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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 三間町の花卉栽培

(1)花卉経営に切り替えるまで

 ア 農業の道へ

 「私(Bさん)は戦後の学制改革によって北宇和農業学校が北宇和高等学校(愛媛県立北宇和高等学校)になった時の1期生で、自宅から学校まで自転車で通学していました。私の家では4反(約40a)ほどの田んぼで自家用の米と少しばかりの野菜を作っていました。長男であった私は、昭和24年(1949年)に高校を卒業すると、兼業農家であった父親のもとで農業を始めました。当時は長男が跡を取るのが当たり前のこととされていました。終戦後の4、5年くらいは、親戚や近所同士でお互いに仕事の手伝いをしていました。私の家は分家で、当時、本家などの4軒くらいが一緒に農作業をしていて、その中で若手だった私は先頭に立って仕事をしていたことを憶えています。高校を卒業してから4、5年くらいは、家で米などを作っていて食べものには困らなかったこともあって、将来のことをそれほど真剣に考えてはいなかったように思います。」

 イ シイタケの栽培

 「その後、昭和30年(1955年)には、仲の良かった友人と一緒にシイタケ栽培に取り組みました。5、6町(約5、6ha)あった山林のうち、植林するために伐採した雑木林を利用しました。雑木林にはナラやクヌギといった炭焼きの原木がありました。当時は、雑木を伐(き)らせてほしいと頼むと、許してもらえることもありました。それから4、5年間は県森林組合(愛媛県森林組合連合会)から指導を受けたり、各地から資料を取り寄せて勉強したりしながらシイタケ栽培を行いました。自作の乾燥機で乾燥させたシイタケを、県森林組合を通して松山や宇和島の市場へ出荷していました。そのころ市場ではシイタケが重宝がられ、100g当たり100円くらいの価格で買い取ってもらい、1日の売上が1万円くらいあったように思います。そのとき、私(Bさん)は『農業もやり様によってはやっていける、面白い』と思ったのです。シイタケ栽培は軌道に乗っていましたが、家の山林の雑木がなくなったときに打ち切りました。」

 ウ 葉タバコの専作

 「昭和35年(1960年)ころからは葉タバコを栽培するようになりました。当時、葉タバコは単位面積当たりの収益が高い安定作物の一つで、三間町でも先進的な農家の中には葉タバコを栽培していた方が多くいて、町内では一番多い人で7、8反(約70、80a)くらい栽培していた人もいました(図表2-2-2参照)。音地地区でも葉タバコを栽培していた方は何人かいましたが、私(Bさん)がいきなり6反(約60a)という一般の栽培者の2倍以上の栽培面積で栽培を始めたので、周囲の人はとても驚いていたことを憶えています。
 私は、労働力が必要な時期を集中させないよう、普及員の方とも相談してトンネル栽培をいち早く導入して作型の組合せを行う一方で、最新の乾燥施設を導入して品質の向上に努めました。また、当時、葉タバコの選別を行うとき、ほとんどの家では座敷に葉タバコを広げて1枚1枚選別していましたが、廃物を利用した自作のベルトコンベアーを用いて省力化に努めた結果、葉タバコの栽培農家の中では最初に7桁農業(農業収益100万円以上)を達成することができました。音地地区の6、7人の仲間も、それまで1、2反(約10、20a)くらいの栽培面積でしたが、『お前がそれだけやるんだったらうちでもやる。』と言って、3、4反(約30、40a)くらいに栽培面積を増やすようになり、この地区が葉タバコの産地になった時期もありました。当時の専売公社(現日本たばこ産業株式会社)は、葉タバコの出荷のことを『収納』と呼ぶなどお役所的なところがあり、葉タバコの等級や価格を決めるときにも腑(ふ)に落ちないことがあって嫌な思いをしたこともありました。ところが、昭和44年(1969年)ころから、世間では『タバコは健康に悪い』と言われるようになりました。私自身も収穫作業中の脂(やに)が嫌いで、タバコ栽培に変わる新しい作物はないか考えていたところ、市場でイチゴが人気を集めていることを知り、いろいろと検討をしました。当時、近隣の地域でイチゴを栽培している農家は数少なく、なかなか情報を入手することはできませんでした。しかし、栽培技術の習得次第で葉タバコ以上の収益が見込めると確信し、葉タバコ栽培からイチゴ栽培に切り替える決断をしました。」

