データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予の遍路道(平成13年度)

(1)中道②

 イ 小岩道から柿の木へ

 南・北宇和郡境の小岩道の峠には、南北を貫く県道宇和島城辺線(46号)が走っており、20年の歳月をかけて昭和33年(1958年)に完全舗装された。現在、近くの山頂には電波塔が立ち、分水嶺に沿って大規模林道篠郷小岩道線が延びている。峠付近は、林道工事の関係でかなり大規模に埋め立てられ、峠にあったという道標も消失して分からない。
 明治12年(1879年)、逆打ちで四国霊場を巡拝した正木村(一本松町)の旧庄屋蕨岡(わらびおか)重賀の『四国順拝道中略記』によると、「三間むてん村出立 宇城和霊宮江参詣 岩松町二而一宿 同廿四日 佐喜田通観自在寺へ<17>」と記している。文中の「佐喜田(さきっだ)」は津島町「佐新田」と思われる。蕨岡重賀は岩松を出て、下畑地で保場川沿いに山に入り、緑田部落を経て佐新田を通り、津島町上槇(かんまき)上組に達し、小岩道を越え、正木までの最短コースの中道やその脇道を通っている。
 道は峠の水場から津島町上槇上組の集落(写真1-1-6)まで高度にして200mほどの急坂を下り下畑地に向かう。さらに東西に延びる県道御内(みうち)下畑地線(286号)を西に進むと、松柱の石仏のところで道は二つに分かれる。左手に進むとコトシ川、保場川に沿って下畑地の緑田に出る。現在の県道宇和島城辺線(46号)が開通するまで宇和島や岩松に出るにはこの道を通った。右手の道は、宇和島市の林業会社が自社の山中を抜いた私設林道であった。その道をしばらく下ると、分水嶺「馬の背」で県道46号(中道)と合流するが、またすぐ分かれて本俵(ほんたわら)に向け急坂を下る。
 道は増穂川を渡り、県道46号より少し山際を通過する。途中本俵の十首塚や五輪様、音地の庚申(こうしん)堂跡、海前の代官所跡、さらに見性寺を右に見て、旧増穂村大塚庄屋の長屋門前を通り、追の川の大師堂に出る。ここから道は湿地帯を迂回(うかい)して東麓を通り吉井の三島神社前に至る。神社前に広がる岩淵平野はかつて増穂・岩松川の氾濫(はんらん)する沼沢地(しょうたくち)であった。そのため満願寺までの道筋は「通り山」と称し山越えで東側に大きく迂回していたが、明治40年(1907年)以降は現在の道に変わった。
 やがて岩淵の満願寺に至る。岩淵は宇和島城下から道法(みちのり)3里である<18>。真念は『四国邊路道指南』の中で、中道について「中道、つヽき、くわんじざいじ。なが月 大かんどう坂二里。さうず村 しやうかんどう坂三里。ひでまつ村 岩淵まんぐハんじ。」と記し、さらに、満願寺について(この寺八十八ヶの中にあらずといへども、大師草創の梵宮にて、そのかミハ大がらんなりしが、はゑとし久しくつくるになんなんとす。<19>」と記しており、満願寺が札所ではないが遍路は必ず参拝した寺であるとしている。境内の二重柿(写真1-1-7)は、実の中にまた果実ができるもので、子持ち柿ともいわれ、昔から子宝に恵まれると伝えられている。さらに中国の善導大師が日本への渡航の際、時化(しけ)を静めるため、船板に「南無阿弥陀仏」と書いた「船板名号(みょうごう)」といわれる版木が寺に現存するなど、多くの伝承をもつ寺である。
 道は満願寺を出て、岩松川に架かる清満橋に至る。岩松川の右岸を行くと大町で篠山道と合流する。間もなく左側に石神を祀(まつ)るお堂と大師堂があり、「これよりいなりへ五里」と刻まれた徳右衛門道標⑤がある。中道は、県道46号より左の山寄りを通り地蔵堂を経て、野井坂に向かう。途中石仏や遍路墓を後にして、野井川上流の野井北組に達する。『四国邊路道指南』に「野井村、くハん音堂有。此村伊左衛門、延宝年中七とせの間、遍路に足半をほどこし、志ふかき人宿かす。過て地蔵堂有。のいのさか いわゐのもり村、地蔵堂。<20>」とあり、『四国徧礼功徳記』には、遍路の功徳で災難を免れたという野井村のたなべ伊左衛門という人の話が記載されている<21>。
 野井川沿いの道は、県道を越えると急峻な山道となる。狭い道沿いに立つ文化年間(1804年~1818年)や明治末期の石仏を見ながら峠に至る。峠の切通しの手前には茶屋跡と思われる遺構が点在する。旧国道(県道46号)の野井坂越えの道は、「旧街道は野井坂を登り、峠を越えてまっすぐ宇和島に下っている。県道が開通し、6人乗りの乗合(のりあい)自動車が走り始めた昭和の初め頃までは、野井坂の旧街道が宇和島へのただ一つの交通路だった。<22>」といわれているが、今は車の離合すら難しい裏道である。
 急な山道をしばらく国道56号と並行して下って行くと宇和島市祝森柿の木の庚申(こうしん)堂(写真1-1-8)に至る。庚申堂の前にあった嘉永5年(1852年)の道標⑥は道路工事のため、現在近くの**邸(祝森甲3481-2)の庭先に移転している。道標に施主と刻字してある柿ノ木大助とは**氏の先祖である。この場所が灘道と中道の合流点である。道標の則刻字に「是より御城下御番所迄一里半 是より條山権現まで五里半 是より右おつき通観目在寺迄八里」とある。「おつき」とは土佐の月山神社のことである。
 中道が宿毛街道の主道とはいえ、時期は定かではないが、旅人や遍路はかなり早い時期から姿を消したと思われる。

写真1-1-6 津島町上槇上組より小岩道を望む

写真1-1-6 津島町上槇上組より小岩道を望む

右手の道は中道。平成13年6月撮影

写真1-1-7 満願寺の二重柿

写真1-1-7 満願寺の二重柿

津島町岩淵。平成13年7月撮影

写真1-1-8 柿の木の庚申堂と2本の遍路道 

写真1-1-8 柿の木の庚申堂と2本の遍路道 

左は中道、右は灘道。平成13年5月撮影