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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)明石寺から鳥坂番所跡へ

 遍路道は、明石寺にある道標㉚の裏手からすぐ山道に入る。切通しを越えると、途中に小堂や無縁塚などがあり、やがて左手に雨山公園や大師堂、右手には県立宇和聾学校がある卯之町中町(なかんちょう)坪ヶ谷に至る。
 明石寺からの山越えの道を下った遍路道は、「従是西驛内 卯之町」の境界石のある先哲記念館付近で宇和島街道(以下、旧街道と記す)と合流し、そこから中町通りに入る。中町通りは、宇和島藩政時代になって形成され、道の両側には多くの商家が立ち並び、旅籠(はたご)もあって卯之町の中心街をなしていた<25>。
 『四国遍礼名所図会』でも「鵜の町よき町なり(中略)此所にて支度<26>」と記述しているように、ここで遍路は、物資を調達したり、宿泊したりしたものと思われる。
 中町の町並みは、江戸時代や明治時代の建物が数多く現存している。かつてここを訪れた司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中で、「百年、二百年といった町家が文字どおり櫛比(しっぴ)して、二百メートルほどの道路の両側にならんでいる。こういう町並は日本にないのではないか。(中略)拙作の『花神』に二宮敬作が出てくる。シーボルトの娘イネも出てくる。『おイネさんが蘭学を学ぶために卯之町の二宮敬作のもとにやってくるのは安政元年ですから、おイネさんが見た卯之町仲之町といまのこの町並とはさほど変わらないのではないでしょうか。』<27>」と記述している。
 卯之町には、こうした歴史とその遺構が数多く残され、遍路もそこに立ち寄ったと考えられるが、幾つかの遍路にかかわる話や大師伝説も伝わっている。
 その一つに、「経(きょう)の森」の大師伝説がある。「経の森」とはJR卯之町駅前の山を指すが、かつて弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)して明石寺を訪れた折に、回り道をして森に立ち寄り、経文三百巻を山頂に埋めた。そのために、この森を「経の森」と呼ぶようになったという<28>。
 もう一つは、現在の宇和警察署北側一帯を湯の元と呼んでいたが、地名から察せられるように、ここには湯が湧き出ていたと伝えられている。ところがこの泉で遍路が汚れた着物を洗ってからは冷水に変わってしまった。それは弘法大師のころだったという話である<29>。
 遍路道でもある旧街道は、中町通りから「從是東驛内 卯之町」の境界石のある宇和小学校下を通って旧町外に出て、多賀神社の付近に至る。かつての卯之町の出入口にも当たるこの場所には、中ほどで折れて補修された道標㉜がある。この道標には、右面に「大洲へ五り半 松山へ十九り」、左面に「山田薬師 八幡浜」とあり、下松葉の分岐点が整備されるまでは、ここが宇和島街道と笠置街道(八幡浜旧道)の分岐点であり、宇和町から八幡浜に行くには、宇和町岩木を経て笠置(かさぎ)峠を越えなければならなかった。
 そののち遍路道は、下松葉に入るが、宇和中学校のプール横あたりは湧水地(ゆうすいち)として知られ、大清水と呼ばれていた。『宇和旧記』にも「大清水とて往還の下にあり如何なる日照り年とても、此水のきるヽ事なし、尤冷きこと云にたへず<30>」とあり、遍路もここでのどを潤(うるお)たものと思われる。
 やがて満慶寺に至ると、参道口に徳右衛門道標㉝があり、そこを過ぎると、前方のこんもりとした森に西園寺氏の氏神であった春日神社がある。春日神社は、『四国遍礼名所図会』にも「下松葉村、春日社右の山路森の内二有<31>」と記述されており、参道の入り口にはタブノキ(イヌグス)の大樹がある。山手には、南北朝時代に宇和郡領主として当地を支配した西園寺氏の居城、松葉城跡を仰ぎ見ることもできる。
 春日神社を過ぎると、遍路道はすぐに国道56号に出合うが、この地点に道標㉞が立っている。この道標は、「遍ろ道 八幡浜新道」「左 八幡浜旧道 津布里」とあり、遍路道の方向を示すとともに、八幡浜への新道と旧道の方向を示している。
