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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 本町通りの町並み

 ア 本町一丁目の町並み

 (ア) 服地屋と衣料品店

 「昭和30年(1955年)に私(Bさん)がオカケヤへ嫁いできたときには、一丁目にマルトクという屋号の服地屋さんがあり、洋服の生地をお客さんの要望に応じて裁断して販売していました。それから1年くらい経(た)ってマルトクがお店をやめた後、食品店が10年くらいお店を続けていました(図表1-2-2の㋐参照)。食品店がお店をやめた後、ギフトショップやスポーツ店が営業していた時期もありました。また、昭和40年(1965年)ころには、まきのや菓子店の隣に玉屋という衣料品店がありました(図表1-2-2の㋑参照)。当時、玉屋はさまざまな種類の服地を扱う総合衣料品店でしたが、しまいころには洋品も扱うようになっていました。玉屋の隣は、私が嫁いできたときには南予信用組合の閉鎖で空き家になっており、それからしばらくして大松屋という衣料品店がお店を始めました(図表1-2-2の㋒参照)。大松屋では主に婦人服や子供服などの既製品を扱っていたほか、雑貨も販売していました。また、薬店の隣には小松屋という衣料品店がありました(図表1-2-2の㋓参照)。その店は衣料品のほかにも毛糸や雑貨などいろいろなものを売っていて、まるで百貨店のような店でした。」

 (イ) 大上書店

 本町一丁目にある大上(だいじょう)書店について、次の方々が話してくれた。
 「大上書店では『大上で買えば大丈夫』という謳(うた)い文句で商いをしていたことを憶えています(図表1-2-2の㋔参照)。店では書籍以外にも運動靴や長靴などいろいろな商品を販売していて、私(Eさん)はまるで百貨店のような店だと思っていました。古い話をすると、藩政時代、大上書店の場所には、吉田藩の御用商人であった大坂屋という紙屋さんがありました。」
 「大上書店では書籍を中心に文房具なども販売していたほか、学校用品も取り扱っていました。品数がとても豊富だったので、私(Gさん)は小学生のときからよく大上書店へ行って買い物をしていました。」

 イ 本町二丁目の町並み

 (ア) さまざまな店

 本町二丁目にあったさまざまな店について、次の方々が話してくれた。
 「昔の本町には貸本屋さんが何軒もありました。二丁目にも漫画本がたくさん並んでいた貸本屋さんがありましたが、私(Hさん)が小学校に入学したころにはやめていました。また、二丁目と三丁目の境の角には精肉店がありました(図表1-2-2の㋕)。この辺りでは精肉店はその店と桜丁の店くらいしかなかったので、下(しも)の方に住んでいる方はこの精肉店をよく利用していました。私が小学1、2年生のころに初めて自転車を買ってもらったのが、二丁目にあった自転車店でした(図表1-2-2の㋖参照)。タイヤがパンクすると必ずその店で修理してもらっていましたが、後にその自転車店はやめてしまいました。」
 「昭和40年(1965年)ころには、二丁目に白百合という美容院があり、私(Bさん)もそこへ何回か行ったことがありました。そのころ、ひまわり手芸品店は二丁目にあり、昭和45年(1970年)ころに一丁目へ移ったと思います。また、佐川印刷は私が嫁いでくる前に一丁目から二丁目へ移っていたので、昭和40年には会社は本町二丁目にありました。」

 (イ) 伊予銀行吉田支店

 「昭和40年(1965年)ころの伊予銀行吉田支店は、昭和の初めころに建てられた鉄筋コンクリート造りの建物でした(図表1-2-2の㋗参照)。2階建てではありませんでしたが、天井の高い建物だった記憶があります。当時、愛宕神社(峰住神社)から本町の方を眺めると一目で見つけることができるほど、立派で風格のある建物だったことを私(Hさん)は憶えています。当時の建物は取り壊されてしまいましたが、現存していれば近代化遺産に選ばれていても不思議ではないと思うほどのすばらしい建物でした。」

