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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)前神寺から西条市飯岡へ

 石鎚神社本社の鳥居を過ぎて緩やかに下って行くとすぐの所に、六十四番前神寺西口の山門がある。山門脇に昭和8年(1933年)建立の道標⑧があり、「是ヨリ次ノ六十五番三角寺迄汽車ノ便アリ 石鎚山駅ヨリ三島駅行使利」と交通案内が刻まれている。石鎚神社と前神寺への参拝者の便を図って、石鎚山のお山開きの期間中のみ石鎚山駅が仮設されたのは昭和4年のことであり、地元の要望もあって昭和7年からは常設駅となった<9>。道標の建立はその翌年で、訪れる遍路たちに広く石鎚山駅からの鉄道利用を勧めるために建てられたのだろう。
 また、境内東側の駐車場の隅に徳右衛門道標⑨、前神寺東入り口には中務茂兵衛の道標⑩が立っている。そのほか境内には3基の地蔵丁石が散在しているが、これら地蔵丁石と徳右衛門道標は、いずれも現在の石鎚神社本社の敷地及びその周辺から移設されたものと考えられる。
 前神寺は、江戸時代には石鎚山上に蔵王権現を祀り、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきた。かつての寺地は現在の石鎚神社本社の場所にあたり(写真3-4-3)、奥の院である奥前神寺も石鎚登山ロープウェイ山頂駅上の現在地ではなく、成就社の建つ場所にあった。ところが明治時代の神仏分離の進展の中で、政府の神祇官によって仏体である蔵王権現が否定され、明治8年(1875年)の教部省指令に基づく県の通達によって寺は廃寺と決定されたのである。その後、明治12年(1879年)に檀家(だんか)などが県に出した復旧願いによって、末寺の医王院があった現在地にようやく前上寺の名称で再建が認められ、後年、前神寺の名称に復帰できたという歴史を経てきた<10>。現在では前神寺は再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍(がらん)が建ち並んでいる。そして、前神寺・石鎚神社ともに、毎年、夏のお山開きの時期には大勢の信者・参拝者でにぎわいを見せている。
 前神寺を出て東に向かう遍路道は、国道11号を横切ってしばらく行くと加茂川に突き当たる。加茂川は大河だが、江戸時代には本格的な架橋がなされなかった。遍路を含む通行者のために、仮の板橋を架けたり渡船を出したりしていたようである。
 明治40年(1907年)に遍路を行った小林雨峯の遍路記を見ると、ここで村上楠松という渡し守に会ったことが記されている。この渡し守は弘法大師の熱烈な信仰者だったらしく、小林は彼について、「路(みち)に施本(せほん)をなしつゝありたり、弘法大師通夜物語(こうぼうだいしつやものがた)りと云(い)へり。茶(ちゃ)は接待(せったい)に出(だ)し、茶料(ちゃれう)は慈善箱(じぜんばこ)に入(い)れよと書(か)き付(つ)け置(お)けり、面白(おもしろ)き人(ひと)なり」と書き残している<11>。
 渡河の安全を守る施設としては、明治4年(1871年)に中野側の東光地区の人々によって建てられた、左岸堤防上の大きな常夜灯があるくらいであった(写真3-4-5)。ようやく明治44年(1911年)になって当時としては頑強な木橋が架かり、それ以後も何度も橋の改修が行われて、現在の国道11号の加茂川橋へと引き継がれていく<12>。現在では渡しの面影は全く残っていないが、中野側の堤防には前述の常夜灯と渡河の安全を祈る小さな地蔵堂が建ち、川を渡った右岸大町側の堤防下にも同様の地蔵堂があって、ここにかつて渡しがあったことを示している。
 加茂川を渡った遍路道は、その後、民家の密集した町中に入って行く。県道西条港線との交差点の角に集会所を兼ねた地蔵堂があり、傍らに道標⑪が立っている。その先の交差点にも寿し駒(日野駒吉)建立の道標⑫がある。道はさらに住宅街の中をほぼまっすぐ東に進み、国道11号を横切ってすぐに北東方向に向きを変える。この角の覆屋(おおいや)の中に、かなり土に埋まった状態の2基の道標⑬・⑭と地蔵1体が置かれているが、右側の道標は徳右衛門道標⑬である。このあたり、住宅が途切れると、南に八堂山とその山腹の西条市考古歴史館をはっきり望むことができる。
 その先で再び国道11号と出会った遍路道は、しばらく国道と合流して東に向かう。電子機器製造会社の西条工場を過ぎたあたりで国道と分岐して飯岡の閑静な住宅街の中に入り、ここからは北を走る国道と並行して進むことになる。なお国道沿いのレストラン斜め前には、遍路道沿いから移設されたと思われる徳右衛門様式の道標⑮があるが、この道標については、武田徳右衛門によるものかどうか研究者の間から疑問が出されている。
 室川に架かる上室川橋を渡って行くと西原の大地蔵がある。この地蔵堂の前で、昭和初期までは春の地区の行事として遍路の接待が行われていた。さらにそこから300mほど行った西大道六地蔵集会所(写真3-4-6)の前でも、同様に接待が行われていた。西大道六地蔵集会所の敷地には、かつて王至森(おしもり)寺の庫裏を移した接待堂があり、地元をはじめ早川・山口・大浜などの人々が集まって、年中行事として湯茶・菓子・草鞋(わらじ)などの接待を大規模に行っていたという。その後、時代の流れとともにこの慣習はなくなり、建物も古くなったために取り壊されて、その跡地に現在のような集会所と昭和49年(1974年)に小さな大師堂が建てられた<13>。また、ここには大師堂だけでなく六地蔵・金毘羅道標・社日(しゃにち)宮の小祠(しょうし)などもあって、この地域の信仰に関係するものが集中している感がある。さらに、ここから東に行った祖父崎(そふざき)池の北の地点でも同じく遍路の接待が行われていたといわれ、地蔵を祀った小堂と徳右衛門道標⑯がある。飯岡周辺は、特に接待の盛んな地域であったようだ。

写真3-4-3 前神寺と石鎚神社

写真3-4-3 前神寺と石鎚神社

左に前神寺、右後方の山腹に石鎚神社本社が見える。平成13年9月撮影

写真3-4-5 加茂川左岸堤防上の常夜灯

写真3-4-5 加茂川左岸堤防上の常夜灯

明治4年(1871年)に東光の人々によって建てられた。後方はJR予讃線の鉄橋。平成13年7月撮影

写真3-4-6 西大道六地蔵集会所

写真3-4-6 西大道六地蔵集会所

中央の小堂が大師堂。平成13年5月撮影