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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)太山寺から円明寺へ

 ア 太山寺とその周辺

 一の門をくぐり、門前町の面影をとどめる参道を約300m西進して国指定重要文化財の二王門を過ぎると、木立の下になだらかな参道が続く。左手に道標㉝があり、霊場の雰囲気が一段と濃い。本坊を過ぎ参道を登ると、右側に崎屋・布袋(ほてい)屋(もと布川屋)、その先の小坂を上がると左側に木地屋・門(かど)屋(井筒)とかつて呼ばれていた、旧茶屋の建物が並ぶ。これらは宿屋業とともに「あんころもち」や「こんにゃく」を商い、遍路をはじめ多くの参詣人に親しまれていた。ここでの茶屋の歴史は古く、『四国邊路道指南』、『四国徧礼霊場記』などに登場している。また、布袋屋は「ねじれ竹」の伝説で知られ、庭先には、後世のものではあるがねじれ合った竹が生えている<43>。旧門屋の前に道標㉞が立っていて、前述の山越えの高浜道を案内している。本堂へ行く石段の前面から奥の手水所にかけては様々な石造物が設けられている。その一つに徳右衛門道標㉟が立つ。また、さらに一段奥に設けられた子安観音堂前には遠くから移された小さな舟形石仏の丁石㊱がある。このほか、ここに至るまでの長い参道脇では句碑や歌碑を多く目にするが、近年建立されたものが多いようである。
 急な石段を上り楼門をくぐると、正面には雄大な屋根の広がりを見せる国宝の本堂があり、左手の一段高いところには「遍照堂」と書かれた大師堂や長者堂が立ち並び、右手には地獄極楽絵図のある鐘楼や諸堂が並ぶ。鐘楼など諸堂には遍路の落書が見られる。寺は太山寺山塊のうち、奥の院といわれる経ヶ森、護摩ヶ森、岩ヶ森の3峰に包まれるように位置している。このうち経ヶ森山頂は巨岩にみちており、四方に眺望が利く。頂上の岩には台座とその上に石造観音立像が海に向かって建てられ、観音像の下には、「真野長者霊験感得本尊 観世音法□御安置之地 太山寺発祥霊地 聖武帝埋経之地」と刻んだ自然石の碑がある。また、傍らには不動明王石像をまつる小堂もある。なお、観音像と台座のうち、観音像は平成13年3月の芸予地震で落下損壊したため今は取り除かれている(平成13年11月現在)。
 この寺には、長者堂や「万野長者来由口演ノ記」と題する巻子本が伝来するなど、堂宇を建立したという「真野長者」にまつわる伝説がある。寛永15年(1638年)の『空性法親王四国霊場御巡行記』に「北の拝所は太山寺。真野長者の建営。此の本尊の霊験は、日々に新にましませば<44>(以下略)」とあり、また『伊予古蹟志<45>』などもその伝承を取り上げている。
 なお、別系統の伝承か、『予陽郡郷俚諺集』には、「堂建立は豊後国内山長者と云、折節上京の事有しに、高浜前に於て難風に遭ひ海上安からず、然は立願して堂建立の趣願事を籠しかは、浪風本のことし、(中略)真野長者建立と云異説也<46>」とあって、「内山長者」建立説を伝え、真野長者説を斥(しりぞ)けていて興味深い。

 イ 円明寺とその周辺

 太山寺一の門を出た遍路道は、先述の**邸(松山市太山寺町1187)の南西角に立つ道標㉘まで戻り、角を左折北進して県道辰巳伊予和気停車場線(183号)を横断する。県道との交差点南東角・**邸(太山寺町1185)の北西角に円明寺を指す道標㊹が立っている。遍路道は北に進んで小集落を抜け、右折東進し久万川に至る。
 ところで県道183号は太山寺橋から円明寺を経て大川に架かる遍路橋(松山市内宮町)まで一直線に東北方向へ延びているが、遍路道はこの県道に重なったり、あるいはその北側を階段状に曲折しながら進む。この県道はもと堀江街道といい、三津や高浜につながる重要街道として比較的早く、明治30年代には改修されたようで、昭和戦前期までの遍路案内書ではもっぱら「新道」と称されている<47>。
 遍路道が久万川に架かる学橋(もとは遍路橋という)を渡ってすぐの松山市立和気小学校西門脇に舟形地蔵道標㊺がある。これは昭和35年(1960年)ころ、学橋改修の際、川から拾い上げられて橋のたもとに置かれ、同59年の橋の再改修で現在地に立てられたという<48>。遍路道は小学校の北側を迂回して進み、やがて県道に合流する。
 400mほど進み和気の町中に入った県道183号は、県道松山港内宮線(39号)と交差し、右折して100m余進み、左折して約200mでJR伊予和気駅に達する。一方、交差点で県道39号に振り替わった遍路道は、交差点を直進し120m余で円明寺に至る。門前の駐車場北西角に道標㊻がある。指示が合っておらず、もとは近くの十字路にあったという。寺の塀の外、南西の角には大きな道標㊼が立つ。明治16年(1883年)のもので次の札所「あがた延命寺」を指すほか、「左宮嶋道 是ヨリ船場へ五町 問屋関家好直」と宮島(広島県宮島町の厳島(いつくしま)神社)への船乗り場(距離から見て和気浜港と思われる<49>)と船問屋を案内している。別の資料に、同じ年で『明治十六年 四國道中記』と題する講中の定宿名簿があって、その中に、「同所(円明寺裏門)二宮島行 毎日出船あり 船問屋関家好直迄九丁<50>」との案内が掲載されている。年代も船問屋の名前も道標㊼と同じで、ここからの道のりは船場が手前で、問屋がその先にあったようである。後述のように、昔は円明寺を打ち終えた後に宮島へ立ち寄る遍路がいたようで、こうした碑文や名簿の存在は、藩政時代にはこの辺からの出船は堀江浦と定められていたが、明治になって和気浜からの出船も可能になったことを示している。
 円明寺の境内に入る。八脚門をくぐると、左に大師堂、右に観音堂・鎮守堂があり、正面の中門をくぐると本堂である。右手には客殿・茶堂などがある。この寺には、慶安3年(1650年)の銘文を持つ貴重な銅板製の納札が保存されていることでも知られる。
 なお、『予陽郡郷俚諺集』には、「元は西山の尾崎勝岡にありしを、中古今の地に移したり<51>」とあって、円明寺の旧地が松山市勝岡町に奥の院として残っているところから、奥の院経由の円明寺への遍路道が一部で案内されている<52>。