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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 戦前の様子

 ア 水害

 「私(Aさん)が旧制大洲中学校(現愛媛県立大洲高等学校)に入学した昭和18年(1943年)に大きな洪水が起きました。新谷小学校から600mから700mくらい上がった所にある大久保の山が崩れて土砂が大久保川に流れ込み、矢落川に合流する地点まで川の水位は道路よりも高くなりました。そのため道路は川のような状態になり、水位はあと少しで2階に達するくらいまで上昇しました。水が完全に引くまで2、3日かかり、水が引いても井戸水は泥水に浸(つ)かってしまっていたため、すぐには使えませんでした。
 水が引いたときに、タル土と呼ばれる泥をすぐに取り除かなければ、時間が経(た)つとこびりついてしまってなかなか取り除くことができませんでした。当時は、竹ぼうきや小さなスコップを使って泥を掻(か)き出していたので大変でした。舟を出さなければならないほどの水害は昭和18年(1943年)だけでしたが、終戦前後の数年間は何度も洪水に遭ったので、『水が引くときにタル土を除(の)けとかんと、後ではようやらん』ということがよく分かるようになっていました。そのころは、戦争を遂行するため、国の方針で無計画に山林の木を伐採していました。そのために山林の保水力が失われ、洪水も多かったのだと思っています。洪水が多いことには随分苦労しましたが、当時はそれを仕方のないことと受け入れていました。」
 「昭和18年(1943年)の水害が起こったのは、私(Bさん)が小学生のときでした。学校の奥の山が崩れたために大久保川が土砂で埋まってしまい、十夜ヶ橋のお堂にあるお大師さんの石像も斜めに傾いて、流される寸前の状態でした。川からあふれた水は2階の高さにまで迫っており、家の中まで浸水するということが分かると、すぐに畳から家財道具まで全て2階へ運び、小学生だった私も畳を2階へ担ぎ上げました。そのときは一生懸命だったので特に難儀なこととは思いませんでしたが、『メリメリ』と家がきしむ音がして、とても気持ち悪かったことを憶えています。幸い小学校は浸水していなかったため、小学校の会議室でおにぎりなどを炊き、それを消防団の人たちが配っていました。少し水が引いてくると、消防団の人たちが舟で各戸におにぎりを配って回っていたので、私は2階から籠を竹竿(たけざお)にぶら下げ、舟からおにぎりをその籠に入れてもらいました。おにぎりは1人1個ずつ配られましたが、みんな喜んで『御馳走(ごちそう)になります。』と言って受け取っていたことを憶えています。
 3日目くらいに水は引きましたが、泥やそれ以外にもさまざまなものが残っていて、泥は小学生だった私の腰より上の高さまで溜(た)まっていました。当時はトラックなどもなかったので、内子の馬場組合の組合長をしていた親戚にお願いして、馬車を10台くらい用意してもらうことができました。片付けのときには、鍬(くわ)やほうきを持ってきてはバケツなどに泥を入れて馬車に積み込み、どんどん運び出しましたが、泥の運び出しには1週間くらいかかりました。
 それから2、3年続けて大水になり、犠牲になった方もいました。昭和20年(1945年)9月の水害では、私の同級生の御家族を含め5、6人の方が流されて亡くなったと記憶しています。それまでは堤防がありませんでしたが、洪水により大きな被害が出たため、現在の堤防が建設されることになりました。」

 イ 学童疎開 

 『銀河鉄道999』などの作品で知られる漫画家の松本零士氏は、戦時中、母の実家がある新谷に疎開していた。小学1年生のときから戦後、父が復員する3年生まで暮らし、当時の思い出を基にした『昆虫国漂流記』などの作品もある(写真1-1-2参照)。当時、新谷では個人的に疎開してきた人だけでなく、大阪からの集団疎開も受け入れていた。

