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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)大谷越えの道

 大谷越えの遍路道には、脇道が幾筋もあるが、道標が多く残されており、迷うことはない。
 延命寺裏山の墓地から北東へ向かう下り道、阿弥陀堂前の曲がり角に道標㉗があり、さらに下って50mほどの三差路で右折すると左側道沿いに道標㉘がある。田畑の中の道を100m足らず行くと、四つ辻の手前右側に延命寺への逆打ち案内道標㉙がある。さらに100m足らず行くと、右側の阿方公民館横に阿方貝塚の発見者である越智熊太郎の顕彰碑が立っているが、顕彰碑と道を隔てた小川の横、道沿いの植え込みの中に手印だけを刻んだ小さな道標㉚がある。
 遍路道をさらに50mほど進むと、三差路の電柱の根元に角柱道標㉛と高さ30cmほどの自然石の道標㉜が並んでいる。ここからはゆるやかに右カーブしながら、100m足らずのなだらかな上りとなる。上り切った道の右側に地蔵があり、地蔵の左側には道標㉝が、また右側には舟形地蔵道標㉞が並んでいる。道を隔てた反対側には茂兵衛道標㉟がある。
 地蔵から100m余東方へ下ると、変則の四つ辻があり、東方に向かう遍路道の右側に手形だけの道標㊱が立つ。さらに100m足らず行くと、右側の塀の前に角柱道標㊲と自然石の道標㊳が並んでいる。この道標㊳は高さ30~50cmほどの小さな自然石に手形だけを彫ったもので、いかにも素朴な彫りである。
 そこから300mほど東へ進むと、田園風景の中に西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)が通っている。ここから南方200mほどの所に阿方貝塚跡が整備されている。遍路道は瀬戸内しまなみ海道の高架下を直進する。ここからは今治市山路(やまじ)である。高架の下をくぐると、すぐ右側に角柱道標㊴がある。そこからなだらかな上りを40mほど進むと、左側のコンクリートブロツク壁の高さ1mほどの位置にコンクリートの棚が取り付けられ、その棚に3基の舟形石仏が立つ。その中央が地蔵道標㊵である。近くの人の話によると、昭和50年(1975年)ころから行った墓地整備に合わせて道路を掘り下げ拡張した際、現在地より30mほど東の大谷墓地寄りの峠にあったのを移したという。それまでの道は峠越えの急な細道たったが、切り開かれてなだらかな道になったという。
 50mほどの坂を上って下りた右側に別宮(べっく)札所案内の舟形石仏㊶がぽつんと立っている(写真3-1-5)。そこから200m余進むと、今は市営大谷墓地を行く、いわゆる大谷越えにさしかかる。市の中心街からは裏側の西方向より上る。地元の古老の話では、もともとの遍路道は、墓地西側の下池あたりから、直線的に大谷越えをして斎場横の道に下りていたが、墓地拡張のため消滅したという。今の道は西側の下池から頂上まで曲がりくねりながら上る300mほどの坂道である。
 頂上の広場には、古い墓石がまとめて山のように積まれている。下りに入る直前の左奥に7・8区の墓園があり、8区C部の一番下の区画外に2基の新しく造り直された道標が並んで立っている。この2基のもとの道標は、少なくとも昭和61年(1986年)までは今治駅裏近くにあったというが<36>、たびたび車に当てられ破損したので、新しく造り替えた。その後JR線の高架工事にともない大谷墓地8区に仮安置しているという<37>。
 下りは、墓園の中の広いアスファルト道を200mほど進んで左折し、斎場横を過ぎ桜並木のトンネルの中を進む。忠霊塔まで下り、左折して浅川西側の集落の中を1km足らず行くと、城の形をした城山ハイツ前の浅川にかかる茶堂橋(写真3-1-6)に至る。茶堂橋の手前、山方公民館への三差路の角に自然石の道標㊷がある。茶堂橋を渡ると、県道今治波方港線(38号)を進んできた遍路道へ合流する。
 ただ現在は、浅川西側に道が出来たことや県道に出ると車両の通行が多いためであろうか、茶堂橋を渡らずにそのまま進み、200mほど下った朱塗りの弥栄(いやさか)橋を渡って県道に出る遍路もいるようである。

写真3-1-5 大谷越えの遍路道

写真3-1-5 大谷越えの遍路道

今治市山路。平成13年10月撮影

写真3-1-6 茶道橋と遍路道標 

写真3-1-6 茶道橋と遍路道標 

今治市北日吉2丁目。大谷越えと県道筋道との合流地点。平成13年10月撮影