データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予の遍路道(平成13年度)

(3)栄福寺から仙遊寺へ

 現在五十七番札所は八幡山の中腹にある栄福寺であるが、もとの札所は八幡山の山頂にある「石清水八幡宮」であった。澄禅や真念の遍路記には、栄福寺の名はなく「八幡宮」とのみ記している。栄福寺は長福寺、大乗寺、乗泉寺と幾度か寺名が変わったようで<60>、栄福寺となったのは寛政4年(1792年)であるという。また長福寺は貞享年問(1684年~88年)ころに八幡宮の別当寺となっており、栄福寺がこれを継いだのである<61>。四国遍礼名所図会には、「八幡社別当栄福寺<62>」と記され、栄福寺を別当寺としている。その栄福寺は、明治維新の神仏分離によって石清水八幡神社と分かれ、独立して札所となった。
 境内に入ると左側に新しい地蔵が立ち、その後ろの一段高い所に本堂や大師堂がある。大師堂前には「施主伊藤萬蔵」「周旋人中務茂兵衛」と二人の名が並んで彫られた香台がある。伊藤萬蔵は、四国雪場の各所に石造物を寄進している名古屋の人である。また、本堂のぬれ縁には今も古び九松葉杖を何本も乗せた箱車が奉納されているが、西端さかえは「本堂に『高知県沖ノ島宮本武正十五歳男、イザリガタチマシタ、奉納』と書いた古い貼紙があった。」と記し<63>、梅村武氏によると昭和8年(1933年)奉納の日付があるという<64>。

 ア 犬塚池経由の道

 栄福寺の参道を下って、参道入口を左折し、八幡山の山裾を回る小川沿いの遍路道を南東に進む。
 八幡集落を出るとすぐ右に田んぼが開け、小川沿いの細道の正面は高さ10mもある池の堤である。この間500mほどであるが、川を隔てた山裾に作礼山(佐礼山)への舟形地蔵の丁石が4基立っている。丁石中央の地蔵菩薩像の右に「是より○丁 施主○○」と彫られているものが多いが、彫られた願主はすべて「覚心」である。覚心についてはよくわからないが、栄福寺大師堂前の石垣沿いの、「是より八幡宮二丁願主覚心/善関良財童子」と刻まれた舟形地蔵については、覚心が子供の供養のために建てたものであろうという<65>。またそれと並んだ舟形地蔵には、「是より佐礼山十八丁…/享保十五年六月十八日願主覚心」とある<66>。施主の居住範囲や地蔵への刻字などからみると、覚心は、享保年間(1716年~36年)ころの、八幡を中心とするこの地域の人で、亡き子の供養もこめて地蔵丁石建立を発願したのであろうか。ともあれ覚心による丁石は作礼山まで遍路道脇に点々と立っている。18基のうち4基(3・4・6・17丁)は確認できず、1丁と2丁、12丁と13丁の丁石の順番がそれぞれ逆の位置に立っている。
 池の堤の下、左側の上り口に「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑が立っている。そこから堤の下の道を右に進むと池への上り口の所に道標(78)がある。堤に上がると犬塚池が拡がる。途中に13丁の地蔵丁石がある。池は文化14年(1817年)に完成した周囲約4kmほどの溜(ため)池であるが、栄福寺と仙遊寺の間の使い役をしていた犬にまつわる次のような伝説が残っている。

   犬塚池
    作禮山の麓に在り。堤下に犬塚有り、因りて名づくと云ふ。(中略)昔義犬あり、仙遊寺と八幡山栄福寺と両寺に愛せ
   しに、仙遊寺の鐘鳴る時は佐(作)礼山に来り、栄福寺の鐘鳴る時は八幡山に登る。或時両寺の鐘一時に鳴りければ南北
   に狂ひ走り、遂に此堤下に斃れて死にけり。仍って此処に塚を築く、犬塚是なり<67>。

 道幅50cmほどの池沿いの道(写真3-1-10)を300mほど行くと池から離れ、やがて木立に囲まれた道が、急坂の擬木のコンクリート階段となる。この間に11・10丁の丁石が道端や目の高さくらいの山肌に立っている。また昭和57年(1982年)ころには、池と分かれる辺りに「(手印)をされみち」の道標が立っていたそうだが、今は見えない。階段を上がった所で、山の中腹を横切る2車線の道と交差するが、それを横切り、細い坂道を登る。100mほどでまた車が通行できる道に出る。その手前に覚心の9丁石とともに6基ほどの遍路墓がまとめられている。
 昭和20年(1945年)以前のここから寺までの遍路道は明らかではない。現在の道は作礼山(標高281m)の山頂近くにある仙遊寺まで車で上れるように拡幅整備されたアスファルトの道である。今までの遍路道に比べると随分緩やかである。600mほど進むと左側に静道道標(79)が立ち、その横に覚心の5丁石とともに10基余の墓石が整理されて並んでいる。この道標(79)は昭和57(1982年)年には道の右側に立っていたという<68>。
 また整理された遍路墓の中には、阿州・駿州・出羽等からの遍路に混じって「内海源助」と記されたものがある。9丁の丁石の所にも「内海源助墓」の墓石がある。この地に2基の墓標が残されている内海源助は天明3年(1783年)に南部藩八戸に生まれた。天明の大飢饉(ききん)では人肉まで食べなければ生きてゆけなかったという。彼もまたそうして育てられた。その事を後に知った彼は、「人を犠牲にして生きる腐れ身に未練はあらじ、せめて大師の救いを求め懺悔をなし、悪しさ宿命に泣いた人々の菩提を弔い浄土へお送りすべし」と陸奥の国を出発し、途中出羽国横田で知人の戸籍を借り、約10年後にこの地にたどり着いて命を果てたと山口崇氏は記している<69>。遍路道は弘法大師を慕い敬う道であるとともに、様々な人生模様が刻まれた道でもある。
 この遍路墓群から100mほど上ると、右は仙遊寺の上り道、左は仙遊寺から打戻って五十九番国分寺へ向かう分岐点に至る。ここには、真念、徳右衛門、静堂の標石が残されている。

 イ 別所回りの道

 栄福寺から南西400mほどにある別所集落から仙遊寺へ登る道も古くからあったが、その道は戦後幾たびかの改修で道幅4mほどの道に変わったと近在の人は言う。現在は犬塚池のそばを通る前述した旧遍路道よりも車で行ける別所回りの道を仙遊寺へ向かう遍路がほとんどである。この道にも道標が残されている。栄福寺より南西に進むと別所の大山積神社の所で玉川別所橋より上ってきた道に合流する。そこに「四国の道」の標識があるが、その根元に上部折損の小さな道標(80)があり、100mほど進むと左側に風化して判読しにくい道標(81)が横倒しになっている。梅村武氏は2基の道標(80)・(81)は昭和57年には見当たらなかったと平成2年に追記しており、さらに昭和57年には道標(81)よりさらに100mほど上った右側の道沿い、池の堤の下に「(手印)佐禮山明治三年午十二月」の道標があったと記している<70>が、現在は見当たらない。
 この道はやがて前記の犬塚の池沿いの道と合流して仙遊寺へと通じている。

写真3-1-10 犬塚池沿いの遍路道

写真3-1-10 犬塚池沿いの遍路道

越智郡玉川町八幡。平成13年10月撮影