 明治43年(1910年)編纂(へんさん)の『中川村誌』によると、「コレ南予ノ要路ニシテ馬車ノ往来頻繁ナリ然レドモ道路改修以前ハ本村ニハ唯不完全ナル宇和島街道二通スルノミニテ、南予ノ要港タル八幡浜ニ通スル卯之町街道ハ、彼ノ峻坂ナル笠置峠ヲ越ヘサル可カラサルヲ以テ、荷車等ハ殆ント皆無ニシテ貨物ハ漸ク人肩牛馬ニヨリテ運搬セルニ過キサリキ<32>」とあり、新道が出来るまでは、宇和島街道が唯一の遍路道であり、八幡浜に通じる主な道は笠置峠越えの道であったことがうかがえる。
 ここから東多田の番所跡付近に至る遍路道は、かつては主に旧街道(宇和島街道)を行くが、明治30年代から県道(現在は町道、以下旧道と記す)が順次開設されると、主に旧道を行くことになっていった。現在の遍路道は主に国道56号になっている。
 道標㉞の場所から国道56号を少し行くと、「下池」の堤に道標㉟がある。遍路道は、そこから少し進んで国道を右にそれて旧道を進むが、古い遍路道である旧街道は、春日神社の左手のゆるい坂道を登って「下池」の上を通り、下松葉から上松葉を抜けていた。現在でも旧街道はその原形をとどめているが、途中には元屋敷、中屋敷、火の口(鉄砲)などの地名も残り、ここがかつて西園寺氏の城下であったことをうかがい知ることができる。
 旧道を行く遍路道は、上松葉から北進して坂戸に入る。旧街道を行く遍路道は、坂戸では自動車教習所の辺りから右にそれて山手を通り、やがて国道56号の右手の田んぼの中を真土から加茂を経て大江に至っていたようである。その道の坂戸の中ほどにある**邸(坂戸1187-2)の近くの山際には、「牛石」と呼ばれた大きな岩があった。『愛媛面影』には、「往還の上に大なる岩あり。此岩に牛の足跡、子供の足跡などあり。牛の蹈(み)ける跡確かなれば牛石と名付(け)たりと云(ふ)。<33>」と記述されている。
 この「牛石」と称する岩は、高さ3~4m、頭が北、尾が南に向いて、形も牛によく似ていた。岩石には牛の足跡と赤子の足跡がつき、その指までもはっきりと判別できたと言われ、村人の信仰の対象になっていたらしい。この「牛石」のあたりから見る宇和盆地の眺めはすばらしく(写真1-2-9)、かつては松並木もあって名所の一つになっていて、道行く遍路なども足を止め、藩主が当所を通るときは、かごおろし場といって必ず休憩したという。しかしこの石は、明治末から大正初期の耕地整理の時に砕かれて石垣に利用されたといい、現在は、土中に石根のみを残すだけとなった<34>。
 坂戸を過ぎると、旧道を行く遍路道は、JA東宇和中川支所の手前で国道を横断する。中川公民館の横からしばらく進むと、**邸(田苗真土1928)前に道標㊱がある。そこを過ぎると再び国道と合流し、600mほど進んで三差路を右折して今に残る旧道に入り大江に至る。大江には、旧道が再び国道に合流する手前に三差路があり、そこに明治31年(1898年)建立の茂兵衛道標㊲がある。ここは、道標㉞で示した八幡浜新道(県道八幡浜宇和線、25号)の分岐点となっている。道路改修により新道ができると、それに伴って遍路道標も新たに建てられていった。
 大江から瀬戸の入口付近までは、旧街道と旧道と国道の道筋はほぼ一致しており、道標㊲から直進して600mほど進むと、右側山手の小高い場所にある西園寺公高の墓所前に至る。西園寺公高は、黒瀬城主西園寺実充の長男で、弘治2年(1556年)、大洲の宇都宮豊綱が飛鳥城(墓所の裏手の山にあった)を攻めた折に危急を聞き戦場に駆けつけて奮戦したが、弱冠19歳で戦死した。地元では、彼の死を悼み、命日にはおこもりをして供養したり、頼みごとをすると願いをよく聞いてもらえるとお参りする人もいたという<35>。そのために、後述する東多田の道標㊳は、墓所のある場所を案内している。
 公高の墓所前を過ぎると、遍路道は少し進んで瀬戸の集落に入るが、この辺りから東多田の番所までは、旧街道と旧道の遍路道は少し異なる道筋を通ることになる。
 旧街道を行く遍路道は、冷凍冷蔵会社の手前から国道を右にそれて、瀬戸の集落に入り、**邸(瀬戸622)の横を通って瀬戸住宅の団地の前から旧道を横切って北進し、大梅寺の境内を通って宇和島藩の東多田番所跡の辺りに至る道であったという。