 (ア) 疎開していた女子児童
 
 「私(Fさん)が神戸(こうべ)(兵庫県)で働き始めたころ、職場の先輩がスナックに連れて行ってくれたことがありました。先輩が『こいつも愛媛から来とるんよ。』とスナックのママさんに私を紹介すると、『私も愛媛に縁があるのよ。』と言いました。私が、大洲から来たと自己紹介すると、ママさんが『大洲は知っとるのよ。大洲のどこ。』と聞いてきたので、大洲の新谷から来た、と答えると、『新谷は知っとるのよ。』と言うのです。私は『うまいことを言って、話を合わせたらいかんぞよ。』と言うと、『新谷の田子屋旅館に疎開していたのよ。』と言ったので驚いて、『それはうちの家で、私はそこの息子じゃ。』と言いました。するとママさんは、『あなたこそ、うまいことを言って、話を合わせないで。』と言ったので、お互い大笑いしました。その後もママさんは、『私が疎開していたときに、まだ1歳前後だった子どもをおっぽして(背負って)あげたけど、それはあなただったのですか。』とか『田子屋の少し東にある精米店には私よりもいくつか年長の人がいて、その人が朝、田子屋の前でラッパを吹くと、集団登校を行うために表へ出て、整列しなければならないのがつらかった。』などと、当時を懐かしみながら話していました。
 現在の家を建てるためにそれまでの家を取り壊す2、3か月前(平成2年〔1990年〕)のことだったと思いますが、マイクロバスで10人くらいの御婦人方が来て、『食事はできますか。』と尋ねられたことがありました。予約客しか受け付けていない旨を説明して断っても、『懐かしいな。』と言いながら、あちこちを見回して帰ろうとしないので事情を尋ねると、新谷へ疎開してきたときに住んでいた田子屋を訪ねてきた、ということでした。私は『懐かしいのでしたら、2階も上がって見てください。間取りは戦前と一つも変わっとりませんけん。』と言って、お茶を出してもてなしました。御婦人方は随分長い間思い出話をしながら当時を懐かしんでいました。また、同様に田子屋で疎開生活を送っていた方が個人で訪ねてきたこともありました。平和な世の中になり、ある程度の年代になると、疎開していた当時のことがとても懐かしくなったのだと思います。」

 (イ) 疎開していた男子児童

 「新谷に集団疎開してきた人たちは30人くらいいたと思いますが、この辺りには大人数が宿泊できる旅館などはなかったので、多くの人は善安寺で生活し、少数の女の子が田子屋で生活していました。また、集団疎開してきた人たちのほかにも、松本零士さんのように、親戚などを頼って疎開してきた人もいました。松本零士さんは、近所の子どもたちとつるんで(一緒に)遊んでいたことを憶えています。さらに、一軒家を借りて子どもたち数人で生活していた人もいて、私(Bさん)の家の食堂で子どもたちの食事の世話をするなど、ちょっとした生活管理をしていました。当時、都会から新谷を訪れる子どもがほとんどいなかったので、私たちは疎開してきた子どもたちに注目していました。今思えば、偉そうな気持ちで話したわけではなかったのでしょうが、大阪の方から疎開してきた子が大阪弁で話し掛けてきたとき、何か馬鹿にされたように感じていました。
 登校時には田子屋の前に整列し、現在の集団登校のようなことをしていましたが、当時は先頭の人が号令の代わりにラッパを吹くと、私たちは軍隊の行進のように手を振り、歩調をそろえて歩かなければなりませんでした。校門の手前まで来ると、左を向いて手を合わせ和霊さん(大有霊神社)を拝みました。校門を入ると、奉安殿前に整列し最敬礼をしていました。そのころは兵隊の訓練体験だということで、登校時から厳しく指導されていました。学校へ行っても勉強どころではなく、運動場のイモ(サツマイモ)畑を耕したり、防空壕(ごう)を掘ったりといった作業ばかりでした。それらの作業は班に分かれて行っていましたが、疎開してきた児童も混ざって班分けされていたため、疎開してきた児童だけで固まってはいられませんでした。また、今とは違って娯楽に乏しい時代だったので、遊びといえば相撲をとったり、騎馬戦をしたり、廊下で『パッチン』をしたりするくらいのものでしたが、地元の子どもも疎開してきた子どもも分け隔てなく一緒になって遊んでいました。そのような付き合いをしているうちに、疎開してきた子どもが新谷弁をまねるようなこともあったので、新谷に溶け込んでくれたような気がして、安心したことを憶えています。
 疎開してきた子どもたちは朗らかな性格な子ばかりで、みんな伸び伸びと生活していました。新谷は都会に比べると、空襲の心配が少なく食べ物も入手しやすかったうえ、新谷藩の時代からの伝統か、優しい人柄の人が多かったので、疎開してきた人たちも過ごしやすかったのではないかと思います。田子屋で生活していた子どもたちも、善安寺で生活していた子どもたちも、1年半くらい疎開生活を送って終戦を迎え、それぞれの自宅へ帰って行きました。」