 エ イチゴ栽培に熱中する

 「まず、自家用に作っていたイチゴからランナーをとり、苗の育成を始めてみたものの、そこから先の栽培方法が全く分かりませんでした。当時の私(Bさん)はまだ若かったため、少し先走ったところがあったのかもしれません。これからどうすればよいか相談するために農協へ行ったとき、高校の1年先輩に当たるAさんに出会いました。Aさんは、私がイチゴ栽培を始めるつもりでいると聞くと、『イチゴ作りは面白いぞ、やってみろや。』と言ってくれました。私は、Aさんに励まされたことでとても勇気づけられ、本格的にイチゴの栽培に取り組むことにしました。
 最初の年は露地栽培を行いましたが、市場へ出荷できるような品質のイチゴを収穫することができず、自分の家で食べるのにも余るほどでした。そこで、Aさんに相談して、2年目は露地栽培をやめてトンネル栽培を始めることにしました。私は、お正月休みのときに、近くの山林で伐(き)った孟宗竹を利用して60坪(約200m²)の大型トンネルを造りました。そのとき栽培していた品種の名前は憶えていませんが比較的がっちりした苗に育ち、思ったよりも甘味のある大きな実を収穫することができました。その当時はまだビニールパックがなく、弁当箱として使われていた、マツで作られたへぎにイチゴを詰めて出荷していました。そのため、市場ではへぎはイチゴの汁が付いて真っ赤になっていました。市場の野菜を扱う業者からは、Aさんと私が作ったイチゴの方がそれまでの産地よりも丁寧に作られていて品質が良いという評価を得ることができたように思います。その当時、葉タバコは1反(約10a)当たりの収益は平均すると18万円前後にとどまっていました。それに対して、イチゴは60坪で葉タバコ2反(約20a)分くらいの収益があったので、イチゴ栽培に大きな魅力を感じ、これからはもう少し上手にやってみようと思いました。
 それから1、2年後に、則地区のCさんからイチゴ作りの方法を教えてほしいと頼まれました。私は、『今、Aさんと一緒にやりよるけど、イチゴ作りはこっちが習わないかんくらい分からんのじゃ。面白いと思うけん、一緒に勉強しようや。』と言いました。Cさんは私より3、4歳年上で、大変熱心な栽培農家でした。私がイチゴ栽培をしていたのは5、6年くらいでしたが、その間はAさんやCさんとイチゴ作りについて勉強したことを教え合っていました。最初に蜜蜂をイチゴ栽培に導入したのはCさんでした。私もずっと昔に蜜蜂をいくらか飼育していましたが、蜜蜂を導入するといったことを考えたことはありませんでした。Cさんがイチゴの栽培を始めたころは、孟宗竹を使用したビニールハウスでイチゴを栽培していましたが、2年くらいすると小さなパイプハウスに切り替えていました。その後、立間(現宇和島市吉田町立間)のDさんも仲間に加わりました。この方も本当に熱心な人で、一緒にイチゴ作りについてよく勉強しました。当時、奈良県はイチゴの大きな産地で、栽培技術が全国で最も進んでいると言われていて、Dさんは、小型の単車に乗って奈良県まで視察に行っていたことを憶えています。」

