の倍以上の速さで束にできていたので、高給取りになっていたのです。」

 ウ 堆肥

 「私(Cさん)が子どものころ、農作業の手伝いで一番つらかったのは、『ダヤゴエ』と呼ばれていた、藁(わら)に牛の糞(ふん)を混ぜて発酵させた堆肥を田んぼに撒(ま)くことでした。『ダヤゴエ』を父が田んぼまで籠に入れて持って行き、その場で適当な大きさにちぎって田んぼに均等に撒いていきました。時折、生々しいものが混ざっていて、ものすごく嫌だったことを憶えています。『ダヤゴエ』は、田起こしをして土を返すときに撒いていました。」

 エ 稲刈りと草刈り

 「稲刈りには、鎌を使っていました。複数人で刈る場合は、最初の人が田んぼに入って、刈り取った稲を右側に置きながら下がっていき、2mくらい進むと次の人が左隣に入って、同じように刈り取った稲を右側に置きながら下がっていく、さらに次の人が同じようにして、と繰り返し、きれいに刈り取っていたことを私(Cさん)は憶えています。現在は機械で稲刈りを行いますが、土手の草刈りも同じような方法で行うと、きれいに縞(しま)模様で刈り取ることができます。ところが、鎌を使って稲刈りを行うことを経験していない世代の人は、効率良くきれいに刈る方法を知らずに適当な所から草刈りを始めてしまうことがあり、作業する人同士がぶつかってしまうこともあります。」

 オ 脱穀

 「刈り取った稲は3日ほど干しました。この辺りでは稲木に掛けて干すことはなく、田んぼに敷いて干してから束ねていました。その後、足踏み脱穀機を田んぼへ持って行き、脱穀をしていました。脱穀をする前の日には、山のように積まれている稲の束に筵(むしろ)を掛けて、雨や露で濡(ぬ)れないようにしておかなければなりませんでした。脱穀は家族総出の作業で、大変な仕事だったことを私(Cさん)は憶えています。父は足踏み脱穀機で脱穀をし、母は脱穀機の前で脱穀し終わった籾を集め、ふるいに掛けて袋に入れます。祖父は脱穀後の稲の束を受け取って、藁ぐろにするために縛り、子どもたちは縛られた稲の束を運ぶという役割分担でした。早い家では脱穀を朝4時ころから始めていました。脱穀機の大きな音がするので、始まったことが分かるのです。早朝の暗いうちから始めるので、カーバイドランプで照らしながら行っていたことを憶えています。」

 カ 昭和30年代からの機械化

 「昭和30年代に入ると農機具も徐々に機械化が進み、脱穀機は足踏み式から発動機のものに変わりました。脱穀が終わると籾摺(す)りを行って玄米にしますが、移動式の籾摺り機を集落単位で購入し、10人くらいの共同作業で行っていました。集落に籾摺り機が2台ある場合は、集落を上組、下組というように分けて、それぞれの組が籾摺り機をリヤカーで運んで使用していました。
 また、動散(動力散布器)による消毒も始まりました。初めのころは、1人で動散を担いでホースの口から消毒剤を吹き飛ばしていました。やがて、2人でホースの端と端を持って消毒剤を出す、『ナイアガラ』と呼ばれるタイプへと変わりました。2人で消毒することになり、作業が楽になりましたが、2人のうち1人は動散を担がなくてはなりませんでした。ナイアガラが出たのは私(Cさん)が高校生のころで、父と2人で使っていましたが、私がいつも動散を担いでいたので、少し不満に思っていたことが思い出されます。動散は空中に消毒剤を撒くので、いずれにしても顔全体を覆うマスクが必要だったことを憶えています。」
 「初期の耕耘(うん)機は発動機が一体になっておらず、籾摺り機など別の農機具の発動機を転用することもあったことを私(Bさん)は憶えています。やがて、発動機も一体となったものが普及していきました。また、初期の田植え機は歩行するタイプで、メーカーによって1輪車か2輪車の違いがあり、それぞれ1輪車は狭い場所でも入る、2輪車は安定する、という長所がありました。」

