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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 島のくらし

(1) くらしの中の景観

 ア 段畑

 (ア) イモと麦の栽培

 「私(Aさん)が子どものころ、九島では半農半漁で、食糧は自給自足している人が多かったと思います。段畑が山の頂上付近まであって、段畑で主食のイモ(甘藷、サツマイモのこと、以下同じ。)と麦を栽培していました。イモと麦は同じ畑で時期をずらして栽培していて、麦の刈り取りが終わるとイモを植えていました。段畑で収穫した麦やイモは天秤(てんびん)棒で運ぶので、昔の人は肩に荷こぶがあったことを憶えています。」
 「農業をしている人が多く、子どもたちも親を手伝う必要があったので、小学校も農繁休業が3日くらいあったことを私(Bさん)は憶えています。」

 (イ) でん粉工場

 「私(Aさん)が九島農協で勤務し始めたころ、まだほとんどの段畑でイモや麦を栽培しており、肥料運びやイモの出荷などに携わっていたことを憶えています。段畑で作られたイモは、自分たちで藁(わら)を編んで作ったほごろに入れて、男性は天秤棒で、女性は負い子でかるうて(背負って)麓まで運んでいましたが、とても大変だったと思います。また、当時は農道が十分整備されておらず、谷になっている所は『サル機械』と呼んでいた索道を利用していました。サル機械は動き続けるので、上手ほごろを引っ掛けたり外したりできずに、ほごろがひっくり返ってイモがこぼれるなどの失敗をすることもあったことを憶えています。やがて、モノレールが整備されて、サル機械は利用されなくなりました。
 当時、九島対岸の白浜に、イモを加工する農協のでん粉工場があり、イモの出荷時期に稼働していました。そこへイモを出荷して現金収入を得ることができるようになって、九島は経済的に潤っていったと思います。秋の出荷時期には九島をはじめ近隣から多くのイモが工場に出荷され、九島からは自分の船で出荷する人も多かったです。イモほごろに入れてあり、桟橋に泊めた船から降ほごろをリヤカーで工場まで運びますが、道路ほごろに入れられたイモが山積みされていたことを憶えています。
 農協の職員数が多かったこともあって、定時制の夏休みの時期には、私はでん粉工場の宿直をときどき頼まれていました。当時、定期船が九島と白浜、石応間を結んでいたので、私は定期船で白浜まで渡り、工場まで行きました。工場は、臨時従業員を雇って、交代制で昼も夜もフル稼働していました。工場には食堂と大浴場があったのですが、食事や入浴の時間がきちんと決められており、『食事の時間にちゃんと食べておかないと、食べる物がなくなるぞ。』と従業員が言われていたことを憶えています。また、大浴場は1か所しかなかったので、男女の入浴時間がそれぞれ決められていました。」

(ウ) ミカン栽培

 「私(Bさん)が小学生のころから、イモや麦とは別にミカンが少しずつ植えられていきました。小学生のころにミカン摘みを手伝った記憶があります。今はミカンもいろいろな種類があり、甘いミカンがたくさんありますが、当時の九島で栽培されていたのは酸っぱいダイダイ(夏ミカン)でした。」
 「私(Aさん)が九島農協で勤務を始めて間もなくすると、柑橘栽培が盛んになり、段畑もミカン畑へと切り替わっていきました。当時、柑橘組合には300戸くらいが所属していて、慰安旅行で九州に貸し切り船で行くなど景気が良く、農協職員も慰安旅行に誘われ、私も一緒に行ったことを憶えています。昭和40年(1965年)ころからしばらくは、ミカンや養殖による現金収入が増えて、九島の景気は良かったと記憶しています。栽培されるミカンは時代とともに変わっていき、伊予柑が主流の時期もありましたが、現在はさまざまな種類のミカンが栽培されています。残念ながら、最近は後継者不足から放置される段畑も増えてきています。」

