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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)西林寺から浄土寺へ

 四十八番西林寺の仁王門をくぐると正面に本堂、右に大師堂がある。門前には四十九番浄土寺までの里程を示す徳右衛門道標㉘が立っている。
 『松山の道しるべ』には、この道標と並んで昭和50年(1975年)ころまで真念の道標があったと記載されている<38>が、現在はその行方は分からない。
 門前から南西に250mほど行った所に西林寺の奥の院でもある「杖(じょう)の淵」があり、その一帯は杖の淵公園(写真2-2-15)として整備されている。
 ここには、弘法大師が杖で地を突いたところ水が湧(わ)き出したという弘法清水伝説が伝わっている。寂本も、「寺の前に池あり、杖の淵と名づく。むかし大師此所を御杖を以て加持し玉ひければ、水迸騰(ほんとう)して、玉争ひ砕け、練色収まらず。人その端を測る事なし。<39>」と記している。
 この杖の淵や西林寺の前を流れる内川の周辺には湧水(ゆうすい)地が多く、現在、松山市の天然記念物にもなっているアブラナ科の多年草であるテイレギが自生している。西林寺の門前には、子規の詠んだ「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」の句碑が立っている。
 西林寺門前の道標㉘に従い、県道40号を行く遍路道を100mほど北に進むと、高井公園の手前にある**邸(高井町1001)の北東角に、かつては道標㉙があった。しかしこの道標は、西林寺裏の小川の堰(せき)に使われていたが、10年ほど前に忽那氏が河川改修を機会に自宅の庭に保存している。
 忽那邸からさらに北西に700mほど遍路道を進むと大日堂に至り、そこから北に少し進んだ三差路に、道標㉚と道路拡幅のため近くから移された<40>という道標㉛が並んで立っている。
 この道標に従って県道を行く遍路道は北に800mほど進むと小野川に達する。そこに架かる遍路橋を渡って北に500mほど進み、国道11号を横切ってさらに北に500mほど行くと、鷹子町にある久米小学校北西角に小さな堂があり、その中に道標㉜と浄土寺を案内した道標㉝が納められている。この道標のすぐ北側の金毘羅街道と交わる三差路(写真2-2-16)には、松山札之辻、三津浜、道後湯之町などへの里程や遍路道の案内を刻んだ道標㉞がある。この道筋について、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』に「土井村しばし行て鷹子村二到る。門前茶堂、茶店有。止宿するニよろし。<41>」と記している。金毘羅街道と遍路道が交差するこの辺りは条里遺構のために道が直角に曲がり<42>、古くて狭い道がそのまま残っている。
 この道標㉞から右折してしばらく進むと、三差路に浄土寺の参道を案内する道標㉟があり、そこを左折してさらに北に400mほど進み、伊予鉄道横河原線の踏切と県道40号(旧国道11号)を横切ると、やがて浄土寺に至る。
 西林寺から浄土寺に至る3kmほどの遍路道は、明治初めには比較的整備されていたようで、明治15年(1882年)の『久米郡地誌(抄)』には次のように記されている。

   「道路 遍路街道、村ノ南方字室ノ木内川中央下浮穴郡高井村境二起り西方字樋口南土居村境二至ル、長九町八間三尺幅
  弐間、中間字室ノ木八百四拾三番地ニテ右へ下浮穴郡高井村通路ヲ岐シ字樋ロニテ右へ南土井村通路ヲ岐ス」
   「(橋)遍路(ヘンロ)橋、遍路街道二属ス、長六間幅壱間、架シテ村ノ西方三町四拾五間字室(ムロ)ノ木(キ)北川ノ下流
  ニアリ、水幅三間深サ弐尺其製土<43>」

 現在、文中の遍路街道は改修されて、主に県道松山東部環状線(40号)になっている。

写真2-2-15 杖の淵公園 

写真2-2-15 杖の淵公園 

松山市南高井町。平成13年11月撮影

写真2-2-16 鷹子町の三差路に立つ道標

写真2-2-16 鷹子町の三差路に立つ道標

手前の遍路道は金毘羅街道と合流する。平成13年11月撮影