(2) 町並みと各店舗

 ア 鮮魚店から仕出し屋へ

 (ア) アイスキャンデー

 「私(Aさん)の親は鮮魚店を営んでいて、仕出しのようなこともしていました。私は旧制中学校を卒業してからは家の手伝いをしていました。そのときにはすでに父は亡くなっており、年の離れた兄が店を仕切っていました。兄は商売上手だったので、どこかで聞いてきて、売れると思ったものはすぐに取り入れていました。私が20歳ころ(昭和25年〔1950年〕ころ)には、アイスキャンデーの製造・販売を行ったところ、うまくいきました。私が自転車でチンチンと鳴らしながら、古町やこの町内でアイスキャンデーの行商をしていると、お菓子がない時代だったのですぐに売り切れていたことを憶えています。アイスキャンデーの甘味料には、砂糖の代わりにサッカリンという人工甘味料を使っていて、水に少量のサッカリンを加えると何百個ものアイスキャンデーを作ることができたので、とても儲(もう)かっていました。そのころ、兄と一緒に大阪までサッカリンの仕入れに行ったことがありました。当時は内山線も開通していなかったので五郎駅から長浜経由で松山(まつやま)へ行き、そこで乗り換えて高松(たかまつ)(香川県)に着くと、高松からは宇高連絡船に乗って本州へ渡っていました。そのころは新幹線もなかったので、大阪まで行くのに長時間かかっていました。」

 (イ) テレビ

 「兄は昭和30年代の前半ころ、新谷では最初にテレビを店に設置しました。NHK松山放送局がテレビ放送を開始したのが昭和32年(1957年)で、高山にテレビ中継所が設置されたのが昭和38年(1963年)と聞いているので、高山に中継所が設置される以前の話です。店は当時としては結構広く、奥がちょっとした食堂のような作りになっていて、そこにテレビを設置するとたくさんのお客さんがテレビを見に来ていました。相撲放送があるときなどはテレビを見に来たお客さんが店からあふれて、向かいの郵便局まで並んでいたため、道を通ることができないほどだったことを私(Aさん)は憶えています。もっとも当時は車の往来も少なかったので、さほど邪魔にはなりませんでした。」

 (ウ) オートバイ

 「兄は新し物好きで、オートバイが出れば購入し、国民車と呼ばれた軽自動車が出るとそれも購入していました。新谷で初めての物は、全てといってよいほど買っていました。私(Aさん)は結婚前に兄のオートバイを借りて河辺(現大洲市)に住んでいた婚約者の所へ再々通っていました。後に青野自転車店でオートバイを購入し、その直後にオートバイで足摺岬へ行ったことを憶えています。また、竹田(たけだ)(大分県)へオートバイで行こうとしたこともありましたが、その手前で台風に遭ったため、行き着くことができずに引き返したことを憶えています。」

 (エ) 新谷センター

 「兄は、時代が変わるとすぐに店を改装していました。大手の店が鮮魚を取り扱うようになると、どうしても押されてしまいます。そこで、店名を『新谷センター』と改め、形態をスーパーマーケットに改装すると、店はそれまでより一層繁盛していたことを私(Aさん)は憶えています(図表1-1-3の㋐参照)。新谷センターの当時を知る人は、今でも店名の『新谷』を略して『センターで買ったんよ。』と言ってくれますが、まさしく新谷のセンター(中心)という存在だったと思います。」