 オ 大野ヶ原での育苗

 「私(Bさん)はあるとき、音地地区から大野ヶ原(現西予市)へ入植された方から、『高知県からイチゴの苗を持って来て植えている。あなたたちもここで苗を植えたらいいじゃないか。』という電話をもらいました。その方は、大野ヶ原におけるダイコン栽培の草分けのような方で、高知や松山の市場へダイコンを出荷して成功を収めていました。私は、Aさんたちに相談すると、最初は、『大野ヶ原まで苗を持って行かなくてもやれるぞ。』と言われましたが、『行ってみようや。』とみんなを誘って大野ヶ原へ行ってみることにしました。すると、高知県からイチゴの苗を山上げに来ていて、これは何か考えなければならないということになり、イチゴ作りの仲間5、6人が共同で大野ヶ原に土地を借りることにしました。
 現地に行ってみると、借りた土地は丈1mくらいの雑草が一面に生えている状態でしたが、草刈り機で雑草を刈った後、トラクターで均(なら)して整地することにしました。その当時、私はトラクターを購入していたので、トラックに載せて運んで来ればよいと思いました。今は日吉(ひよし)(現鬼北町)から大野ヶ原までスーパー林道が整備されていますが、そのころは惣川(現西予市)から曲がりくねった道を通らなければなりませんでした。それでもまだ若かった私は、大野ヶ原へ行くのが楽しかったことを憶えています。その当時は、みんなが別々の車で山道を上がって行き、大野ヶ原で落ち合っていました。私はトラックにトラクターを積んで4、5回くらいは大野ヶ原まで運び、何度もトラクターを使って均したものでした。そのころ、音地地区から大野ヶ原へ行くのに2時間以上かかっていました。あるとき、私が中古のトラックを運転して大野ヶ原へ向かっていると、羅漢穴という鍾乳洞がある場所から少し上がった所でオーバーヒートを起こしたことがありました。近くに川はなく、一緒にいた妻と、『弱ったな、どがいしよう。』と途方に暮れていたことを憶えています。仕方がないので、持参していたポットのお茶2ℓと、後からやって来たAさんのお茶もラジエーターのタンクに注入しましたが、それでも不足していたので、何とか人家までたどり着き、バケツ一杯分の水をもらって何とか急場をしのぐことができました。
 荒れ放題だった土地も、開墾すると本当にきれいな畑になりました。大野ヶ原での山上げは3年か4年くらい行っていたと思います。そのうち、私たちが行くようになった話が広まったためだと思いますが、宇和町からも大野ヶ原へ山上げに来るようになりました。その後、朝倉(あさくら)村(現今治(いまばり)市)からも何年かイチゴの山上げに来ていたように思います。今は、イチゴの品種改良が進んだことと、栄養分を調整して花芽分化を早める技術ができたため、山上げの必要がなくなりましたが、それまでは、高冷地で花芽分化を早めるという方法を採っていました。何年か後に私が菊の栽培に転換してからの話ですが、4月ころに咲く品種の苗を山へ上げたら少しでも早く咲くかもしれないと考えて、2年くらい個人的に山へ持って行き、畑で植えたこともありましたが、それほどの効果はありませんでした。その当時は、これは面白いなと思ったことをAさんと一緒になって考えていると、次から次へとアイディアが浮かんできて、そのアイディアをどちらかが実行していました。その後、Cさんがレッドパールを開発しましたが、そのときには私はイチゴ栽培から手を引いて、本格的に花卉栽培に切り替えていました。」

 カ ミズブキとタマネギ

 「私(Bさん)が花卉経営に移る以前に、音地地区ではミズブキ(スイレン科の浮葉性一年草)が栽培されていた時期がありました。ミズブキは缶詰加工用に栽培されていたもので、新テッポウユリほどのお金にはなりませんでしたが、三間町の稲作が早期米栽培に切り替わるまでの間栽培されていました。私は2年くらい栽培してからイチゴ栽培に切り替えましたが、イチゴを栽培しなかった人はその後もミズブキを作り続けており、音地地区は三間町の中でもミズブキを多く作っていた地域だと思います。ミズブキは、四角い1斗(約18ℓ)缶に入れられて業務用に使用されていたのではないかと思います。ミズブキは一般的なフキよりも背が高く、肥料を与えると1mくらいに生長していました。
 また、タマネギも稲作が早期米栽培に切り替わった影響を受けました。タマネギは指定産地になったことで補助事業となり農協には選果場が建設されましたが、そのころからタマネギの市況も悪くなりました。南予地方全体が稲作をコシヒカリ、あきたこまちを中心とした早期米栽培に切り替えたことで、5月の下旬から6月ころに田植えを行っていたのが4月に行うようになり、タマネギの収穫を6月まで延ばすことができなくなりました。そのため、農家にとってタマネギは有利な換金作物でしたが、タマネギは指定産地に該当するほどの栽培面積を確保することができなくなりました。その後は減反対策によるタマネギ栽培が行われている程度となっています。」