 この間の旧街道筋には幾つかの湧水地がある。前出の瀬戸住宅の手前には、つるべの柄でこすられた深いくぼみが3ヵ所も残る小さな井戸が残っているが、昔は湧水であったと伝えられており、通行人もよく利用していたという<36>。また、瀬戸住宅前から600mほど進んだ**邸(東多田815-1)の前には、「弘法水」と呼ばれる湧水(写真1-2-10)があり、現在も生活用水として使われている。
 旧道を行く遍路道は、公高の墓所前から最初の三差路を右に国道をそれて進み、瀬戸集会所の前から瀬戸住宅前を直進して番所跡のあたりで旧街道の遍路道と合流する。この間にある瀬戸集会所の広場には、1体の地蔵が立っているが、かつてこの広場には庵もあり、そこでは春と秋に接待が行われていたという。
 旧道を行く遍路道が東多田に入ると、そこには、正面に「金毘羅宮江四十八り」、右面に「安政二年」と刻まれた上部が破損紛失した常夜灯(写真1-2-11)が立っている。常夜灯は、宇和町ではこれ以外には存在せず、この常夜灯は、宇和島街道全域の現在残る最遠の金毘羅里程道標として貴重な存在になっている<37>。なお、この常夜灯は、「安政二年」の刻字から、旧道沿いに最初からあったかどうかは疑問である。
 常夜灯を過ぎると、道は東多田の町並みに入る。ここは、宇和町では卯之町に次いで栄えた町であり、現在も昔をしのぶ古い家々が残るが、かつては大洲藩との藩境にも当たり、宇和島藩の番所が置かれていた。『四国遍礼名所図会』にも「東唯村、庵、番所切手を改む<38>」とある。この番所は、通行人の取り調べが厳しいことで知られ、一般から侍番所として恐れられていたという。
 番所跡手前の三差路には道標㊳がある。道標には、「菅生寺へ十八里二十丁」と遍路道の方向と距離を示しているが、同時に「宇和町二里」、「きん高公(西園寺公高の墓所)七丁」「八幡浜へ三り」などとあり、ここが交通の要所であったことをうかがわせている。
 この道標から、八幡浜の方向に岩崎八幡神社前を通ってしばらく進むと、東多田大字伊延(いのべ)の立石(たていし)にある**邸(伊延東1-324)の裏庭に、大きな石を祀った祠(ほこら)(写真1-2-12)があり、その石には遍路にちなんだ伝説が伝わっている。その伝説は、昔立石の住人が四国八十八ヶ所の霊場巡拝から帰り、わらじのひもを解くと中から小石が出た。なにげなくその石を庭に捨てると、捨てた石は次第に成長するので、これは有難い石にちがいないと思い、屋敷に祠を造り、石神様として中に納めた。石はなおもふとり続け、高さ1メートルにも達した。石のおかげであろうか家には病人が無くなり、家運も開けてきた<39>というものである。
 このように、四国遍路だけでなく、お伊勢参りや熊野詣でなどで遠方から運んだ小石は、「たもと石」と言って、着物のたもとなどに知らぬ間に入っで持ち帰った石が成長したという話は各地に伝わっている。
 旧街道と旧道の合致する遍路道を通って東多田の町並みを過ぎると、道はやがて信里に入る。信里には道の左側に信里庵があり、その手前の茂みに隠れるように徳右衛門道標㊴が立っている。
 やがて遍路道は国道56号と出合う。この地点の山側の墓地の手前に、「従是南宇和島領」と書かれた領界石が立っている。この領界石は元は東多田番所跡に建てられていたが、昭和53年(1978年)の調査時点では、東多田の岩崎八幡神社の境内に在ると記録されており<40>、その後、平成元年に現在の位置に移されたという。また、大洲領内を示す「従是北大洲領」と書かれた領界石も、かつては鳥坂番所の下に建てられていたが、現在は国道の鳥坂燧道(ずいどう)手前100mの地点から右折する旧道沿いの山際に移されている。
 遍路道は、「従是南宇和島領」の領界石を通過して国道をしばらく進んで左折し旧街道を通って久保に入る。しばらく田んぼ道を行くと、やがて山側に道標㊵が立っている。そこを左折すると鳥坂番所跡はもう目前である。

写真1-2-9 宇和盆地

写真1-2-9 宇和盆地

「牛石」があった場所からの眺め。平成13年11月撮影

写真1-2-10 弘法水といわれる湧水

写真1-2-10 弘法水といわれる湧水

平成13年11月撮影

写真1-2-11 金比羅道標の常夜灯

写真1-2-11 金比羅道標の常夜灯

平成13年6月撮影

写真1-2-12 立石の「たもと石」

写真1-2-12 立石の「たもと石」

平成13年11月撮影