 (ウ) 鳥羽酒造

 本町二丁目にあった鳥羽酒造について、次の方々が話してくれた。
 「今の郵便局の南隣には鳥羽酒造がありました(図表1-2-2の㋘参照)。鳥羽酒造は吉田劇場という映画館を経営していて、そこでは主に大映の映画を上映していたと思います。昭和30年代に加東大介が主演した『大番』という映画のロケーションが町内で行われ、その際には鳥羽さんの自宅も使用されていました。たくさんの人が映画の撮影を見物していて、私(Eさん)も女優さんたちを見て、『美しい女性がたくさんいるものだ』と思いながら見学していたことを憶えています。」
 「鳥羽酒造が日本酒を製造していたのは、私(Hさん)が小さいころまでのことでした。鳥羽酒造ではかつて『玉乃川』という日本酒を製造していましたが、南予地方の酒造会社2社と合併して名門酒造という会社となってからは、こちらでは日本酒の製造を行わなくなりました。現在、鳥羽酒造があった場所は空き地になっていますが、平成に入るころまでは、往時のたたずまいが残っていたことを憶えています。」

 (エ) 吉田郵便局

 「かつて吉田郵便局では電話交換業務も行っていました。私(Fさん)は子どものころ、郵便局員の方が交換業務を行っている様子が珍しくて、道端から眺めていたことがありました(図表1-2-2の㋙参照)。中学生のときに何かの記念切手が発売され、私はそれを手に入れるために、朝8時から吉田郵便局に並んだことがありました。首尾よく記念切手を買った後、中学校の始業の鐘が鳴る音が聞こえてきたので、私は遅刻しては大変だと思い、走って登校したことを憶えています。昭和41年(1966年)に吉田郵便局は東小路の桜丁へ移転しましたが、昭和60年(1985年)ころに本町へ戻ってきました。」

 ウ 本町三丁目の町並み

 本町三丁目のさまざまな店について、次の方々が話してくれた。
 「昭和40年(1965年)ころ、三丁目の通りの東側には丸八という種物屋さんと奈良屋商店という米穀店があり、丸八では野菜の種を販売していました。奈良屋商店の南には○通(日通)吉田営業所がありました(図表1-2-2の㋚参照)。○通吉田営業所の場所にはもともと竹細工店があり、その向かいにあった作業場では職人さんが、竹を割るなどのいろいろな作業をしていたことを私(Fさん)は憶えています。40年ころには竹細工店から○通吉田営業所に替わっていたと思います。また、当時、味噌(みそ)は自分の家で作っていたので、多くの人が麹(こうじ)屋さんへ味噌を作るために必要な麹を買いに来ていました(図表1-2-2の㋛参照)。麴屋さんの場所にはかつて今治屋という旅館がありました。
 通りの西側には、酒井平和堂という菓子店や理容店、青果店、酒店などがありました。中学生のころ、三丁目には西小路の方が営んでいた貸本屋さんがあり、私はそこでよく本を借りて読んでいました。当時は貸本屋さんと北隣の住宅の間の路地を通り、金水湯という銭湯に通っていました(図表1-2-2の㋜参照)。金水湯に行くと、おじさんに家から持参したサツマイモを渡し、『これを焼いてや。』と言って、焼き芋を作ってもらっていたことを憶えています。」
 「私(Hさん)の家で昭和40年(1965年)に水回りの改築をしたとき、短い期間でしたがお風呂が使えなくなったため、銭湯に通っていました。その当時、この辺りで銭湯といえば、金水湯のほかには桜橋を渡った所にあった銭湯しかなかったので、両方の銭湯に通っていたことを憶えています。また、赤松びっくり堂という菓子店ではきび餅の製造・販売を行っていました(図表1-2-2の㋝参照)。当時、きび餅は吉田銘菓として有名で、そのほかの菓子店でも製造・販売を行っていましたが、その後、吉田町できび餅の製造・販売を行う菓子店はなくなっていました。ところが、2、3年前の吉田秋祭りのときに本町通りを歩いていると、まきのや菓子店で昔のきび餅を復刻販売しているのを見掛けて、とても懐かしく思いました。」

