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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)遍路道標の代表的な建立者

 四国中に遍路道標を建てた代表的な人物として、江戸時代の真念・武田徳右衛門、さらに明治・大正時代を中心に活躍した中務茂兵衛の3名が挙げられる。これらの人々については、平成12年度遍路文化の学術整理報告書『四国遍路のあゆみ』の中で詳細に述べたが、本書の中にも度々その名が登場するので、ここで改めて簡単に触れておきたい。
 まず真念は、大坂寺嶋(現大阪市西区)に住み四国を行脚した修行僧である。彼が貞享4年(1687年)に出版した『四国邊路道指南』は初めての四国遍路の案内書であり、広く当時の人々に遍路に対する関心を高めさせ、庶民遍路が盛行する大きな要因となった。また彼は、四国を廻る遍路のために200余基の道標を建てたといわれており、現在、四国中に33基が確認されている。真念道標の特徴としては、正面にまず左右の方向の指示を入れ、その下に「遍ん路みち 願主真念」と刻んでいるものが代表的である。
 次に武田徳右衛門は、伊予国越智郡朝倉上之村(現愛媛県朝倉村)の庄屋の分家に生まれた人物で、長女を除く自分の子供たちが次々と亡くなったため、その菩提(ぼだい)を弔うために四国遍路を始めたといわれている。彼による遍路道標の建立は寛政~文化年間(1789年~1818年)にかけて行われたとされ、その道標は四国に100基以上が現存している。いずれも、正面上部に梵字、続いて弘法大師像、その下に次の霊場までの里数(丁数)が刻まれており、道標の形状は上部が丸みを帯びているものが多い。
 中務茂兵衛は、周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村(現山口県久賀町)に庄屋の三男として生まれ、慶応2年(1866年)に故郷を捨てて遍路に身を投じたとされる。その後、大正11年(1922年)に亡くなるまでの56年間に280回にわたる遍路行を遂行し、その間、230余基にのぼる道標を建立したことが確認されている。彼の道標は、最初に道標建立を発願した88度目の巡拝以来、必ずその巡拝度数と建立年月を刻んでいることが特徴であり、さらに和歌や俳句を添えたものもある。
 なお愛媛県下に限っては、この3名以外にも静道尚信と和田屋利平による遍路道標も多い。今治の静道尚信は、江戸時代後期から明治初期にかけて今治地域に遍路道標を建立した人物であり、小松藩の両替商をつとめた和田屋利平は、幕末から明治10年代にかけて小松を中心とした地域一帯で遍路道標の建立を行った人物である。