 イ 真珠養殖

 「私(Bさん)が幼いころ、真珠母貝養殖を私の家でもしており、スギの葉で稚貝を育てていた記憶があります。私が九島幼稚園で勤務していたころの約50年前に作られた九島小唄に『真珠筏(いかだ)の本九島』と歌われているように、真珠母貝を育てるための真珠筏がたくさんありましたが、私の家ではすぐにやめてしまったと記憶しています。私が小学生のころ、九島周辺では真珠母貝養殖がまだまだ盛んで、アルバイトではないですが休日に私たち小学生が雇われて、小浜にあった真珠母貝養殖場で稚貝をスギの葉から取り除いていたことを憶えています。」
 「私(Aさん)の母は、大月真珠(大月真珠養殖株式会社、昭和40年〔1965年〕までの社名は宇和島真珠養殖株式会社)で一時期働いていましたが、ほかにも九島の女性は何人か働いていたと思います。毎日、大月真珠の船が母たちを九島まで迎えに来て、作業小屋のある養殖筏まで直接連れて行き、夕方ころに九島まで母たちを連れて帰ってきました。養殖場は広かったので、『昨日はこちらの筏での作業が終わったので、今日はあちらの筏で作業しましょう。』といろいろな場所で主に貝掃除をしていたようです。母が毎日仕事に出掛けるので、中学生のころ自分で御飯を炊いていた記憶があります。その後、私の家でも期間は短かったですが、真珠母貝養殖を始めました。私も中学校卒業後、土曜日や日曜日に手伝っていたことを憶えています。」

 ウ 養蚕

 「私(Aさん)が小学生のころまで、九島で養蚕が行われており、2階で蚕を飼っていた家もありました。私の家では私が生まれる以前から養蚕をしていたかもしれませんが、早くに養蚕をやめたと記憶しています。それでも、母の実家に桑の葉を摘みに行ったことや、真っ黒な桑の実を『この桑の実はよく熟れているぞ。』と言って食べて美味(おい)しかったことを憶えています。」

 エ ネズミ騒動

 「私(Aさん)が小学1年生のころ、九島でネズミが増えて大きな被害が出ました。数年間ネズミの被害が続いたと記憶していますが、餌となるイモが豊富にあったためだと思います。小学校から集落に戻るとネズミが走り回っていたことや、ネズミ対策としてイタチやネコを飼ったり赤い毒の餌を置いたりしたことを憶えています。」

(2) 九島のくらし

 ア 簡易水道

 「昔は簡易水道で、夏になると家のタンクの水が頻繁になくなっていたので、水くみの仕事があって大変でした。当時、私(Aさん)の家には風呂がなくて、水をくんだり薪(まき)を採ってきたりといった手伝いをして、隣の家の風呂を使わせてもらっていたことを憶えています。当時の生活用水は簡易水道と井戸水でしたが、蛤の共同井戸の水は晩になくなっていても翌朝にはたまっていて、夏でも潤っていました。」
 「私(Bさん)の実家には大きなタンクがあり、簡易水道の水が使えるときに水をためて使っていて、タンクから風呂へ水を運ぶのは子どもの仕事でした。昭和48年(1973年)に市の水道が九島に引かれましたが、『水の心配がなくなって有り難い。』と喜んだことを憶えています。」

 イ 買い物

 (ア) 九島の商店

 「昭和40年(1965年)ころ、九島の人が買い物をする商店は、それぞれの集落にある九島農協の3店舗が中心で、そのほかに個人商店が3、4軒あったと私(Aさん)は思います。農協は農業関係だけでなくさまざまな事業をしていました。」
「農協の店舗では、日用品や米などの食料品を購入する人が多かったと私(Bさん)は思います。一方、衣料品や贅沢(ぜいたく)品は定期船で市内へ買いに行っていました。」

 (イ) 個人商店

 「百之浦には小学校の近くにうどんを出す食堂がありました。九島には宴会場がなかったので、その食堂の2階で農協職員の宴会がよく開かれていたことを私(Aさん)は憶えています。その食堂とは別に、何かあったときに宿泊もさせてもらえる小さな食堂もありました。」
 「本九島と蛤に野菜や日用品を扱う商店があり、蛤には子どものおもちゃを扱う小さな商店もありました。お伊勢山の麓にも、おばあさんが経営していた子どものおもちゃを扱う商店があったと私(Bさん)は記憶しています。」