 キ 給料制

 「米の年間の買い取り額は大体決まっていたので、年間給料制の形で毎月農協の特別口座に代金が振り込まれていました。少なくとも、私(Cさん)が高校生のときには全て給料制だったと思います。農協が、『この人は今年、米をこれくらい作るのだろう』という量を予測して、年間買い取り額を計算し、その金額を12等分して、毎月決まった日にそれぞれの口座へ入金していました。ほかの地区のことは知らないので、県下全域が同じ制度であったかどうかは分かりません。その給料から両親は、私たち兄弟5人の学費を全て出してくれました。私は高校まで汽車を使って通学していたので、通学のための定期代が必要で、両親は大変だったと思いますが、私は『母さん、今度、金がいるで。』とばかり言っていました。私の家では養蚕も行っていましたが、養蚕も給料制で入金されていたと思います。」

(2)特別栽培米生産組合

 ア 子どものころの記憶

 「三間の米がおいしいのは、三間の土壌が粘土質のためと言われますが、それに関して思い出があります。昭和15年(1940年)、私(Aさん)が小学校5年生のときに、半(はん)夏(げ)水(みず)(集中豪雨、水害のこと)がありました。当時は6月下旬から7月初旬ころまでが田植えの時期だったのですが、半夏水で三間川が氾濫して町全体が浸水してしまい、田植えを終えたばかりの田んぼも水没してしまったのです。雨がやんで4、5日後、田植えから1週間ほど経(た)って、勤労奉仕で田んぼの復旧作業を行いました。水が引いた後の田んぼに素足で入りましたが、10cmほど粘土が溜(た)まっているだけだったので、植えられていた苗をスッと引き上げて植え直すことができたのです。三間には何mもの粘土が溜まっているようですが、これは、このような水害を繰り返してきたからだ、と後になって思いました。現在の三間川は整備されて真っ直(す)ぐに流れていますが、昔の地図を見ると蛇行しています。それは、このように水害を繰り返してきたことの証である、と言えると思います。」

 イ 特別栽培米生産組合

 「食糧管理法では、作った米は全て農協に出すように定められていました。農協以外で売ることはヤミ米となり、法律違反だったのです。平成元年(1989年)、食糧管理法が改正され、特別な作り方をした米は生産者が直接消費者に売ることが可能となったことから、当時の三間町役場の職員さんが、『三間の米は昔からおいしい米と言われている。だから特別な作り方をしよう。』と提案をしたのです。昔からこの辺りでは、米を作るときに、山で刈った草を肥料にして田んぼに入れていました。私(Aさん)は、『特別な米を作るのだったら、その昔のやり方で作ろう』と考え、特別栽培米生産組合を、当初は2人の生産者で立ち上げたのです。」

 ウ コシヒカリを作る

 「私(Aさん)が子どものころ、三間で栽培されていた米の品種は農林18号で、田植えは6月20日ころから7月初めころにかけてでした。また、二毛作を行っており、冬は菜種と麦を作っていました。
 コシヒカリは特別栽培米生産組合を作る前から三間でも作られていましたが、それまでと同様に6月に田植えを行うと、稲の背が高くなってしまい、台風で倒れやすくなることを生産者は気に掛けていました。い草を作るときのネットを立て、穂が出るときにひっくり返らないようにしても台風で倒れてしまうので、困っていたのです。
 あるとき、『津島(つしま)町(現宇和島市)でコシヒカリの早期栽培をしているところがあるので、見に行きませんか。』と言われ、私のほか、5、6人で旧津島町の清満へ視察に行きました。昼食に立ち寄った岩淵の魚屋で、『六宝(ろっぽう)』という、御飯の上に鯛の切り身を載せて生卵を掛ける食べ方、いわゆる鯛めしを食べたとき、コシヒカリの御飯がとてもおいしくて大変驚きました。そこで、『これは素晴らしい。三間でも、早期栽培を取り入れてコシヒカリを作ろう。』ということにしたのです。今でも『Aさんは、六宝のおいしさにだまされた(やられてしまった)。』と、冗談を言われることがあります。
 視察を終えて三間に戻ると、どこの田んぼで早期栽培をするかについての相談をしました。協力者を探して、1町歩(約1ha)の田んぼでコシヒカリの早期栽培を始めると、それが大成功したのです。そこで、各農家に『早期栽培を行うと、コシヒカリもうまく作ることができます。麦や菜種よりもうまい米の方が儲(もう)かるので、やってみませんか。』と呼び掛けると、迫目地区では早期栽培が行われるようになりました。平成2年(1990年)には、特別栽培米生産組合が表彰され、県関係の方も来られて祝賀会を開いてもらったこともあり、三間全体で4月に田植えを行うようになったのです。早期栽培を行うと、コシヒカリの背があまり高くならないうちに収穫でき、また、台風が来るまでに稲刈りを済ませることができるようになったのです。」

