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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)遍照院から大西町紺原へ

 ア 遍照院から高田へ

 遍照院は国道沿いの海岸に面した菊間町浜西新開にあり、五十三番円明寺(松山市)から五十四番延命寺(今治市)までの間にあって、今も厄除け大師として親しまれている。所蔵の遍照院文書の中に、文化11年(1814年)から文政10年(1827年)にかけて、35件の遍路病死者の記録が残されているという<11>。境内の南東隅に中務茂兵衛が建立した道標③、北東隅には「延命寺江三里」の道標④がある。道標③には「左 遍照院」と刻まれているので、他の場所から現在地に移されたものであろう。
 遍照院を過ぎた遍路道は菊間の町中に入る。新町を行くとY字形になった分岐点に、茂兵衛122度目の道標⑤がある。手印に従って左側の道を東町の方に進むと、下本町との四つ辻交差点にも同様の茂兵衛道標⑥がある。ここで手印通り右折して下木町を進むと本町筋に突き当たる。この木町通りは旧県道であり今治街道でもある。ここで左折して木町を進み菊間川に至る。菊間橋の東方、約1kmの所に加茂神社がある。この参道では秋の例大祭に県指定無形民俗文化財の「お供馬」が行われている。この行事は遍照院文書にある「侍競馬」の流れを受け、500年の伝統を持つ勇壮な行事である<12>。
 菊間川を渡った遍路道は400m余で国道196号に合流する。そこからJR線路に沿った国道を300mほど進むと八幡前バス停があり、ここに茂兵衛道標⑦がある。この道標には巡拝度数がなく、形も他の茂兵衛道標と違っている。頭部がかまぼこ型で、正面上部に梵字と大師坐像が刻まれており、これは武田徳右衛門道標の特徴である。大師像の下の部分は全面が深さ2cmほど削られた上に、浮き彫りの手印と彫り込み文字が刻まれている。これらから判断して徳右衛門道標を改刻したもののようである(写真3-1-2)。梅村武氏は、茂兵衛道標の中でこうした改刻再利用の道標として、後述する高城(こうじろ)集会所前の道標⑫とこの道標⑦の2基を指摘し<13>、改刻した理由について、次のように推察している。

   この標石は「是より円明寺まで○里」と刻まれた里程石であって、五十四番までの里程が刻まれていた。或いは「あがた
  円明寺」となっていたとしても、「あがた」の文字が読めなくなっていた。何れにしても五十三番か五十四番か、遍路が判
  断できず、案内標石としての価値を失い、大師坐像が刻まれているため何処か道行く人の眼につかない所で祀られていたも
  のを、茂兵衛が再刻してへんろ標石として再び遍路たちに見えるようにしたのではなかろうか<14>。

 五十三番も五十四番も「圓明寺」と記された時代があった(現在、五十三番は円明寺(えんみょうじ)、五十四番は延命寺(えんめいじ)である)ことからくる改刻というのである。
 八幡前辺りの道は幾分上りであるが、山を削り下げて明治43年(1910年)に開通した、葉山・高田(たかた)へと続く海岸線の道で、現国道へと発展したものである。それ以前の道は、この八幡前辺りから右側の山道に入って、急な坂道を上がり「あばらこ池」の土手に出ており、「松山札辻より七里」の里程石はこの池の下の葉山トンネルの葉山側辺りにあったという<15>。この里程石は、現在菊間町民会館南の生け垣の中に移されて、上部だけが残り、「松山札辻」までが読める。
 『今治街道』によると、旧街道は里程石の辺りから東に下ってJR線と国道を横切り高田集落に入るとしているが、東側へ下る道は消滅して確認できないとも記している<16>。