 (オ) 結婚と独立

 「昭和31年(1956年)、26歳のときに結婚し、それから1年くらいは兄と同居していました。その後、近所の空き家を購入し、兄から独立して魚の行商を始めました(図表1-1-3の㋑参照)。行商のときには、板で作った重たい箱を担ぎ、昼から夕方まで町を回っていたことを私(Aさん)は憶えています。
 そのころはレジなどもなく、対面での商売が当たり前でした。直(じか)にお客さんと顔を合わせ、手渡しでの商売をしていました。真面目に商売を行っていると相手からも信頼され、次に注文を頼んでもらうことができました。
 商売に対する真面目な姿勢が認められたからか、お得意さんが仕出しをやってみないかと言ってくれたので、昭和40年(1965年)ころ仕出しを始めました。昔は、節季や慶弔事のときの料理は自分の家で作っていましたが、そのころから順々と料理屋さんや仕出し屋さんに頼むようになっていきました。昔は、大安の日などに行事ごとを行っていましたが、徐々に日曜日や休日に行うようになりました。毎日冠婚葬祭があるわけではないので、仕出しを始めた当初は、それまでと同様に魚の行商も行っていました。ときどき、器を使って出す仕出しも行っていましたが、すぐにへぎ折り(木を薄く剥いだ板で作った折り箱)に入れて出すことがほとんどになりました。そのころは今のようなプラスチック製のパックはまだありませんでした。仕出しを始めたときに車を購入し、車で配達するようになりました。そのころは国民車と呼ばれた軽自動車が普及し始めたころで、私が車を購入したのは、新谷では比較的早い方でした。菅田には兄の仕事を手伝っていたころから行商に行っていて、独立してからも行商に行っていました。そのため、菅田にはお得意さんが大勢いて、仕出しも菅田のお客さんからの注文が多かったことを憶えています。」

 (カ) 仕入れ

 「私(Aさん)の店では、魚を八幡浜から仕入れていました。まだ車を買う前の昭和30年代、八幡浜までの行き帰りには汽車を利用していました。そのころ、内子の業者の方が車で仕入れに来ていたので、私が仕入れた魚も一緒に運んでもらっていました。後に車を買ってからは私も車で仕入れに行くようになりました。
 新谷の町中は小売店ばかりで、卸業者はあまりなかったと思います。折りなどは東大洲や八幡浜の業者が注文を取りに来ていました。うどんは若宮のうどん店から仕入れていました。野菜は新谷の河野青果店、岡本青果店から仕入れていて、一時期は堀川青果店などからも仕入れていました(図表1-1-3の㋒、㋓、㋔参照)。」

 イ 老舗旅館から仕出し屋へ

 (ア) 名前の由来

 「私(Fさん)は、『田子屋』という名前の由来は、残念ながら聞いていませんが、先祖のお墓には『田郷樓』と刻まれていました(図表1-1-3の㋕参照)。しかし、私が幼いころから玄関の間に掛かっていた掛軸には、『新谷富士(神南山)田子の裏から』と書かれています。
 私が通っていた新谷小学校の古い校舎は、明治43年(1910年)に建てられたものです。母は、校舎を建築した大工さんが、小学校の建設後すぐに、現在のもう一つ前の家を建てたと言っていましたが、そのときの屋根瓦にも『田子屋』の文字がありました。字はどうか知りませんが、もちろんその前から店はあったそうです。」

 (イ) 家業を継ぐ

 「私(Fさん)は、大洲高等学校を卒業してから6年間、店とは関わりのない神戸の会社に勤めていました。その後、家業を継ぐことになり、調理師学校を経て料理店で修行した後、昭和44年(1969年)から田子屋で仕事を始めました。そのころの田子屋は旅館、料理、仕出しをしていました。昭和50年(1975年)ころまでお客さんの中心は新谷の町の人で、当時、地元には大広間を用意できる会場がほかになかったので、店の2階の大広間を結婚式や宴会などでよく利用してもらっていました。そのころの大広間は畳部屋で、食事には一の膳、二の膳などが並ぶ形式の料理を提供していました。神戸から帰ってきたとき、いずれ結婚式などの大勢のお客さんが集まるときにはテーブルと椅子に替わっていくと思いました。というのは、神戸で働いていたとき、友達や同僚の結婚式に出席すると、どの会場でもテーブルと椅子だったからです。ただ、そのときには古い家を建て替えるだけの余裕がなく、平成3年(1991年)に古い家を現在の家に建て替えたときにテーブルと椅子に替え、そのときに旅館をやめました。」