(2)花卉栽培に取り組む

 ア チューリップ栽培

 「私(Bさん)は、本格的に花卉経営に移行する前に、イチゴ栽培と並行してハウスの中の一部を使ってチューリップを栽培し、路地でテッポウユリを栽培していました。今はイチゴの連作障害はあまりないようですが、その当時は、連作障害があるため、何年かに1回はほかの作物を作らなければならないとされていました。私は元々花を作ることが好きでしたし、三間町での花作りの草分けであるEさんから花卉栽培を勧められてもいました。私は、せっかく誘ってもらったのだから、一番栽培が簡単な花から始めてみようと思い、まずチューリップを導入することにしたのです。球根は価格こそ高いのですが、短い栽培期間で出荷できるし、途中の手間はほとんどないため大量に栽培できるという利点があります。当時、三間町で花卉栽培をしていた仲間を見ていると、市場では球根の価格の変動が大きかったため、品質の良いものを出荷していた人は儲かっていましたが、栽培に失敗して少しでも品質の悪いものを出荷すると、市場での評価が下がってしまい赤字になっていた人も何人かいました。私は、球根代が余りにも高過ぎるため、球根栽培は自分の性格に合わないと感じ、あまり深入りすることはしませんでした。」

 イ 菊栽培への転換

 「昭和46年(1971年)、近所の方が福岡県八女(やめ)市の八女電照菊組合の組合長さん宅へ研修に行かれたことがきっかけで、当時全国でも有数の電照菊の産地を視察させていただくことができました。また、その翌年には私(Bさん)の姪(めい)が兵庫県の大規模な電照菊栽培農家へ研修に行き、私もその農家と親しく交際する機会を得ました。そのような機会を通じて、私は、菊がこれほど売れるものだと知って大変驚きました。また、菊はイチゴよりも同じ家族労働力で規模を拡大することができることも知りました。私は、子どもたちの大学進学という希望を叶(かな)えてやりたいと思いましたが、イチゴの栽培面積をこれ以上拡大するのは労力的に無理だと考えていました。ちょうど昭和47年(1972年)には地元の宇和島の市場に花卉部が開設されたこともあって、良いチャンスだと思いイチゴから菊へ作目を転換することにしました。電照菊を中心に半促成菊、露地菊を組み合わせて菊の周年栽培を図りました。
 当時、この辺りには菊を出荷していた人はそれほどおらず、菊は作ればいくらでも売れる時代で、地元の山口園芸(現ベルグアース株式会社)と私の作った菊で、市場の80%から90%くらいを占めていたのではないかと思います。両者は良い意味でのライバルで、お互いに切磋琢磨して菊作りに励んでいたことを憶えています。」

