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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)柿の木から佐伯町番所跡へ

 遍路道は柿の木から宇和島城下までは中道(宿毛街道の主道)をたどる。新旧国道の分岐点から旧国道(現県道宇和島城辺線)に寄った崖下に7体の石仏が祀(まつ)られている。右端の地蔵の台座に里程を刻んだ道標㉝がある。ここから中道は国道56号の西側を北へ向かって進む。清水の山腹にある小さなお堂前を通り、現在の旧国道より少し高い所を通っていた。しばらく進んで常夜灯や子安地蔵を過ぎ、また国道に出て千歳橋を渡る。再び国道から分かれて狭い保田(やすだ)の旧国道に入って間もなく、左手の**邸(保田甲483)の入口に「岩松へ三里一丁」と刻まれた道標㉞がある。これは宇和島藩村明細帳を集成した『大成郡録(たいせいぐんろく)<52>』の里程から考察して、どこからかここに移設されたものと思われる。旧国道(中道)より一段高い山寄りに遍路道が通っていた。山寄りの道筋に小さな大師堂があり、享保8年(1723年)と刻まれている小さな大師像と道祖神が祀られている。遍路道はさらに進んで薬師谷川左岸に至る。国道に架かる普達橋からやや上流、薬師谷川の左岸の渡河地点に3体の石仏があり、真中の地蔵の台座に「此道御城下迄三十一丁」と刻まれた道標㉟がある。ここから川幅約15mの薬師谷川を飛び石伝いに右岸に渡り、寄松・並松(なんまつ)を経て宇和島城下を目指して進む。
 『四国遍礼名所図会』には、「より(寄)松村。是より宇和島城下、入日、並松。宇和島城下、伊達大膳太夫十万石、江戸ヨリ二百七十余里。願成寺町入口右手二有、元結掛大師堂同寺二有り。是より左へ行、右へ入、橋、番所切手を改ム、町橋をわたる。<53>」と記されている。
 道はしばらく国道に沿って北へ進み、赤土鼻から国道と分かれて並松の旧国道「並松街道」に入る。並松は道のり約6丁を「並松街道」と呼び、街道沿いの松並木が多くの旅人や遍路を慰めたという。真念は『四国邊路道指南』の中で「これより宇和島城下迄なミ(並)松、よき道也。<54>」と記し、英仙本明は『南海四州紀行』の中で「道悪ク並松曲疲タリ。<55>」と記している。約120年の時差があるが、道路の表記は大きく異なる。国道56号から並松に入る三差路西側の**邸(中沢町2-4-11)横に茂兵衛道標㊱がある。ここは昔、湿地帯でこの道標は田んぼの畦(あぜ)道に建てられていたという。明治15年(1882年)当時の並松の道幅をみると「狭キハ壱間半ヨリ広キ八三間二至ル凡平均弐間<56>」と記され、街道の道幅は城下に次いで広い。道の両側は古い民家や商店が建ち並び典型的な街村をなす。国道の三差路を右に曲がり、山際から元結掛(もとゆいぎ)へ進むと三差路の奥まったところに馬目木(まめぎ)大師堂がある。伝承によると、「九島(くしま)鯨谷の願成寺は(中略)離れ島にあるため遍路の巡拝に不便なので、寛永8年(1631年)元結掛に大師堂を移し、元結掛願成寺といった。明治になって龍光院に合併された。(中略)馬目木の枝を立てて置くと、いつしか根付いて葉が茂るようになり、大師堂を馬目木大師といわれるようになった。<57>」という。古い海岸線はこの近くまで来ていたという。お堂の周りには五輪塔、薬師如来など数多くの石仏が安置され、銀杏(いちょう)やウバメガシ、藤などの巨木が生い茂り、鬱蒼(うっそう)とした森をなしている。道は商店街の三差路を北に進み、神田(じんでん)川に架かる佐伯橋に出る。今も神田川界隈(かいわい)は宇和島市内で最も昔の面影を残すところである。橋を渡るとすぐ右手が佐伯町番所跡である。この川は「御家中(ごかちゅう)」と「町人町」との境界をなし、外濠(そとぼり)の機能も兼ね備えていた。いよいよ中道は宇和島城下に入る。