 イ 高田から高城へ

 国道は高田の集落の南側を迂(う)回してJR線沿いに「たちは坂」へと続く。
 遍路道は高田の集落を抜け、大きな石油精製所の前を通り、たちは坂を上りきったところで国道と合流する。途中、精油所正門の手前200mほどの所に茂兵衛道標⑧が立っている。遍照院と延命寺を案内したものである。精油所を過ぎて、たちは坂の100mほど手前を右へ下ると、遍路道と国道との間に、青木地蔵堂があり、本堂から一段下がった所に覆屋(おおいや)のある井戸がある。この井戸は弘法大師が杖で場所を示し掘らせたものと伝えられ<17>、覆屋の壁板の部分には、大師像を浮彫りにした直径1.5mほどの丸石が立ててあり(写真3-1-3)、その前庭には「弘法大師加持水」と刻まれた石柱が立っている。また本堂前の通夜堂の軒下には古い松葉杖やギブスなどがうずたかく積まれている。この通夜堂は畳も敷かれていて、今も遍路が無料で泊まれるお堂である。
 青木地蔵堂への下り道の右側斜面の草叢(むら)に、下部が埋もれた「(右手印)ぎゃく邊」と刻まれた道標⑨が立っている。
 地蔵堂を過ぎると遍路道は国道と合流し、そこから500m余り下ると三差路に至る。ここから遍路道は国道と分かれて右に入り種川を渡って、種の集落を北東へ進む。しばらく行くと右手にJR伊予亀岡駅、左手に亀岡小学校がある。校門を入るとすぐ右側に「今治へ」と「菊間へ一里一丁三十一間」と刻む道標があり、左側植え込みの中にある池の奥に、「松山札辻より八里」の里程石が立っている。この里程石は、ここから1.2kmばかり北東にある高城の変電所付近にあったものという<18>。
 遍路道は北東に進んで佐方川に至る。橋の西南詰の台石に2基の舟形石仏が乗っている。うち1基は道標⑩を兼ねたものである。一筋に続く道を行くと佐方集落のはずれの三差路に茂兵衛道標⑪が立っている。「左 新道…」と刻まれた大正2年(1913年)建立のもので、明治43年(1910年)にできた新道も案内している。旧の遍路道はまっすぐにミカン畑の中を上り、左にカーブしながら家並みの中を下って国道を横切って高城に入る。道標⑪の「左 新道」に従って進むとすぐ国道に合流し、400mほどで、まっすぐ進んだ旧の遍路道と高城に入る地点で出合う。国道から集落に入って50mほど進んだ左側の高城集会所前に茂兵衛道標⑫がある。前述したように徳右衛門道標を改刻したと思われるもので、右面には「世話人朝倉村徳右衛門」の刻名が残されている。
 遍路道は高城を約400m進むと再び国道に合流する。ここまでが菊間町で、これからは越智郡大西町となる。

 ウ 別府から紺原へ

 大西町に入った遍路道は国道を北東に進む。1kmほど進み、国道と分かれた山側の遍路道は、別府の原集落に入る。現在は国道筋だけになったこの1kmほどの道について、『今治街道』では、大西町に入った旧街道(遍路道)は、すぐ現在の国道と分かれて右手に入り400mほど進んで、また国道を横切り北側に出て大山八幡神社の東麓でカーブしながら、再び国道を横切って原集落へ続いたと推測しているが、「現在の道路からは確認できない」とも記している<19>。
 原を通る一直線の遍路道を1kmほど進むと、海寄りにカーブしてきた国道と再び合流する。合流点右側には菅原道真伝説が残る「碇掛(いかりかけ)天満宮」がある。まもなく左手に星の浦海浜公園が見えるが、遍路道はその手前で国道と分かれ右手の山側に入る。
 遍路道はJR線沿いの県道大西波止浜港線(15号)を行く。JR線と共に大西跨線橋の下をくぐり、JR線と分かれて大西町新開の集落に入る。200mほど進んで遍路道が脇川と出合う左手の角に、自然石の一字一石塔と並んで茂兵衛134度目の道標⑬が立っている。ここから道は東へ400mほど進んで山之内川を越え、大西小学校を左に見てさらにJR線を横切ると宮脇川にかかる。その手前に「松山札辻より九里」の里程石と並んで延命寺を案内した徳右衛門道標⑭がある。このほか数基の舟形石仏もあり、中の1基は道標⑮にもなっている。
 遍路道はさらに北東に600mほど進んで右折し、左に曲がるとJR大西駅前通りの新町に至る。新町は一直線に400~500mほど続く町並みで、大きな瓶(かめ)を二つ、天水桶として屋根に乗せた旧大庄屋井手家屋敷も残り、格子や土塀などのある旧家も多い。この井手家の前にも「左へんろ道」の道標があった<20>が現在行方不明である。突き当たりの三差路に道標⑯がある。今治街道と波止浜街道の分岐点である。この地は大井新町札場と呼ばれ、藩政時代の大制札場(藩の掟(おきて)・条目・禁令などを書いた板札を立てた場所)であったという<21>。
 遍路道は、道標⑯の指示に従って右折して、紺原を通り国道に合流し、品部川へと向かう。ここで遍路道を少し離れるが、1kmほど南東山麓の紺原中之谷に安養寺がある。その山門前のブロック塀の中に、「紺原地蔵」と共に遍路道標⑰が立っている。戒名を刻んでおり、遍路墓を兼ねた道標は珍しい。この道標は、もと新町から国道に出る三差路の手前10mmほどの所にある紺原集会所の辺りに、紺原地蔵と共にあったが、大正4~6年の耕地整理で共に現在地に移されたものという<22>。

写真3-1-2 改刻道標 

写真3-1-2 改刻道標 

菊間町浜日出町。平成13年3月撮影

写真3-1-3 青木地蔵の大師像と御加持水 

写真3-1-3 青木地蔵の大師像と御加持水 

菊間町種。平成13年4月撮影