 エ 子どもたちが集まっていた店

 当時、子どもたちがよく集まっていた店について、次の方々が話してくれた。
 「昭和40年(1965年)ころ、桜橋のたもとにあったふじやでは、アイスキャンデーを作って販売していました(図表1-2-2の㋞参照)。一丁目には、大上書店の経営者の住宅の一区画にあまやという駄菓子屋さんがありました。二丁目の清水商店では、飴(あめ)玉などの駄菓子のほか、羽子板などの子どもたちが欲しがりそうな遊び道具もたくさん販売していたことを私(Bさん)は憶えています(図表1-2-2の㋟参照)。」
 「私(Fさん)は、夏になるとふじやへアイスキャンデーを作っている様子を見に行っては、よく買って食べていたことを憶えています。清水商店では主に駄菓子を販売していましたが、花火なども販売していました。私はお小遣いをもらうとその店へ行き、容器の中から駄菓子を混ぜくる(かき混ぜる)ようにして取り出して買っていました。」

 オ 横堀食堂

 「その当時、横堀川の河畔、桜橋のたもとに横堀食堂という大衆食堂がありました(図表1-2-2の㋠、写真1-2-4参照)。昭和の終わりから平成の初めころにかけては、多くのお客さんが鰻(うなぎ)を食べに訪れるほど人気のあった店でした。横堀食堂の看板メニューは、御主人が横堀川で獲(と)った天然鰻の蒲(かば)焼でした。私(Gさん)が小学生のとき、横堀川には鰻がたくさん泳いでいて、鰻の群れの黒い塊に銛(もり)を投げれば簡単に鰻を獲ることができました。歴史小説家の吉村昭は、宇和島を50回以上も訪れ、宇和島の歴史に取材した『ふぉん・しいほるとの娘』や『長英逃亡』などを書いていますが、食通であった彼は、歴史小説の資料蒐集(しゅうしゅう)のため宇和島を訪れた帰途、必ず吉田の横堀食堂に立ち寄り鰻を堪能(たんのう)していたそうです。御主人は鰻獲りの名人で、ヤスで鰻を突いたり、柴漬けという漁法を用いたりして鰻を獲っていました。柴漬けというのは、柴(木の枝や笹を束ねたもの)を一晩水中に沈め、翌日、枝の中に潜んでいた鰻を柴ごと大きなたも網ですくい獲る漁法です。そのような漁法は高知県の四万十地方でも見られるそうですが、非常に珍しい漁法であるということで、吉村昭は御主人から聞いた鰻獲りの話からヒントを得て、『闇にひらめく』という短編小説を執筆しました。その短編小説を今村昌平監督が映画化したのが『うなぎ』という作品で、1997年のカンヌ国際映画祭で最高賞であるパルム・ドール賞を受賞しました。横堀食堂は御主人が亡くなった後、奥さんが店を続けていました。」

 カ 戦前・戦後によく利用した店

 「私(Aさん)は国民学校6年生のときから父と二人暮らしで自炊していました。戦時中、食糧は配給制で、米を食べることはなくサツマイモを主食としていました。味噌や醬油(しょうゆ)、塩なども、毎月1人何合というように決められた量が配給されていました。配給される食糧を指定された店へ受け取りに行き、受け取ると通帳のようなものに判子を押してもらっていたことを憶えています。
 戦後、よく通っていたのは宮政という食堂で、銭湯からの帰りにそこで御飯を食べてから帰宅していました(図表1-2-2の㋡参照)。桜丁にはなかよしという食堂があり、そこでもよく食事をしていました。本町一丁目にあった宮忠酒店では、酒のほかにも缶詰などいろいろな食料品を販売していました。私は昭和30年(1955年)に結婚するまで自炊をしていたので、宮忠酒店をよく利用していました。そのほかに大上書店やオカケヤ、麴屋さんなどもよく利用していました。」