 ウ グループによるユリ栽培

 「米の減反政策が始まったのが昭和44、45年(1969、70年)くらいからだったと思いますが、そのころ、私(Bさん)の家は葉タバコからイチゴ、そして花に切り替えてきたので、米の減反政策に困ることはありませんでした。しかし、音地地区の多くの方々は、耕地面積が少ないため、農業以外の収入を求めて夫婦揃(そろ)って勤めに出るようになりました。それでなくても過疎の地が、ますます寂しくなるのを何とかしたいという思いがありました。反当たりの収益が上がるもので、土地利用型の農業はできないものかと考え、農協が推進する野菜の契約栽培にも先頭に立って取り組んでみました。ちょうどそのころ、新テッポウユリの新品種『ひのもと』が発表されたことを知りました。新テッポウユリは露地で種から育てますが、7月から霜の降りるころまで収穫することができます。経費も少なくて済む上に、端境期でもあるので、地域の減反対策として注目したのです。早速試作してみましたが、菊が重点作物であるため新テッポウユリは適期の作業が遅れがちで、3年間は雑草のために失敗の連続でした。4年目に除草の対策としてマルチ栽培にしたところ、ユリが太く育ち、2aで28万円の粗(あら)収入を上げることができました。昭和49年(1974年)の米1俵の値段がおよそ13,000円だったので、当時、新テッポウユリがいかに有利な作目であったか分かると思います。
 私が三間町農協の花卉部会で高松の市場を視察したとき、新テッポウユリについて相談したところ、当時の専務さんから、『ひのもとなら是非送ってほしい。』と言われたことに自信を得て、グループ作りを呼び掛けました。市場の有利性を考えて、最初から共撰共販を前提としました。『骨は折れるがお金は取れるので、作ってみようや。』と言って誘ったので、責任は重大でした。最終的には、音地地区の女性4人を含む5人によるユリ作りのグループが誕生しました。
 いざ作り始めてみると、みんな非常に熱心に取り組み、初年度の反当たり平均は150万円くらいになり、大変喜んでもらうことができました。3年目には面積も増やして50aで700万円くらいの売上になりました。新テッポウユリの栽培では、米作りに比べて労力は余分にかかりましたが、その代わり10倍くらいの収益を得ることができました。代金の計算は1週間ごとのプール計算にしていましたが、昭和59年(1984年)ころから我が家ではパソコンで処理をして、各データが分かるようにしていました。
 栽培面では、バインダーひもによるマルチ押さえの工夫や、植え付け道具の開発により省力化することができました。新テッポウユリは地域の5人の理解を得て小さいながらも20年くらい栽培を続けることができ、当時は毎年視察に訪れる人が絶えませんでした。
 新テッポウユリは主に高松の市場へ出荷していましたが、香川県の御夫婦が、市場で私たちの出荷した新テッポウユリを見て、こちらまで見学に来られたこともありました。その御夫婦は従来行っていたブドウ栽培に加えて花卉栽培も始めたとのことで、その後も交流を深めました。平成2年(1990年)には、一緒に淡路島の試験場や花市場を見学に行ったこともありました。そのときは、私は妻を連れて夜行列車で高松まで行き、そこからはその御夫婦の車で移動しましたが、とても楽しかったことを憶えています。」

 エ 圃場整備の開始

 「三間町の中では最も遅い昭和63年(1988年)ころから音地地区でも圃(ほ)場整備が始まりました。圃場整備中の2、3年間はユリを作ることができず、グループの人たちもだんだん年齢を重ね、骨の折れる仕事ができなくなったためユリ栽培をやめることにしました。圃場整備が終わると、私はグループの人たちにイチゴの栽培を勧めました。グループの人たちは田んぼにパイプハウスを建てて、イチゴ栽培を始めました。技術指導はAさんやCさんに協力を仰ぎましたが、そのころには、私がイチゴを作っていたころに比べて格段に栽培技術が進歩していました。Cさんは自分のことのようにしょっちゅう技術指導に来てくれて、グループの女性たちはそれに応えるように熱心にイチゴ作りに取り組みました。その甲斐あって、立派なイチゴを作ることができるようになりましたが、ユリの共同出荷を20年近く続けた経験がイチゴ作りにも活(い)かされたのだと思います。
 圃場整備が始まったころ、私(Bさん)の家では、水稲50a、露地菊30a、ユリ10aに加え、家の近くにある約700坪のパイプハウスで菊、ブバルジャ、ブルーファンタジアなどを植えていました。平成元年(1989年)には、子どもの希望を取り入れて家から6kmくらい離れた元宗地区で土地を購入し、農業近代化資金を利用して鉄骨温室を建て、平成3年(1991年)には隣接する土地を借りてパイプハウス1,800㎡を移転し花作りの拠点とする一方、施設の高度化を進め高品質の花作りに努めていました。」