 (ウ) 暖房、夏の虫よけ

 「私(Fさん)が子どものとき、冬の宴会では暖房器具として、2人に一つずつ火鉢を提供していました。火を起こした炭を火鉢に入れて2階まで持って上がり、お客さんの所に置いて回るお手伝いをしていました。当時、リフトなどはなかったので、火鉢を2階に持って上がるのが大変だったことを憶えています。家業を継ぐため帰ってきたとき(昭和44年〔1969年〕)にも、まだ火鉢を使っていましたが、その後、大きな石油ストーブを使うようになりました。さらに、建物を建て替えた後はエアコンを使うようになり、石油ストーブは集会所で使ってもらうことにしました。  
 夏の宴会では、冷房設備がないため窓を全開にしていると、部屋に虫が入ってきていました。料理の上に虫が落ちてはいけないので、虫が寄ってこないように電球の笠の周りを赤い布で覆ったり、ハエ取り紙を釣ったりしていました。」

 (エ) 仕出し

 「以前は『池貫』と呼ばれる豪邸の隣に新谷公民館があり、そこで結婚式の披露宴を行うときには、私(Fさん)の店から仕出し料理を運んでいました(図表1-1-3の㋖参照)。最初はリヤカーで料理を運んでいて、新谷駅より南へもリヤカーで運んでいましたが、車を購入してからは配達範囲が随分広がり、出海や河辺など、今の大洲市全域へ配達することができるようになりました。お葬式などがあると料理を持ち帰るため、持ち帰った先で『この料理は美味(おい)しい』ということになると、そこから料理の注文が入るようになります。遠い所からも注文が入るようになり、料理の保冷には車に最初から備え付けられている冷房では不十分であるため、専用の冷蔵車を購入して配達しています。注文をいただくのは有り難いのですが、配達に時間がかかってしまうのが悩みの種です。」

 (オ) 新しい商売方法

 「家業を継いでしばらくすると、農協会館が婚礼事業を始めました。披露宴で料理を提供する業者には、当初は大洲市内の2軒の仕出し業者が決まっていましたが、何とか話を付けて私(Fさん)も加えてもらうことができました。昭和50年代になると、農協会館で年間200組くらいの披露宴が行われるようになっていました。5月の連休期間中に11組の披露宴が行われたことがあり、その間には3組の披露宴が行われた日もありました。今は披露宴の出席人数が少ない傾向にありますが、当時の披露宴は100人から200人が出席して行われることも珍しくありませんでした。披露宴の仕事のときには、店で料理をお皿に盛り付け、それをもろ蓋に入れて農協会館へ運び、会場で並べなければならなかったので、てんてこ舞いでした。また、当時の農協会館には厨房(ちゅうぼう)がなかったので、お吸い物や茶碗(ちゃわん)蒸しなどは店で作っておいたものを発泡スチロール箱に入れて運んでいました。披露宴の予定は2か月くらい前から分かっていたので、3軒の業者で『この披露宴は新谷の人だから任せてほしい。』とか『他地区の人ではあるけれど、手が空いているので取らせてほしい。』などと相談して割り当てを決めていました。また、献立についても3軒で同じような料理になるように話し合って決めていましたが、私も他の2軒の業者に負けないように勉強もしていました。農協がルミエール会館を建設して葬祭事業を始めると、披露宴のときと同様に仕事を入れてもらうことができました。そのように、農協で行われる披露宴や葬儀後の会食で料理を提供することにより、少しでも売り上げの増加につなげることができたので、我ながらうまく機転を働かせることができたと思います。」

 (カ) やめた出店

 「農協の婚礼での仕事を引き受けたためにやめてしまったのが、新谷の『紅葉山』と呼ばれる稲荷山公園の出店(でみせ)です(写真1-1-7参照)。少なくとも店に記録が残っている明治時代から昭和55年(1980年)ころまで毎年、紅葉の季節になると1か月間、稲荷山公園で店を出していました。そのころ、お客さんはみんな汽車で来ていて、大洲界隈だけでなく八幡浜からも多くのお客さんが来ていました。大洲市内の紅葉の名所である白滝公園と比べると、紅葉山は傾斜が緩やかで、少しくらい酔って散策していても安全であるため、お酒を飲みながら散策したいという人は紅葉山に来ていました。出店では、うどんやおでん、お酒のほか、店で作った弁当を販売していました。稲荷山公園には出店が1軒しかなかったので、とても売れ行きが良かったことを憶えています。当時のお客さんは、紅葉山で1日ゆったりと過ごし、夕方になると下りてきて汽車で帰っていましたが、今のお客さんは、車で上がってひと眺めして、『まだ盛りではないので、白滝に行ってみるか。』と言ってすぐに山を下りてしまうため、今は出店をしても商売にはなりません。
 婚礼は秋に行われることが多いため、農協の婚礼の仕事を引き受けてからは、紅葉山の出店の時期には人出が足りなくなりました。そのため、どちらかをやめなければならなくなり、昭和55年(1980年)ころに出店をやめたと思います。私(Fさん)が出店をやめた後は徳森の業者に代わり、その後、商工会が出店を行うようになりました。出店をやめたとき、父や母から、『昔から田子屋の紅葉山、と言われていたのに、なぜやめるのか。』と随分叱られたことを憶えています。」