 キ 商店街の移り変わり

 「昔は本町通りを人が必ず歩いていて、呼び込みなどを行わなくても店にお客さんが来てくれていました。特に、本町一丁目では何でも買いそろえることができたので、多くの買い物客でにぎわっていたことを私(Gさん)は憶えています。ところが道路事情が良くなり、郊外に大型スーパーマーケットができると、商品が安くて種類も豊富にあるので、皆さんがそちらで買い物をするようになりました。本町を含む商店街の景気が良かったのは昭和40年(1965年)から50年(1975年)ころまでで、その後は少しずつ寂れていったように思います。当時から危機感をもち、お客さんを呼び込むための工夫を重ねていた店は残っていますが、現在では後継者がいないために閉店した店が多くなっています。魚棚通りにもかつては30軒を超える鮮魚店が立ち並び、どの店でもじゃこ天や蒲鉾(かまぼこ)などの練り物も作って販売していましたが、今では鮮魚店は1軒しか残っていません。最近では本町通りを歩いている人を見掛けることがすっかり減って、自動車があまり速度を落とさずに通行することがあります。本町商店街が長い間人通りでにぎわっていたことを知っているので、今の状況をとても寂しく感じています。」

(2) 商店街で商う

 ア 藩政時代からの歴史を受け継いで

 「オカケヤの当主である佐川家は、藩政時代、吉田藩の御用商人を務め、『御掛屋』を屋号としていました(図表1-2-2の㋢参照)。オカケヤの社章は、江戸時代に両替商の看板や藩札などにお金を表す図案として使われていた分銅に由来しています。佐川家は、伊達秀宗の宇和島入部のときに仙台から従って、吉田藩の成立に際して吉田へ移ってきたと言われていますが、伊予国の出身かもしれないという話を聞いたこともあります。吉田藩分封後、佐川家は完全な武士身分ではなく半官半商であるということで、住まいが家中町ではなく町人町に与えられたそうです。明治時代に入り、当時の当主が佐川家の行く末を心配する内容の遺言を残しているので、藩の御用がなくなって随分苦労したのではないかと思います。
 私(Bさん)は昭和30年(1955年)にこちらに嫁いできてから商売をするようになりました。それまで商売には全く縁がなく、商家に嫁ぐことになるとは思ってもみませんでした。それでも高校卒業後、1年半くらい銀行に勤務していたので、商売にそれほど抵抗を感じることはありませんでした。私が嫁いできたとき、店はすでに株式会社になっていました。男性4人と女性2人くらいの住み込みの店員がいましたが、義母が家で一番早く起きていました。当時は夜が明けるころには注文の電話が掛かってきたため、義母は朝5時には起きて店を開け、店の前の掃除をしていました。夜はみんなで注文の品物をそろえたり、商品にシールを貼ったりする作業を行っていたため、劇場の営業が終わる夜10時ころまでは店を閉めるわけにはいきませんでした。今にして思えば、朝早くから夜遅くまでよく働いていたものですが、結婚当時は夫も私も若くて体力もある程度あったので、そのような働き方ができたのだと思います。昭和45年(1970年)に義母が亡くなった後は、開店時間は以前ほど早くはなくなり、閉店時間も少しずつ早くなって夜8時には店を閉めるようになりました。
 オカケヤでは、今のホームセンターのように金物や建築材料、左官材料、家庭用品など多岐にわたる商品をそろえていて、食料品以外は何でも扱っていました。店には水道関係、ガラス関係の職人さんもいて、用途やサイズに合わせて材料や部品を切断して販売していました。そのため、お客さんには農家の方や大工さん、左官屋さん、鉄工所の関係者、造船所の関係者などいろいろな業種の方がいましたし、主婦の方が家庭用品を買い求めに来たり、学校の先生や生徒が来たりもしていました。吉田高校(愛媛県立吉田高等学校)からは、工業関係のコークスや実習に使う鉄板などのほか、工具関係やバケツ、ちり取りといった掃除道具の注文もありました。注文数が多かったため、支払い済みのものと未払いのものの区別がつかなくなることがあり、そのようなときには元帳と請求書の用紙と印鑑を持って職員室まで行き、未払いのものを確認して支払いを請求したこともありました。」

