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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)下畑野川から三坂峠へ

 打ち戻った遍路は四十六番浄瑠璃寺へと向かう。ただ、真念は久万の町に荷物を預けたから、再び峠御堂を越えて久万まで引き返し、三坂峠に向かうと案内している。その道が土佐街道であったか、大宝寺の参道にある中之橋から右折し、道標(73)の立つ槻之沢(けやきのさわ)に向かう脇道であったかは定かでない。また、宮尾しげをも河合を抜けて久万に向かい、下畑野川の宿にくつろぐ遍路の様子や峠御堂を越えて大宝寺に至る状況を記している<43>。道標㊼で打戻りなしの道を選んだ遍路も、下畑野川河合からは峠御堂を越えて大宝寺に向かうことになる。
 多くの遍路はこの河合から浄瑠璃寺へ向かっている。その道筋には二通りある。
 その一つは、打戻りで河合の直前にある住吉橋を渡ってから右折し、県道美川松山線で有枝川沿いをさかのぼって上畑野川に向かい、皿ヶ嶺(さらがみね)(標高1,270.5m)の山腹を抜ける六部堂越(ろくぶどうごえ)(標高1,000m)の山道である。
 もう一つの道は、『四國遍路だより』に「(六部堂越の道は)山頂(さんちゃう)の景色(けしき)は重巒雄大(ちゃうらんゆうだい)ですが、さして近(ちか)いこともありませず淋(さび)しい道(みち)です。大方(おほかた)は千本峠越(ぼんとうげご)えして松山街道(まつやまかいどう)に出(で)ます。<44>」と記す千本峠(せんぼんのとう)越えの道で、これが一般的な遍路道であり、この千本峠越えの道を進む。松浦武四郎は、「八田の川へもどり是より坂道わろし。凡貳り斗の上り也。<45>」と三坂峠までの道を簡潔に記している。
 河合からは、大宝寺から岩屋寺に向かう道から分かれて道標(57)・(58)の指示に従い北に向かう。河合を出て30mほどのY字型の分岐点に浄瑠璃寺を指示する道標が立っていた(昭和59年当時)が、その後の周辺の道路改修の際に所在不明になっている。ここで左折して50mほど進むと、遍路墓などを集めた無縁墓地がある。右折するとすぐに県道12号に出合う。
 遍路道は、この県道を斜めに横切る形で千本峠越えの山道に入り、杉木立に覆われた小暗い山道を左に流れる谷川の瀬音を頼るように上っている。やがて、高原作物の栽培で知られる千本高原との分岐点に出るが、そのまま杉木立の道を進むと、惣津谷の奥まった所に残る棚田跡に小さな道標(64)が手印で道筋を示す。この道標の左を再び杉林の中を上っていくと、峠の直前の三差路に道標(65)が、右斜め側に道標(66)が立っている。千本峠(標高約720m)から急勾配を下るとすぐ左側にも道標(67)が立っている。遍路道はこの指示どおり進んで高野の集落へ通じていたが、この道は凝灰岩の崩落により潰(つぶ)れ、現在はやや下を迂回してから高野に上がっていく。上りつくと、T字型交差路に浄瑠璃寺までの里程を示した道標(68)がある。道路崩壊前は千本峠からの道筋にあったものを移設したという。ここで左折して高野道路を少し行き右折して田んぼの畦(あぜ)道、杉林の山道を下って槻之沢(けやきのさわ)に向かう。杉林を下りきった所に、同じ台座に2基の道標(69)と(70)が並んで立っている。そこから棚田の中を曲折する畦道を下ると、墓地の下に右左を示した手印だけの道標(71)がある。この道筋には大除(おおよけ)城址がある。
 この大除城址を右に見つつ進むと、棚田の畦道を進んだ遍路道(写真2-1-16)が車道と合流した地点に馬頭観音が祀られており、その横に道標(72)がある。ここで遍路道は二つに分かれる。一つは、ここで右折して大除城址の左側の山麓を回って久万川に向かって緩やかに下っていく道であるが、この道の大半は消えている。もう一つは道標(72)からそのまま直進する道である。この道をしばらく下っていくと、道の右端に道標(73)あり、順路・逆路に加えて、菅生山・久万町道を指示している。ここから左折すれば大宝寺参道の中之橋に至る脇道となる。遍路道は右折するが、採石場のある山の裾(すそ)近くで道の一部が消えている。その消えた道の先に残る五反地で、大除城址の山麓から下ってきた道と合流して50mほど進むと道端に道標(74)がある。久万川左岸にあったものを、川の改修工事の際に移設したと地元の人は言う。ここを過ぎて遍路道と旧街道との合流する明神新大橋のたもとに至ると、国道の道端右側に道標(75)がある。この地点から岩屋寺へ3里、浄瑠璃寺へは3里4丁半である。
 この辺りから、遍路道は旧街道を進んでいたが、明治25年(1892年)の四国新道久万道(現国道33号)の開通により三坂峠に至る旧街道は、一部を残したもののその多くは国道33号に吸収されたり、今は杉林となったりしている。ただ、所々に残る旧街道(写真2-1-17)や里程石、「殿様道」「馬つなぎの杉」などの伝承地や遍路墓などがわずかに旧街道の面影を残している<46>。国道を北上して行くと、国道の下に残る旧街道の傘堂前に道標(76)があり、さらに北上すると皿ヶ嶺登山口に当たる六部堂に至る。
 この六部堂は、岩屋寺から打ち戻って下畑野川から上畑野川を通り皿ヶ峰の山腹を経由してきた道との合流点である。ここをさらに進むと、三坂峠へあと500mほどの地点に徳右衛門道標(77)がある。この道標も旧街道にあったものを大正時代にこの地に移設したと古老は言う。さらに進むと、三坂峠を下る遍路道(旧街道)と国道とが分岐する地点に、明治23年(1890年)に建立された「右へんろミち 左松山道」と遍路道と国道との分岐を示す道標(78)がある。これは明治20年(1887)に開通した三坂新道を久万方面から歩いてきた人に遍路道(旧街道)への道筋を示すために、当時の峠の茶屋「鈴木屋」の主人が建立したものである<47>。ここで遍路道は国道をそれて右折し、旧街道上の三坂峠に向かう。真念は、この間を「西明神村ゆきて坂有、見坂と名づく。<48>」と簡潔に記すが、ここで眼前に開けた眺望を、四国道人は、「幾(いく)十日を山(やま)また山(やま)の中(なか)を出(で)ることが出來(でき)ず、氣(き)のつまるやうな心持(こころもち)になった處(ところ)へこの三坂(さか)から久(ひさ)し振(ぶ)りに見下(みおろ)した感じは経験者(けいけんしゃ)ならでは味(あじは)ふことが出来(でき)ない、<49>」と記し、深く分け入った山々を抜け出てきた遍路の思いを代弁している。
 遍路道はこの三坂峠を下って四十六番浄瑠璃寺に向かう。

写真2-1-16 槻之沢の棚田を下る遍路道 

写真2-1-16 槻之沢の棚田を下る遍路道 

平成13年10月撮影

写真2-1-17 東明神に残る旧街道の遍路道

写真2-1-17 東明神に残る旧街道の遍路道

平成13年10月撮影