 (ウ) 農協の展示会

 「農協はテレビ、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品やプロパンガスも扱っており、九島の人は家電製品を農協で年に1、2回行われる展示会で購入していて、他所(よそ)で購入することはめったにありませんでした。テレビアンテナの設置や家電製品が壊れた際の修理などのアフターサービスも農協が行っていたので、農協で購入する方が便利だったのです。東京オリンピック(昭和39年〔1964年〕開催)後には、カラーテレビへ切り替える人が増え始め、順番待ちで夜中まで取り付け工事が行われていたことを私(Aさん)は憶えています。昔は着物の展示会も行われていましたが、着物を着る人が少なくなったため行われなくなりました。家電製品の展示会は現在も行われており、年配の方は農協の方が頼みやすいということでよく利用していますが、規模が縮小されてきました。価格が安いということで、宇和島に進出している大手の家電量販店で購入する人も増えています。九島農協はJAえひめ南に統合され、百之浦が九島支所、蛤と本九島がそれぞれ出張所となって職員が減り、事業が縮小されています。プロパンガス事業は続いていますが、JAえひめ南の本所からガスボンベの交換に来ています。」

 (エ) 移動販売

 「現在、毎週火曜日、木曜日、土曜日に青果店が九島へ移動販売に来ていますが、九島大橋が開通する前からフェリーを利用して移動販売に来ていました。九島では自分の畑で野菜を作っている人が多かったので、農協の店舗で売っている野菜が少なかったのですが、だんだん野菜を作らない人が増えてきたため、青果店が移動販売に来るようになったのです。品数や種類が豊富なので、年配の方を中心に利用している人は多いと私(Aさん)は思います。」

 ウ 九島の自動車事情

 「私(Aさん)が子どものころ、島内を自動車が走ることはなかったので、舗装されていない道路でよく遊んでいました。道幅はとても狭く、たまにリヤカーが来た際にはよけていたことを憶えています。軽トラックが島内を走るようになったのは、農協がフェリーを運航するようになってからですが、何台も走ってはいませんでした。フェリーが就航してからも、島の若い人たちは市内に自家用車の駐車場を借りていたことを憶えています。」

 エ 定期船

 (ア) 定期船の運航

 「定期船はフェリー運航を終えるころ、平日は1日9便になっていましたが、昔は第1便が午前5時半から運航しており、9便よりも多かったかもしれません。定期船が客船だったころ、九島から和霊大祭に行く人で客船はいっぱいだったことを私(Aさん)は憶えています。漁業をしている人は自分の船で行き、今は埋め立てられている築地の辺りに船を泊めていました。湾の奥まで大漁旗を掲げた各地からの参拝船が数多く停泊していましたが、九島の船が一番多かったのではないかと思います。」
 「定期船は九島の三つの集落それぞれの港に寄港していました。2、3分で次の港に着くのですが、歩いていくには時間がかかる距離だったからだと私(Bさん)は思います。めったにはありませんでしたが、強風で港に着岸することが難しいときは、事情を説明する放送を流して、その港には寄らずに次の港に向かうこともありました。」