 イ 菓子店を営む

 (ア) 修業時代

 「父は桜橋のたもとにあった和菓子店で修業して店舗とまきのやの屋号を引き継ぐことになり、結婚後に本町の本通り沿いに店舗を構えました(図表1-2-2の㋣参照)。私(Eさん)は高校卒業後、父から『他人の飯を食べてこい。』と言われ、松山の洋菓子店で3年間修業しました。他人の飯を食べるというのは、仕事を覚えるだけでなく世の中のことも勉強しなければならないという意味です。修業した洋菓子店は父の知人の店だったので、私は呑気(のんき)に構えていましたが、毎朝早い時間に起きなければならなかったのがとてもつらかったことを憶えています。また、親方から、『洗濯物を決められた場所に置いておけば洗っておくから。』と言われていたのですが、2週間が過ぎても私の洗濯物は置きっぱなしになっていたということがありました。私は『これはいけない』と思い、それからは自分の洗濯物は洗濯屋さんに出すようにしました。当時はつらかったのですが、今振り返ると、そのような理不尽なことを経験することも『他人の飯を食べる』ということなのだと思います。」

 (イ) 店を継いで

 「私(Eさん)は昭和39年(1964年)、20歳のときに店を継いだので、私の代になってから50年以上になります。小さいころから、長男は家業を継ぐのが当たり前という教育を受けていたので菓子店を継ぎましたが、もし次男だったら家業を継いではいなかったと思います。店にはお手伝いの方もいて、毎朝8時ころには開けていたと思います。父が元気な間は、私が父と同じ仕事を行ったとしても、お客さんはそのようには見てくれず、父の行った仕事と受け取られてしまうということがよくありました。私自身も両親の看板に甘えてしまっていたところがあったのかもしれません。
 父の代は、まきのやでは和菓子のみの製造・販売を行っていて、私が洋菓子店での修業から帰ってからは和菓子に加えて洋菓子の製造・販売も行うようになりましたが、その後、再び和菓子のみの製造・販売に戻りました。私は午前中にお菓子を1品作り、午後にはもう1品作っていました。かつてはどの菓子店でも春が来れば桜餅、5、6月になると柏(かしわ)餅、お盆の時期にはお供え用のお菓子、というように季節に合ったお菓子を作って販売していました。ところが、今では大手の菓子メーカーの中には一年中桜餅を販売しているところもあり、お菓子から季節を感じられなくなっています。冬の方がほかの季節よりもお菓子の販売は増えていました。当時はスイーツという言葉は使われていませんでしたが、生クリームの掛かったハイカラなお菓子がよく売れていました。店では私と妻の二人でお菓子を作っていて、多い日には200個から300個も作ったことがありました。子どもが小さかったころは、妻は子どもを背負いながら店で働いていたことを憶えています。また、50人から60人の結婚式のお菓子の注文が3、4件入ったときには、徹夜で仕事をしたことも何回かありました。当時はとても忙しい毎日を送っていましたが、今ではそのころのことが懐かしく思われます。店には後継者がおらず、私自身の体調が思わしくないこともあって、残念ではありますが私の代で廃業することにしました。私たちは商店街がにぎわっていた当時から町のみんなで助け合いながら生活してきましたが、最近は、この辺りでも『近所のおじちゃんやおばちゃんの店で買い物をしよう』という人が少なくなり寂しい限りです。今は皆さんと一緒に、吉田秋祭り(県無形民俗文化財指定)にかつてのようなにぎわいを取り戻そうと頑張っています。」