 (キ) 仕入れ

 「家業を継いだ当初は、朝6時ころの1番列車で八幡浜まで魚を仕入れに行っていました。長浜では一本釣りなどの沿岸漁業が主体で魚種がそれほど多くなかったのに対し、八幡浜はトロール漁業の基地として四国有数の水揚げ量を誇り、魚種も豊富だったからです。汽車の最後尾には、客車とは異なる貨物車のような車両が1両付けられており、私(Fさん)はその車両に乗せられました。魚が生臭いため、魚の買い出しの客は一般の客とは別の車両に分けられたようでした。急いで使わなければならない魚は、ブリキで覆ったような四角い箱に入れ、それを肩から掛けて汽車に乗り、9時から10時ころには持ち帰っていました。それ以外の魚は、新谷を経由して内子、小田(おだ)(現内子町)へ行くトラックで運んでもらい、12時ころには届いていました。車を購入し、車で仕入れに行くようになってから最初のころは、大洲と八幡浜の間の夜昼峠はまだトンネル工事中でした。そのときは曲がりくねった道を通って峠を越えなければならなかったので、トンネルが完成したとき(昭和46年〔1971年〕)は、安心したことを憶えています。
 家業を継いだころ、新谷や大洲にはスーパーマーケットなどはなく、冷凍食品なども販売されていませんでした。車を購入後、松山市千舟町のダイエー(昭和45年〔1970年〕開店)で冷凍エビが販売されているという話を聞き、父を連れて買いに行き、1箱買って帰ったこともありました。しかし、家には氷を入れて冷やす冷蔵庫しかなかったので、買ってきた冷凍エビ1箱を全て使い切るために、いろいろと工夫していました。
 野菜などは新谷の岡本青果店や河野青果店が手広く商売をされていたので、そこから仕入れていました。他の食材は大洲の方から来ていた卸業者などからも仕入れていました。今では松山や今治(いまばり)をはじめとして、県内各地から卸業者が来ています。
 父の代まではそれほど多くの食器を購入しておらず、長い間大切に使っていたようです。刺身皿は1セットが20皿のものを使っていて、40皿必要になったときには別の種類の刺身皿も使っていました。汁椀(しるわん)は食器用洗剤で洗った後で拭き、もう1回から拭きして保管していました。私の代に婚礼の仕事を始めるようになってからは、一度にたくさんのお皿が必要となったため、100皿から200皿くらい購入しました。料理屋さんでは昔から焼き物の食器が多く使用されています。以前は九谷焼の食器も使用されていましたが、昔も今も多く使われているのが有田焼の食器です。私の代に有田焼の食器をたくさん購入し、仕入れ先も昔とは随分変わってきています。砥部焼の食器は重たいので、一品料理を出すような店では使われていましたが、会席料理など一度に大人数の料理を出すような店では使われていませんでした。」