 エ 有機肥料

 「有機肥料は最初、牛糞を混ぜて使っていましたが、その効果が安定しませんでした。何を混ぜれば良いのかをいろいろと調べて試してみると、鶏糞が一番安定したので、私(Aさん)たち特別栽培米生産組合では主に鶏糞を混ぜて肥料を作り、その肥料を田植えの1か月から2か月ほど前に、田んぼによって量を変えて、1反(約10a)当たり300kgから400kgほどを撒いています。また、穂肥診断を行って、適切な時期に適量の有機肥料を与えるようにしています。」

 オ 米保冷庫

 「政府の長期備蓄米は15℃の温度で保管されています。そうすることで3年から4年ほど保管した米でも食べられます。コシヒカリを早期栽培すると、8月の一番暑い時期に収穫することになるので、そのまま米を縁側へ積んで置いていると、毎日気温が30℃にもなる中で置き続けることになり、すぐに米の老化が進んでしまいます。以前のように6月に田植えを行っていた場合は、涼しい11月ころに米を収穫して、蔵の中に入れて置くと適切な温度で保管されることになり、4月まで鮮度が持ちましたが、早期栽培ではそういうわけにはいきません。三間では、農協の倉庫でも米の保管に適切な温度調節ができています。私(Aさん)の場合、以前、6,000羽ほど鶏を飼育しており、アメリカ製の卵の保冷機があったので、米の保管用に転用しました。卵を長持ちさせる温度が16℃で、米を保管するのにもちょうど良い温度だったのです。
 しばらくして、転用した機械が故障したので、クーラーと除湿器を使って自分で米保冷庫をつくることにしました。ところが、日本の大手メーカーのクーラーは、設定温度が18℃からとなっていたので、より低い温度設定が可能なクーラーを探し、山口県のメーカーが製造する、16℃から設定可能なクーラーを10万円ほどで購入しました。そして、保冷のための発泡スチロールなどは安く手に入れ、100俵から200俵は入る米保冷庫を自分でつくったのです(写真2-1-5参照)。市販されている米保冷庫よりも随分安価にできたので、仲間につくり方を教えました。
 米の保管に関しては、苦い記憶もあります。三間にも道の駅ができて、三間米を格好良く売り始めました。ところが、『三間米を買ってみたが、思ったよりうまくない。』と、消費者が責任者に直接連絡を入れてきたのです。当時、私は道の駅の役員を務めていたので、すぐにその原因究明に取り掛かりました。すると、できた米を低温で保管せず、縁側にそのまま置いていたのです。当時の道の駅の駅長から、『米を低温保管しなければならいことも知らないで、あなたたちは売っていたのですか。うまくない米をうまいと言って売って、大ウソになっていますよ。』と、生産者全体がお叱りを受けました。それからは、低温倉庫に入っていない米は、絶対に出さないことにしたのです。」

 カ 特別栽培米生産組合を振り返って

 「私(Aさん)は今年(平成31年〔2019年〕)4月に、特別栽培米生産組合の組合長を退きました。特別栽培米生産組合は、最初は2人で始まりましたが、徐々に組合員が増えて20人ほどになりました。一時、『儲かりそうだから入れてくれ。』と言われ、組合員が40人ほどになったことがあったのですが、『米保冷庫がない』などの理由で辞めてもらい、現在の20人ほどに落ち着きました。三間のうまい米は、作ったら終わりではなく、作った後の保管も大切にしているのです。
 特別栽培米のお得意様には年間予約をしてもらい、特別栽培米を送っています。現在、60kgを3万2千円で販売しており、月に1回、家庭によって10kgから20kgを送っています。電話での問い合わせもあり、最近ではインターネットでの注文もあります。
 ありがたいことに、いろいろなところで、『三間の米が一番うまい。』とか、『三間米の直売所をこちらにもつくって。』と言われます。米の全国コンクールで入賞したこともあり、販売面での心配はなくなりました。組合員の収入も安定しており、組合員も喜んでいるところです。」

写真2-1-3 飛行機

写真2-1-3 飛行機

令和元年9月撮影

写真2-1-5 米保冷庫

写真2-1-5 米保冷庫

令和元年9月撮影