 ウ 呉服店を商う

 (ア) 訪問販売の苦労

 「駒屋は父が昭和22年(1947年)に創業した吉田町で唯一の呉服店で、私(Dさん)は2代目になります(図表1-2-2の㋤参照)。私は高校卒業後に駒屋を継ぎましたが、そのころは買い物客の地元志向がそれほど強くはなく、何とかして地元のお客さんを増やせないかと思案していました。すると、化粧品店の御主人(Fさんの父親)から、『待っていてもお客さんは来てくれないから、お客さんの懐に飛び込まないといけないぞ。』と発破を掛けられ、毎日新しいお客さんを4軒作ることをノルマとするように教えられました。私は教わったとおりに、外回り営業で午前中に1軒、昼休みに1軒、午後に1軒、夜に1軒のお家を訪問し、1か月で100軒くらいのお家を訪ねました。外回り営業で一番困ったのは、昼休みにお家を訪ねたとき、ほとんどの場合が昼食の時間とかち合ってしまうことでした。そうかといって昼食後の時間を狙って訪ねると、農家の方は山へ仕事に出掛ける直前で、『この忙しいときに何しに来た。』と言われ、まともに相手をしてもらうことができませんでした。そのような困難もありましたが、外回り営業によってお客さんを増やすことができたので、何とか今まで続けてこられたのだと思います。」

 (イ) 他店との差別化を図る

 「私(Dさん)は自分の店の特色を出すことについても随分思案してきました。以前は着物の販売を専業としていたので、駒屋のオリジナルの魅力的な着物を作り、3年間、婦人画報社の『美しいキモノ』という全国版の雑誌に毎号出品していました。『美しいキモノ』に作品を出品すると1ページ当たり50万円の掲載料がかかりましたが、東京や千葉、川崎(かわさき)(神奈川県)、川越(かわごえ)(埼玉県)、越後湯沢(えちごゆざわ)(新潟県)などの遠方のお客さんからも注文をいただいていました。全国的な呉服市場のピークは昭和60年(1985年)ころで、昨年(令和元年〔2019年〕)の販売額は、デパートの呉服売場も含めて昭和60年のおよそ3割弱にまで落ち込んでいます。そこで、駒屋では着物の販売に加えて、14、15年前からカタログギフト販売会社の特約店となってギフト販売も行っています。ところが、ギフト販売による利益はそれほど多くはないため、現在は店の収入の半分以上が不動産による収入となっています。日々の着物の売り上げだけでは安定した収入が見込めないため、そのような形で収入を確保しなければならないのです。」

 (ウ) これまでの商いを振り返って

 「私(Dさん)は60年近く商いを続けてきましたが、その中でも石川県の和倉温泉・加賀屋で呉服店の全国大会が開かれたときの出来事が強く印象に残っています。加賀屋は『プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選』で30回以上も第1位に選ばれている老舗の温泉旅館です。懇親会で私が乾杯の発声をすることになり、愛媛県の吉田から来たと自己紹介しましたが、出席者の皆さんは吉田という地名を知らない様子で、吉田が宇和島の隣町であると説明してもまだピンときていない様子でした。そこで、伊達政宗の孫が開いた吉田藩3万石の歴史をもつ町であると説明すると、ようやく分かってもらえたようでした。そのような経験から、私は吉田3万石の歴史の重みというものを大切にしなければならないと思ったものでした。
 昭和30年代から40年代は吉田町が最もにぎわっていた時期で、その時分に松野(まつの)町へ商いに行ったときのことも記憶に残っています。お客さんが『うちに吉田からお嫁さんが来たんよ。』とうれしそうに話してきたので、『大事にお願いします。』と言って帰ったことがありました。また、県の商工会の会議に出席したとき、懇親会で三間(みま)町(現宇和島市)の商工会の方が、『子ども時分から、吉田に追い付き追い越せ、と言われて育ちました。』と話していましたが、今は吉田町の商店街でも廃業した店が多くなっています。残っているお店も私たちの息子の代に替わっていきますが、デジタル技術を活用してリアル店舗とバーチャル店舗を融合するなど何らかの手を打たなければ、今後の商売は右肩下がりになると思います。」