 (イ) 市内へ通う

 「定期船で通勤している人も多く、私(Bさん)たちより上の世代の方でも、市内の営林署や市役所で働いていた人がいました。当初は、九島小学校や中学校の先生の一部が、学校裏の住宅に住んでいましたが、そのうち、全員が市内から定期船で通勤するようになりました。学校は、小学校、中学校でそれぞれ、男性教員が交替で毎日宿直していました。
 私は市内の幼稚園で勤務していたころ、フェリーで市内に渡り、市内に置いていたバイクで通勤していましたが、缶詰工場や造船所へ通勤する人でフェリーがいっぱいになり、座る所がないくらいだった時期があったことを憶えています。仕事が早く終わってもフェリーの出発まで時間があったため時間潰しをしたり、市内で懇親会がある際も途中で帰らなければならなかったりして、何かと不便を感じていました。私たちが定時制に通っているころの最終便は午後10時でしたが、当時は午後8時30分になっていて、懇親会で一番盛り上がっている時間帯に『すみません。』と言って帰っていたことを憶えています。」
 「私(Aさん)は市内での懇親会の際に、一緒に飲んでいる人から『まだ一緒に飲もう。』と言われ、自分もまだ懇親会に残りたいこともあって、定期船の最終便の午後8時30分までに帰らないことがありました。九島から自分の船で市内までパチンコに行き、午後10時ころに帰る人を知っていたので、その時間までに桟橋に行って同乗させてもらっていたのです。『何々丸』と船名が書いてあるので、九島の人の船を探して桟橋で待つのですが、そのまま桟橋で寝てしまって朝になっていたことがあり、和霊神社に行って顔を洗ってから出勤したことがあったことを憶えています。どうしても九島に帰らなければならない場合には、特船と呼んでいた海上タクシーに連絡することもあり、午前2時ころに利用したこともありました。」
 「特船は1名で利用するには高額でしたが、市内で同窓会をしたときなど、複数人で利用するときは便利だったことを私(Bさん)は憶えています。」

 オ 定時制に通う

 「どの家も家計がまだまだ厳しく、長男以外は働きに出なさいという時代でした。集団就職する若者を乗せた、いわゆる就職列車を見送りに行ったことを私(Aさん)は憶えています。九島で勤務しながら定時制に通っていたのは、私の同級生で5、6人くらいでした。」
 「私(Bさん)たちが定時制に通っていたころ、定時制は1クラス40人余りで、4年生まで1学年2クラスずつありました。戦後のベビーブーム世代で、まだまだ中学校卒業後に就職する子どもが多かった時代でもあり、定時制の生徒数は全盛期だったと思います。
 九島で勤務している私たちは、勤務後、九島から定期船で定時制に通いました。同級生の中には市内で勤務しながら定時制に通う人もおり、九島から通勤している人と市内に転居した人がいました。九島から市内に通勤している定時制の生徒は、午後10時発の定期船で私たちと一緒に九島へ帰ったので、定時制から帰るときの船には私たちが定時制に行くときに乗る船よりも、定時制の生徒が多く乗船していました。
 授業は午後6時から9時半までで、4時間目までありましたが、1時間目に空腹と仕事の疲れで居眠りをしてしまって、先生に肩をトントンと叩(たた)かれて起こされることもありました。1時間目の後に、給食として脱脂粉乳を沸かした飲み物とコッペパンが一つ出ましたが、美味しくて楽しみにしていたことを憶えています。脱脂粉乳は、学校で用意しているアルマイトのコップで出されました。勤務しながら通学して勉強することは大変でしたが、若さで乗り切れたと思います。
 当時、高校のグラウンドは上下2段に分かれていましたが、ちょうど私たちが定時制に通っていたころに60cmぐらい下がった方のグラウンドに水銀灯が設置され、そこでナイター運動会をしたことを憶えています。水銀灯はそれほど明るくなかったですが、盛大な運動会でした。」

 カ 秋祭り

 「九島のそれぞれの集落に氏神の神社があり、本九島が住吉神社、百之浦が白王神社、蛤が天満神社で、住吉神社の本社が和霊神社、白王神社と天満神社が三島神社です。本九島は10月15日、百之浦と蛤は10月16日が秋祭りで、それぞれの神社から神輿(みこし)が出ますが、私(Bさん)が子どものころ、私の出身集落である百之浦の白王神社からは神輿が3体出ていました。」
 「私(Aさん)が子どものころ、秋祭りの際には神輿だけでなく牛鬼も出ていて、神輿と牛鬼を船に載せていました。牛鬼は大人用と子ども用がそれぞれ出ていて、大人用の牛鬼は怖かったことを憶えています。私の出身集落である蛤の場合、昼ころから神輿と牛鬼をかいて(担いで)、集落を回ってから本九島まで行きます。本九島の箱崎で神輿と牛鬼を船に載せて蛤まで音楽を流しながら戻って、集落前の海上で3回周回してから神輿と牛鬼を上陸させてお旅所で神事を行い、お札取りをしてから神社に神輿を戻していました。子どもたちも祭りに参加するので、学校の授業は2時間目くらいまでだったと思います。神輿は2隻の船を組んで載せていて、全部で5、6隻の船が出ており、市内からも多くの見物客が来ていて大変にぎやかでした。朝から祭りの準備をしていて、神輿を載せる船には旗を立てているので、登校する際に『あの船が出るぞ。』などと友人と話していたことを憶えています。海上保安部から安全面についての指導を受けたこともあり、船に神輿を載せなくなったようです。」