 オ マイクロマムとアイリス

 「ユリ栽培は成功を収めましたが、花作りは良いことばかりではありませんでした。ユリに次ぐヒット商品になることを期待して、グループで休耕田を利用したマイクロマムの共同栽培を3年間試みました。マイクロマムは、菊苗では最大手の広島県の精興園という大きな種苗会社が品種改良して作ったもので、特許料を支払った契約農家しか栽培することができませんでした。マイクロマムは本当にきれいな花ですが、大量に作ったときに市場が対応できなかったという苦い経験をしたことがあり、露地物を大量に作るのは難しいと感じました。
 また、アイリスを栽培していたときにも失敗があります。アイリスは球根から栽培するのですが、意外と簡単に栽培することができ、出荷にもそれほど手間が掛からないため、グループの中で大量にアイリスを生産した方がいました。アイリスは、つぼみに少し色付いたころに出荷するのですが、少し収穫が遅れると開花してしまい、市場で受け入れてもらうことができません。ハウスの室温を上げると比較的開花を早めることができますが、いったん開花が始まるとそれを止めることはできません。市場へ出荷する適期は二、三分咲きのときで、七、八分咲きのときに出荷すると市場での価格は半分くらいに下がってしまいます。出荷調整するために冷蔵庫の中に長い間入れておいた花は、順調に生育した花と比べると品質が落ちてしまいました。市場から苦情が来て、イメージを落としたことも何回か経験しました。宇和島の市場へ菊を出荷していたとき、市場の担当者から『もう少し量を減らしたらどうぞ。』と言われたことが何回かありました。私(Bさん)は、菊は品種によって開花時期が少しずれるので、いろいろな品種の菊を作って一遍に大量の菊を出さないようにしたり、適期の菊を採って冷蔵庫で保存し、時期を遅らせて出荷したりするという工夫もしていました。花の産地化のためには、農協の販売指導者や栽培指導者は、身の丈に応じた面積で栽培するという指導が必要なのではないかと感じていました。」

 カ 収穫と出荷

 「栽培までは何とかできても、収穫と出荷作業のときに手に負えなくなる人が多いのです。私(Bさん)は収穫時期には夜10時から11時くらいまで作業を行う日が続きました。夜の作業は、翌日に出荷できる状態になるまで続けていました。それでも深夜1時には作業を打ち切ることにしていましたが、年末やお盆など特別な紋日の前で出荷量が多いときには、1時過ぎまでかかることもありました。若いころはそのくらいの時間まで働くことは気になりませんでした。私の家では、菊を大きい順に並べてから葉を落としたり、束ねたりすることができる機械を導入しました。140万から150万円くらいかかりましたが、選別機械を導入したことで作業が大変楽になり、14、15年くらい使っていました。
 新テッポウユリは全て三間町農協を通じて市場へ出荷していました。出荷のときは、宇和島自動車が大型トラックで日、火、水曜日に集荷に来るということが何年か続きました。当時、農協からの出荷は宇和島自動車が運送を引き受けていたのです。1日に50ケースから多いときには100ケースくらい出荷することもあり、トラック1台分の量になっていました。大抵は農協へ集荷に来ていたのですが、出荷量が多いときには音地地区まで集荷に来てくれたので大変助かりました。
 菊の栽培を始めた最初のころは、宇和島の市場へ全て個人で出荷していました。施設の規模を拡大してからは生産量も増加し、主に松山の市場へ出荷するようになりました。当時、松山の市場は菊の出荷が非常に少なかったため、送ってみると全て引き受けてくれました。松山の市場では、私たちの作った菊が最も多いような時期もあったのではないかと思います。
 高松の市場へは、三間町農協を通じてユリとアイリスを大量に送っていて、うちのグループで作った『ひのもと』のユリも全て農協から送りました。花市場というのは、市場によって引き取ってくれる価格に大きな開きがありました。私たちの作ったユリは、高松の市場では大変よく売れたのですが、松山の市場ではそれほど売れなかったため、価格も倍くらい違っていたと思います。」

