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伊予の遍路道(平成13年度)

(3)出石寺経由の遍路道

 明石寺から十夜ヶ橋に至る遍路の途中では、かつては遠く北方へ迂回して金山出石寺(しゅっせきじ)に立ち寄る遍路も多くいた。出石寺は、八幡浜市・大洲市・長浜町の隣境地に位置する標高約800mの出石(いずし)山の山上にある。この寺は、弘法大師との所縁(ゆかり)も伝えられて、『三教指帰(さんごうしいき)』に記されている弘法大師の修行地「金巖(きんがん)」は、一説には、大和金峰山ではなくて金山出石寺であるという説もある<56>。寺には弘法大師が護摩供を行ったとも伝えられる岩(護摩ヶ岩)もあり、古くから参詣者が絶えなかった。
 明石寺から出石寺に立ち寄って十夜ヶ橋に向かう遍路道には、主に三つのルートがあったようである。
 第1のルートは、宇和町卯之町の道標㉛、あるいは同町下松葉の道標㉝の分岐点から左折し、宇和町永長(ながおさ)を経て同町岩木にある三瓶神社から安養寺の近くを通って山中に入り、笠置峠を越えて八幡浜市釜倉(かまくら)から双岩経由で八幡浜市街に入る。その後、名坂峠を越えて保内町喜木(きき)から同町日土(ひづち)を経て山道を登り、出石寺に至る道である。
 大本敬久氏は、このルート上にある宇和町岩木の安養寺には、臨済宗の寺としては珍しく大師堂があり、そこには通常の札所と同様に遍路の納め札が多数貼られている<57>と紹介しているが、このことは、かつてこの道を遍路が通り、この安養寺にも立ち寄っていたことを示している。
 笠置峠越えの道には釜倉までに幾つかの道標が残っている。笠置峠には、枯れて朽ちかけている巨木の下に立派な地蔵(写真1-2-16)があり、その台石には「是より北いつし江五り」「やわたはま江二り」「これより南あけいし江二り十丁」などと刻まれている。また、峠を下った釜倉の出店集落にも道標や苔むした地蔵、舟形石仏があり、地蔵の台石は、「右遍んろみち」と刻まれた道標となっている。
 二の笠置峠越えの道は、九州方面からの遍路が八幡浜に上陸し、逆打ちで明石寺を目指す道でもあった。島浪男は『札所と名所 四國遍路』で、「九州方面からの四国巡拝者は臼杵(うすき)、別府(べっぷ)等から海路八幡浜(かいろやはたはま)に渡(わた)り、まず出石寺(しゅっせきじ)に詣(まう)でて四十三番(ばん)又は四十四番から打(う)ち始(はじ)めるのが順路(じゅんろ)だと言う。<58>」と記している。
 『お遍路』を書いた高群逸枝は、大正8年(1919)に、四国遍路のため大分を出航して八幡浜に上陸し、逆打ちで明石寺を参詣している。その中で、「私達がこれから歩かねばならぬのは、十里ぐらいあるのではあるまいか。近道をきいて、大窪越えをする。この道は遍路道ではなく、わずかに樵夫(きこり)の通るような嶮しい山道である。<59>」と記しているが、梅村武氏も指摘するようにこの「大窪越え」が「笠置峠越え」のことかそれは不明である<60>。
 第2のルートは、主に現在の県道八幡浜宇和線(県道25号)に当たるが、宇和町大江の道標㊱が立つ分岐点から左折して鳥越峠を越える道、それに宇和町東多田の道標㊲の分岐点から左折して伊延を経て県道25号に合流して鳥越峠を越える道である。鳥越峠を越えた道は、やがて八幡浜市釜倉の出店の集落で笠置峠越えの道と合流し出石寺に至る。
 第3のルートは、札掛大師堂に立ち寄ったのち、大洲市野佐来から黒木を経て平野経由で山道に入り、出石寺に至る道であるが、現在黒木から平野に至る山道には通行不能のところがある。平野町平地から登る道はしばらく曲がりくねった山道を歩き、やがて市道に合流して、そこから山中の細い遍路道に入って出石寺に達する道である。この山中の遍路道には、舟形石仏の丁石等も多く残っており(写真1-2-17)、当時の面影をよく伝えている。
 出石寺の参詣を終えた遍路は、境内への出入口にあたる場所に立つ道標、「右追路道 大洲百八丁」を見て十夜ヶ橋へと遍路道を下る。下りの道は、第3ルートの上り道と同じ遍路道を通って市道に入るが、やがて大洲市高山に通ずる市道と合流して高山経由でJR西大洲駅近くの大洲市深井に下山する。この深井には、「ひだりいず志み□」と出石寺への参道を案内する道標が残っている。こののち遍路道は、大洲八幡神社の下を通って五郎橋を渡り、若宮を経て十夜ヶ橋に至る。

写真1-2-16 笹置峠の地蔵

写真1-2-16 笹置峠の地蔵

台石が道標になっている。平成13年11月撮影

写真1-2-17 山中の遍路道に集められた丁石

写真1-2-17 山中の遍路道に集められた丁石

平成13年6月撮影