 キ 芝居

 「私(Aさん)が小学生のころ、芝居一座が九島に巡業に来ていました。集落によって巡業の時期が違っていて、百之浦は節句の4月3日ころ、本九島は二十四輩(にじゅうよはい)(島内に石仏が祭られている親鸞聖人の24人の門弟のこと)様の4月29日ころ、蛤は秋祭りの10月16日ころでした。」
 「芝居を子どもから大人までが楽しみにしていて、海岸に面した広場に舞台が組まれましたが、前日からバントコドリ(場所取り)をしていた人がいたことを私(Bさん)は憶えています。芝居は2日間の公演で、2日目は初日の続きの公演の場合もありました。芝居一座にいた子どもが、九島に滞在する3日間だけ九島小学校に登校して勉強していて、友人になりたかったことを憶えています。芝居一座は集落でそれぞれ違う団体が巡業に来ていたと思いますが、中学生のころには九島に芝居一座の巡業が来なくなりました。」

 ク 宿親、宿子

 「当時、私(Aさん)の家は狭くて6畳1間でした。そこで、中学校卒業後、近所の2階建ての大きな家に住んでいる人に部屋を借りていました。これを宿もしくは若衆(わかいし)宿と言い、貸主のことを宿親、借主のことを宿子と言いました。朝食は自分の実家で食べていて宿は寝泊まりするだけですが、祭りなどの行事があったときは、何人かで宿に集まって飲んだり食べたりしたことを憶えています。当時は島内で結婚する人も多く、宿親は結婚相談所ではないですが、結婚の世話をしてくれたり仲人をしてくれたりしました。」
 「私(Bさん)たちが結婚するときも、仲人は主人の宿親でしたが、私たちと年齢がほとんど変わらず、奥様は私と一つ違いでした。現在では、宿の風習そのものはなくなりましたが、宿親と宿子のつながりは結婚後も続いていて、慶弔の行事などにも行き来をすることがあります。」
 「宿親と年齢が変わらなかったのは、ちょうど代替わりしたころだったからです。私(Aさん)が宿を借りたとき、宿親の方が高齢のため島外に転居され、その後に入られた夫婦が私たちと年齢が変わらないくらいの方だったのです。宿親が仲人をすることは、私たちが最後の方だったと思います。」

 ケ 青年団

 「私(Aさん)が中学校を卒業したころ、九島では中学校を卒業すると結婚するまで男女とも青年団に所属し、さまざまな島の行事に携わりました。私が青年団に所属していたころ、初盆を迎える家の供養のために青年団が盆踊りをしていたことを憶えています。踊りの練習の際、参加者に食事を出して赤字になるのですが、秋祭りのときに神輿をかいた御祝儀で補填していました。青年団同士で親交を深め、貸し切りバスで遠足に行くこともあり、青年団の活動を通して仲良くなった男女が結婚することもありました。
 和霊大祭のとき、和霊神社前の参道に各地区の青年団がバザー会場を設けていましたが、九島青年団はかき氷を売って、その儲(もう)けを青年団の活動費にしていました。事前に青年団が九島の各家庭を回って前売り券を売り、九島の人たちは和霊大祭を見物に来た際に『前売り券があるから食べて帰ろう。』とバザー会場に寄ってくれました。当時、和霊大祭で出ている3体の神輿のうち、1体を九島青年団が貸し切りでかいていたため、バザー会場を良い場所に設けることができて面白いくらい売れたことを憶えています。私も青年団に所属していたとき神輿をかいて川の中に飛び込みましたが、良い思い出となっています。」