 エ 化粧品店を商う

 (ア) 父の苦労を見て

 「私(Fさん)の父は松野町の農家に生まれましたが、昭和26年(1951年)12月に、母の出身地である吉田町に移り住んで商売を始めました。商売を始めたころは手元に商品が全くなかったので、同じ町内で商売をしていた伯母に品物を分けてもらって訪問販売を行っていました。父は吉田町には知人がほとんどいなかったので、出身地である松野町まで自転車で出掛け、知人の家を訪ねて回っていました。自転車だと片道で何時間もかかっていたため、毎日早朝に家を出て、夜になって帰宅していました。そのため、初めてバイクを買ったとき、父が『これほど楽に松野町まで往復できるのか。』と言って、とても喜んでいたことを憶えています。そのような商売を何年か続けた後、吉田町内の各地区を1日ずつかけて回るようになりました。当時は物があまりない時代だったのでよく売れたという面はありましたが、父も売り上げを伸ばすためによく頑張っていたと思います。『朝は朝星、夜は夜星』ではありませんが、遠方まで販売に出掛けて、『今日は何ぼ売れた。』と本当にうれしそうに話していました。そのような父の姿を見て、私は子ども心に『商売は面白いものなのかな』と思っていました。その後、ようやく店舗を構えて商売をするようになると、父は毎月1回決まった日に売り出しを行っていました(図表1-2-2の㋥参照)。売り出しの日は、夜9時に閉店するまで子どもたちも御飯を食べさせてもらえないのですが、店の様子が気になって見に行ってみると、お客さんがなかなか途切れることはありませんでした。私が中学校へ上がるころはミカン農家も景気が良い時代でしたが、そのころが店の景気もピークだったように思います。昭和40年(1965年)ころは国鉄を利用する人が多かったため朝早くから通りにも活気があり、私の家も朝7時から店を開けていました。中学3年生のときには、資生堂から初の本格的男性用化粧品として販売された『MG5』という液体整髪料が爆発的にヒットし、周りの友人たちが私に『サンプルがほしい。』と言ってきました。当時、私は丸刈りだったにもかかわらず整髪料をつけて学校へ行き、先生に怒られたということがありました。また、前田美波里が起用された化粧品広告のポスターを店頭に貼ると、数時間もしない間に持ち去られていたということがありました。」

 (イ) 修業時代

 「父の商売のおかげで大学に進学させてもらうことができましたが、私(Fさん)は長男だったので店を継がざるを得ませんでした。昭和49年(1974年)に大学を卒業すると、父から『他人の飯を食ってこい。』と言われて、松山の化粧品店に1年間住み込みで働きました。そのとき訪問販売を行っていましたが、一番嫌だったのは産婦人科への訪問販売でした。店主から、『1個でも売れたら帰ってこい。』と言われて産婦人科を訪ねましたが、女性の輪の中に入っていき『化粧品はいかがですか。』と話し掛けるのが、最初はとてもつらかったことを憶えています。それでも、何とか売らなければと思い、大学生のときコーヒー専門店でアルバイトをしていた経験を生かしてコーヒーの話をすると、興味を示す人が3人くらいいました。3時間くらい話をした後、その3人が、当時としては最高級の化粧品を1個ずつ買ってくれました。私はそのとき、『一生懸命努力すれば、お客さんにもそれが通じて商品を買っていただける、有り難いな』と思ったことを憶えています。」