 キ 産地化への思い

 「私(Bさん)はイチゴ栽培から花に切り替えて以降、三間町農協の花卉部会長を務めていました。その後、県の花卉連の副会長、会長を務めました。当時は高速道路が開通しておらず、私は三間から松山まで途中で休憩しながら片道2時間以上かけて通っていました。会長になると、多いときには月に4、5回松山へ行かなければならないこともありました。私は会長を2年間務めましたが、菊作りをしながら月に4、5回は松山へ通っていたので、今考えるとよくやったなと思います。妻が残ってきちんと仕事をしていたからできていたのだと思います。
 私は、三間町全体を花の産地にしたい、南予に花の大きな産地を作りたいという強い思いから県の花卉連会長を引き受けましたが、任期中は周りのみんなに随分助けてもらいました。会長の任期中に、重信(しげのぶ)町(現東温(とうおん)市)に花卉センターが落成しました。花卉センターの建設地については、最初は北条(ほうじょう)市(現松山市)、伊予(いよ)市、重信町の3か所の候補地がありました。その中でも地元で熱心に花卉栽培が行われていたのが重信町でした。私たちのグループは新テッポウユリの産地だった上林地区(現東温市)の生産者と6年ほど交流を続けていました。人とのつながりは大事にしなければなりません。人付き合いでは、私は、それまで研究してきた栽培の技術や方法を隠すことなく話していましたし、私が視察で訪ねた人たちも気持ち良くいろいろなことを教えてくれました。そのような人間同士の付き合いを大切にしてきました。」

 ク 花作りをやめて

 「普及所に新規採用された普及員は、農家で2週間の研修をすることが義務付けられているそうで、私(Bさん)の家で研修を引き受けたことがありました。その方が普及員として宇和島へ赴任して、ユーカリの栽培を勧めていました。当時、ユーカリの普及には三間町、JAえひめ南がかなり力を入れていました。普及員も大変熱心な人だったので、私は、『これはものになる』と思いユーカリを導入しました。新しい品種で、大阪の市場でもとても評判の良い品種がありました。小さく白っぽい葉を付けることから、『ホワイト』という名前で市場へ出すと、その名前で通るようになり、市場ではかなりの有利性がありました。ところが、今から11年か12年前に、妻を自宅で介護するようになったことと、大雪のためユーカリを栽培していたパイプハウス4棟全てが倒壊することが重なりました。そのときはショックで何も手に付かず、高齢になったこともあって花作りを続けることができなくなりました。
 今、私の子どもたちには、菊を作りたいという気持ちがあるようです。自分から菊の栽培に取り組みたいというのであれば反対はしませんが、強制するつもりはありません。私が花作りをやめてから10年くらいの間に、市場の流れがそれまでとは全く変わってしまいました。道の駅が各地で花卉の販売を始めるようになり、生産者は市場へ出荷せずに道の駅やAコープなどの産直コーナーなどへ出荷するようになるなど、少しずつ変わっていったように思います。1年ほど前に市場の社長と電話で話したとき、『B君らがやっていたころは良かった。今は当時のようにはいかんぞ。』と言っていました。これから新たに菊を栽培するのであれば、かつて私が行っていたように、いろいろなことを経験しながら市場を開拓したり、市場の流れなどを研究したりしなければなりません。栽培技術においても、私が当時の栽培技術を教えても、今の市場で求められる商品の水準に達しないかもしれません。また、同じ土地で長年花を作っていると、地力がだんだん落ちるため品質の良い花を作ることが難しくなってきます。そこをさまざまな技術で乗り越えることで、長く花の栽培を続けることができるのです。さらに、今は害虫の防除を行うことが大変になっています。30年から40年前は、農薬を大量に散布することができたので、一度消毒すれば当分はしなくてもよかったのですが、今は農薬が効きにくくなっている上に、農薬の散布量が規制されているため、子どもたちは大変骨を折っていると思います。」


<参考文献>
・三間町『三間町勢要覧 1976年版』 1976
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・三間町『町制施行35周年記念誌 コスモスタウンみま』 1989
・三間町『三間町誌』 1994
・愛媛県立北宇和高等学校『創立60周年記念誌』 1998
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『鬼北盆地の風土と人々のくらし』 1999
・三間町『三間町制施行50周年記念誌』 2004
・愛媛県立農業大学校同窓会『愛媛県立農業大学校同窓会100周年記念誌』 2011
・農山漁村文化協会『イチゴ大事典』 2016
・農山漁村文化協会『現代農業 2020年1月号』 2019

図表2-2-2 三間町の葉タバコ面積と収穫量

図表2-2-2 三間町の葉タバコ面積と収穫量

『三間町誌』から作成。