(3) 子どもの世界

 ア たくさんの子どもたち

 「私(Bさん)が小学校に通っていたころ、1学年に100人くらい子どもがいました。中学校も同じ敷地内にあったので、小中学校合わせて、900人くらいの子どもがいました。昭和43年(1968年)に幼稚園も同じ敷地内に開園しましたが、当時、中学校はまだ統合されていなかったので(昭和45年〔1970年〕3月末に閉校し、市立城南中学校と統合)、短期間ですが幼稚園、小学校、中学校が同じ敷地内にあったのです(写真2-2-5参照)。当時の幼稚園には80人くらい幼児がいたので、それほど広くない敷地ですが、一時1,000人近くの子どもがいたことになります。」

 イ 近所が遊び場

 「私(Bさん)たちが子どものころは、九島に幼稚園や保育園はなく、小学生になるまで自分の集落から出て遊ぶことはありませんでした。畑にたくさん生えていた草花を使って、近所の友人とままごとをしたことを憶えています。当時は島内同士の結婚が多く、そういったお客ごとがあると別集落にある親戚の家へ連れて行ってもらうことがありました。」
 「親に『親戚の家に行くよ。』と言われると、小学校から下校してすぐだったとしても、葬式でも結婚式でも御馳走(ごちそう)が食べられるので喜んで連れて行ってもらいました。料理をおなかいっぱいに食べたことを私(Aさん)は憶えています。」

 ウ 基地の思い出

 「私(Aさん)は小学生になってから、パンと言っていたメンコで友人と遊んだ記憶があります。高学年になると、山の良い場所に作った小屋を基地にして友人たちと遊ぶようになりました。4月の節句のころ、友人たちと基地で食事をしたことを憶えています。基地で遊んでいた際、中学生の先輩が『うちの畑にスイカができているから、大きなものを採ってこい。』と言うので、2、3人でスイカを採りに行ったことがありました。先輩から指示された畑からスイカを採っていたのですが、実は先輩とは関係のない畑だったので、畑の持ち主に怒られてしまい、慌てて逃げ出したことを今でもよく憶えています。」

 エ 紙芝居

 「紙芝居屋さんが定期船に乗って1週間に1、2回やって来て、最初に蛤、次に百之浦、最後は本九島と、自転車で集落を回っていました。紙芝居屋さんは比較的年配の人で、足元にゲートルを巻いていて、戦時中の国民服のような服装だったと私(Bさん)は記憶しています。紙芝居屋さんが集落の神社にやって来てカチカチと拍子木を鳴らすと子どもたちが集まってきて、神社の石段に座って紙芝居を見ました。内容が続き物でテレビやゲームがない時代だったので、いつも楽しみにしていたことを憶えています。食糧難の時代でイモがお金の代わりのようになっていて、紙芝居の際にイモを持っていくと飴(あめ)をもらいました。固形の飴をもらうときと水飴をもらうときがありましたが、割りばしでクルクル回し取る水飴が美味しかったことを憶えています。」