 (ウ) 店を継いで

 「修業期間を終えて店を継いだころは朝7時から夜は8時から8時半ころまで営業していましたが、朝早く起きるのがつらかったことを憶えています。今は化粧品を中心に販売していますが、当時は化粧品のほかに下駄(げた)や草履、小間物なども扱っていて、比較的お客さんが来てくれていたので、本当に良い時代だったと思います。父の時代は商品の販売に重きを置いていましたが、私(Fさん)はある時期に訪問販売をやめることにしました。『車社会になったこともあり、店を気に入ってくれたらお客さんは来てくれる』と考えたのです。その後は、お客さんの肌の手入れをして満足してもらうという方針に転換し、そのほかに少し商品の配達をするくらいのものでした。しかし、昭和51年(1976年)に結婚して5、6年後から売り上げは下り坂になりました。私自身が訪問販売を行っていたのは10年にも満たない期間でしたが、今となっては、商売にはお客さんの所に出向いて商品を販売するくらいの馬力が必要だったと思っています。
 結婚後、妻の方が私よりも多くの商品を販売することができたため、販売は妻に任せて、私は化粧品に関する技術の習得に力点を置くことになりました。私は、結婚前から多くの女性に混じって、ビューティースペシャリストの資格を取得するための勉強会に参加していました。メイクアップまで全てできるビューティースペシャリストの資格は、化粧品を販売するうえで必要なものだと考えたのです。私は23歳ころに資格を取得しましたが、県内の男性で取得したのは私が最初でした。当初はそれを謳い文句にしていたのですが、当時は男性にメイクをしてもらうことに抵抗を感じる女性がほとんどでした。私がお客さんに『メイクをしましょうか。』と言っても断られることがほとんどで、せっかく取得した資格も宝の持ち腐れでした。今では男性のビューティースペシャリストにメイクを依頼する人が増えているのですが、当時はまだ早過ぎたのだと思います。
 また、当時は結婚式があると、呉服店の駒屋さんとタイアップして、花嫁衣裳の着物と化粧品をセット販売のような形で販売していました。花嫁さんに、『結婚してからは自由に化粧品を買えなくなるかもしれないので、4、5本まとめて買っておいてはどうですか。』と勧めると、比較的思い切りよく買ってくれることが多く、ときには段ボール1箱分も買ってくれた方がいたことを憶えています。」

 (エ) 化粧品販売の難しさ

 「化粧品の種類はとても豊富で、例えば乳液一つとっても40種類以上もの商品があり、価格も500円くらいの商品から12,000円くらいもする商品まであります。男性は奥さんがどのような化粧品を使っているのかそれほど興味がないと思いますが、最も高価なクラスの商品を全てそろえるとすぐに10万円くらいになります。そのため、化粧品専門店では、お客さんのニーズを理解したうえで、それに最も適している商品を提案するということも必要となってきます。日焼けしたという悩みや肌が乾燥しやすいという悩みなど、さまざまな悩みをもつお客さんに対して、私(Fさん)がいろいろと考えたうえで商品を選んで勧めても、最近は『安い商品で結構です。』と言われることがよくあり、こちらの思惑どおりにいくことはあまりありません。お客さんに、『サンプルをお貸ししますよ。』と申し出ても断られることが多くなり、商売がだんだん難しくなってきていると感じます。
 今は、ドラッグストアでも化粧品専門店と同じ商品を販売しているうえに、多くのドラッグストアでは商品を買うとポイントが付与されるサービスがあるので、化粧品専門店で商品を買う人が減ってきています。また、昔は、母親が使っている化粧品と同じブランドの化粧品を使う女性がほとんどで、例えば、母親が資生堂の化粧品を使っていれば娘さんも資生堂の化粧品を使っていました。ところが、今の若い人は特定のブランドにこだわって購入する人が少なくなりました。例えば、ファンデーションであればコーセーの商品、口紅であればカネボウの商品というように、自分が気に入った商品であればブランドにこだわらず購入する人が多くなっています。そのため、最近は、化粧品をセットで販売しようと思ってもうまくいかないことが多くなっています。」

図表1-2-2 昭和40年ころの本町商店街の町並み(1)

図表1-2-2 昭和40年ころの本町商店街の町並み(1)

Cさんの調査資料を基に、地域の方々の協力により作成

図表1-2-2 昭和40年ころの本町商店街の町並み(2)

図表1-2-2 昭和40年ころの本町商店街の町並み(2)

Cさんの調査資料を基に、地域の方々の協力により作成

写真1-2-4 桜橋と横堀川

写真1-2-4 桜橋と横堀川

令和2年7月撮影