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伊予の遍路道(平成13年度)

(3)平山から境目峠へ

 平山の嶋屋跡の前を通過した遍路道は、市道との合流・分岐を繰り返しながら、法皇山脈の山腹をぬって東に進む。平山を出たあたりに、地元の人によって歩き遍路のための休憩所が作られている。さらに2基の道標(107)・(108)を行き過ぎ、高知自動車道の高架下をくぐって川滝町領家(りょうけ)に入る。
 土地の古老の話によると、領家の古下田(こげた)(写真3-4-21)から原中にかけての集落には何軒かの遍路宿があり、戦前までは、地元の青年たちによって白米などの接待も盛んに行われていたという。またこのあたりの農家では、内職で作った草鞋(わらじ)を軒先に吊り下げて遍路に売っていたこともあり、結構よい小遣い稼ぎになったということである。古下田のはずれに2基の道標(109)・(110)があり、川滝町下山の椿(つばき)堂地区まで進んで道が庄田川に突き当たる所にも2基の道標(111)・(112)を見ることができる。
 この椿堂地区の傾斜地に椿堂(常福寺)がある。入り口の看板下に上部のみ残る徳右衛門道標(113)が立ち、境内には正岡子規など著名な俳人の句碑が数多く並んでいる。納経所の前に弘法大師の杖立て伝説にまつわる大きな椿の木が茂っており(写真3-4-22)、これが椿堂という呼称の由来となったといわれる。安政6年(1859年)の火災で建物や椿の木も焼けたが、現在の椿はその焼けた株から芽を出したもの<50>だという。
 大師堂は急な坂道をはさんで納経所の反対側にあるが、境内を二つに区切るこの坂道はもとの阿波街道であり、ここで遍路道は阿波街道と合流する。坂道の上り際には「椿堂遍んろ道通りぬけ」の道標(114)があり、椿堂から国道192号を西に150mほど下った**邸(川滝町下山734-1)角にも、1基の道標(115)が立っている。
 阿波街道と合流した遍路道は椿堂から北に下り、茂兵衛道標(116)が立つ三差路を右折する。その後、国道192号との合流と分岐を何度か繰り返しながら、しだいに金生川上流域へとさかのぼっていく。この道は阿波に向かう古くからの主要道であり、明治30年代以降、何度も大規模な改修が加えられてきた。一般国道の指定を受けた後の昭和47年(1972年)には、全長850mの境目トンネルが開通して距離が短縮された<51>。
 金生川沿いの平野部東端に七田(しちだ)地区がある。道はここから急峻な山地に入って行くため、交通の要地として往時は何軒もの宿屋が建ち並んでいた。現在でも、道沿いの家々は昔の面影をよく残している。この七田で遍路道は二手に分かれる。一つはこのまま阿波街道を進み、泉中尾の集落を経て徳島県池田町の佐野に入り、ここから雲辺寺に上る道であり、これは澄禅・真念の書物にも記されたルート<52>である。もう一つは、それ以降に開発されたと考えられる遍路道であり、それは、七田集会所の手前から讃岐山脈に続く山並みに直接入ってそのまま山伝いに雲辺寺に向かうルートである。
 前者の遍路道をとる場合は、3基の道標(117)・(118)・(119)を行き過ぎて七田を抜け、九十九折りの山道を泉中尾に向けて上がる。この山道は急斜面を上る細い道ながら、セメントで固めてあるため歩きやすい。上がりきった地点の民家脇で市道と合流する。この合流点にもかつて道標が立っていたが、傍らの電柱の取り替え工事の際に行方不明になってしまったという。記録によると、その道標には正面に大師像と手印及び「此方遍んろ道」という文字が刻まれ、右面には「文政十一年十一月」、左面には「願主 江戸本所産 徳次郎」とあった<53>ということである。
 市道と合流した遍路道は、愛媛県最東端の泉中尾の集落を通過し、境目峠の切通し(写真3-4-23)を経て徳島県池田町に入る。この県境を通過する道について、『愛媛県歴史の道調査報告書第四集 土佐街道笹ヶ峰越え』には「江戸時代の阿波街道は切通し部分のかなり上を通って阿波に抜けていた。道路の痕跡が残存しておらず検証の方法がない。<54>」と記されている。
 次に後者の遍路道をとると、七田集会所手前の道の左側斜面に「うん遍じ道」と刻んだ天保14年(1843年)の大きな道標(120)が立っており、これが大きな目印となる。この道標に従い蜜柑(みかん)の段々畑の間をぬって徐々に上がっていくと、自然石の道標(121)を過ぎてやがて「四国のみち」と合流する。ここから先、遍路道は「四国のみち」と合流したり外れたりしながら、山並みの尾根上を行く。昭和16年(1941年)9月にここを通った橋本徹馬は、その遍路記に「背丈け程もある茅や雑草雑木が道の左右から掩ひかぶさつて物凄く、之れが遍路道に相違ないであらうかと、幾度か疑はれるやうな道である。<55>」と書き残している。この遍路道は、決して歩きやすい道ではなかったようである。
 現在では、道の左右に檜が植林され、ところどころでシイタケ栽培がなされている。道中、下の谷から吹き上げる風で遍路の笠がとばされそうになったということで、「へんどの笠もぎ」と呼ばれている場所がある。県境の境目に至ると、そこには雲辺寺まで7.3kmを示す「四国のみち」の案内板が設置されており、同じく半分以上上に埋もれた道標(122)と2体の小さな地蔵がある。ここから遍路道は、いったん北に向かって愛媛・徳島・香川3県の県境を通過した後に東に向きを変え、讃岐山脈の尾根伝いに六十六番雲辺寺に向かうのである。
 安達忠一の『同行二人 四國遍路たより』には、「本道(ほんだう)を一里(り)九町行(ちゃうい)って佐野(さの)から登(のぼ)る人(ひと)もありますが、近道(ちかみち)の事(こと)とて此處(こゝ)から登(のぼ)る人(ひと)が多(おほ)いです。<56>」とある。戦前は、雲辺寺までの距離が短いこのルートを行く遍路が多かったようである。

写真3-4-21 領家古下田の集落

写真3-4-21 領家古下田の集落

平成13年8月撮影

写真3-4-22 椿堂境内の椿の木

写真3-4-22 椿堂境内の椿の木

平成13年6月撮影

写真3-4-23 境目峠の切通し

写真3-4-23 境目峠の切通し

左手前に、大正6年(1917年)に建立された徳島県との県境碑が見える。平成13年4月撮影