 オ 海で遊ぶ

 「私(Bさん)が子どものころ、毎日のように海で泳いだり海に潜って貝殻をとったりして遊んでいました。私たちがツナギドウフと呼んでいた、クラゲがつながっている状態のような生き物がたくさんいて、それを途中でちぎれないように竹ですくう遊びが面白かったです。水中メガネがなくても目を開けて泳げるほど海水がきれいでしたが、養殖が盛んになるにつれて、海が汚れていきました。
 当時は、浜辺で麦すりをした際にかすを海に流していて、かすが浮いて海が黄色くなっていたことを憶えています。また、海に捨てられた麦藁が島のような塊になり、その塊に乗って遊んだ記憶もあります。そのような海での遊びも、海が汚れていってだんだんできなくなりました。『海をきれいにしましょう。』と言われるようになったのは、比較的最近のことです。
 今のギシ(海岸)はコンクリートで固められていますが、昔は岩がゴロゴロしていて、どこからでも海に下りられる状態でした。小学生のころ、浅瀬の岩場に大きなタコがいて捕まえたのですが、吸盤の付いた足を絡めてきたので驚いて投げ捨てた記憶があり、今でもタコの吸盤が苦手です。また、カキやアオサがギシの岩場にたくさん付いていて、カキの殻を割って味噌(みそ)汁に入れて食べたり、生で食べたりしたことを憶えています。そのように、集落前のギシでとれたものを食べていましたが、当時、便所のくみ取りを自分たちでしていて、畑に肥料として蒔(ま)いた後、入れ物をギシで洗っていました。海水はすぐに入れ替わってきれいになるとはいえ、今考えるとゾッとします。」
 「九島の子どもたちは、本格的に釣りをして楽しむということはなく、竹の枝の先を垂らしてギシにいる小さな魚を釣るぐらいでした。今でも地元の人は、遊びで釣りをすることはほとんどなく、島内で釣りを楽しんでいる人の多くは島外から来ている人だと私(Aさん)は思います。」

 カ 亥の子

 「私(Aさん)が子どものころ、亥の子の日には小学4年生から6年生までの男子が20人以上の集団で集落を回っていて、亥の子に参加する子どもの数は最盛期だったと思います。集団をまとめるのは6年生の頭取でした。
 亥の子の際、子どもたちは自分の家から毛布と布団を持っていって宿に3日間泊まり込みました。広い家を宿として借りていましたが、どの家を宿にするかは頭取とその家族が中心となって決めていたと思います。日が明けて『亥』の日になった3日目の午前0時ころから朝方まで石を搗(つ)いて回りますが、石には8本くらい紐(ひも)をつなぎ、1本の紐を2人で持っていたと思います。石はそれぞれの家の庭で搗きましたが、セメントが張られている庭では石を搗けないので、茣(ご)蓙(ざ)を敷いて、その上で亥の子石をゴロゴロと転がしていたことを憶えています。
 日中は宿から小学校に行きますが、放課後、宿に戻ってみんなと一緒に遊んだり夕食を食べたりするのが楽しかったです。宿での遊びで印象に残っているのは、餅を食べる際の遊びです。餅を搗いてもらって、それを木枠の中で片栗粉にまぶす際に、ダイコ(大根)も一緒にまぶすのですが、見た目ではどれがダイコか分かりません。頭取が『取れ。』と言ったらみんなが一斉に木枠から取り出し、頭取が『かじれ。』と言ったら一斉に食べます。食べたものが餅だったら美味しいのですが、ダイコだった子は『わー、ダイコだ。』と叫んでいたことが懐かしく思い出されます。
 亥の子の際には各家庭にミカンが3個から5個ずつ配られていました。各家庭を回ってお金を集めて、そのお金でミカンを買いに行くのですが、当時九島ではミカンは珍しく、吉田(よしだ)町(現宇和島市)まで船を出してもらって買いに行っていたことを憶えています。その後、ミカンではなく、菓子を配るようになりました。」
 「亥の子の日は宿の家に亥の子の飾り付けをした大きな竹が立っていたので、亥の子に参加しない私(Bさん)も『今日は亥の子の日だ』と思ったことを憶えています。亥の子もそうですが、秋祭りの牛鬼など当時の子どもの行事は、男子のみが参加するものが多かったです。大きな声で歌って石を搗くので、亥の子の集団が大体どの辺りにいるのか分かり、順番に回ってくるのを待っていました。ましてや、我が子が亥の子の集団にいるときは、『寝てなどいられない』と親は待っていたと思います。
私たちの子どもたちが亥の子をしていたころ、宿は集会所になり、学校の授業に差し支えることも考えて宿泊は1日だけになっていました。今では九島で亥の子は行われていません。子どもが少なくなったこともそうですが、世話をする大人も少なくなりました。」

写真2-2-5 九島小学校・幼稚園跡

写真2-2-5 九島小学校・幼稚園跡

令和2年8月撮影