 ウ 三代続く理容店

 「私(Gさん)の店は、祖父が大正3年(1914年)に開業してから百年余りになります。祖父が日露戦争で負傷し、力仕事などができなくなったため、理容店を始めたようです(図表1-1-3の㋗参照)。父は、戦争中には憲兵を務めていて、戦後に理容店を継いだそうです。私は高校卒業後すぐに修業に出て、23歳のときに帰ってきて理容店を継いだので、それから48年くらいになります(写真1-1-9参照)。
 修行から帰ってきたころはお客さんも多く忙しかったのですが、平成8年(1996年)ころからお客さんは右肩下がりで、特に14、15年前からその傾向は顕著になっています。私は昭和53年(1978年)に結婚しましたが、そのころは祭りや正月が近づくと、お客さんが店に詰め掛けていて、御飯を食べる間もないほど忙しかったことを憶えています。ところが、最近、若い同業者の人に話を聞くと、年の暮れが近づいても忙しいと感じることがなく、12月31日はお休みにしているそうで、時代の移り変わりを感じます。まさに昭和は遠くなりにけりです。
 当時、土日、祝日が忙しかったのですが、今はかえって土日の方が暇なくらいで、不思議な気がします。お客さんもかつては若い人、特に児童・生徒などが多かったのですが、今は少子化で少なくなり、60歳くらいから80歳くらいの人が多いようです。
 田舎ということもあり、流行の髪型はさほど気にしたことはありませんでしたが、私が修行から帰ってきたころから、髪を緑色や紫色などに染色している若者はいました。また、写真を持ってきて、『このような髪形にしてほしい。』と言ってくるお客さんもいました。最近はほとんど見掛けなくなりましたが、コテを使用するパンチパーマが一世を風靡(ふうび)した時期がありました。パンチパーマには1人当たり2時間から3時間かかり、中には4時間くらいかかる人もいて、非常に忙しかったことを憶えています。」
 「私(Hさん)が嫁いできたころ、年の暮れには多くのお客さんが来ていて座る間もないくらい忙しく、NHKの紅白歌合戦などは何年も見たことがありませんでした。私は農家の生まれで、夕食後には親子団らんの時間があったような家庭に育ったため、あまりの忙しさに大変驚いたことを憶えています。子どもが大きくなってからは、店の手伝いをさせていました。店の営業時間が終了した後、窓の掃除や床のモップ掛け、椅子拭き、鏡拭きなどを全て手伝わせました。12月31日は、それらの仕事が全て終わってから床のワックスがけを行っていたので、その後でお正月料理を作っていると寝る時間がほとんどありませんでした。」

 エ 食堂

 「私(Bさん)は新制中学校を卒業してすぐに、家業の食堂の仕事に就きました(図表1-1-3の㋘参照)。先祖は新谷藩の殿様に付き従って新谷へ移ってきて、私で18代目になります。新谷の町で江戸時代からの屋号が残っているのは、私の家の松葉屋と、かなますや、井筒屋くらいです。
 新谷の奥には恋木、矢落川沿いに喜多山、柳沢、その奥には田処など、山間地域の集落がたくさんあります。新谷駅から1.2kmしか離れておらず、大きな集落もないのに喜多山駅が設置されているのは、それらの山で生産された薪(まき)や炭などを貨車で出荷するためでした。今とは違い、山から繭や薪を歩いて担ってきていました。また、普段とは違う特別な買い物に来る方もいました。そのような方々は、遠路を歩いて少々難儀であっても、私の食堂でうどんを食べ、お酒の1杯でも飲むと御馳走を食べたように喜んで帰っていたような時代で、食堂もなかなかにぎわっていたことを憶えています。メニューは、手打ちうどんのほかには、串ものや煮魚、焼き魚などのちょっとした料理がありました。そのころ、他所(よそ)へ出掛けて行くときには弁当を持参することが一般的で、山間地域の堅実なお客さんの中には、おにぎりを持参しておかずだけ注文したり、うどんを1杯注文してそれをおかずにしたりする人もいました。
 朝は4時に起きてうどんを打ち、それから夜10時ころまで店で仕事をしていました。平成10年(1998年)に、体力的に店を続けることが難しくなったこともあり、子どもが医院を開業するタイミングに合わせて店をやめましたが、それまでは飲食業全体の商売が下火になったという感じはありませんでした(写真1-1-10参照)。」

 オ タクシー

 「新谷タクシーは義父が昭和34年(1959年)に創業し、昭和60年(1985年)ころから私(Eさん)たち夫婦が経営するようになりました(図表1-1-3の㋙、写真1-1-11参照)。私はもともと新谷出身で、新谷中学校を卒業後は大阪へ出て工場に勤めたり、こちらへ戻ってきてからはさまざまな運送の仕事に従事したりしていました。短い間ですが、大洲市三の丸の家具店に勤めていたとき、大阪に住んでいたことがあるので地理が分かるだろうという理由で、大阪へ家具を運んだことがありました。当時は、結婚話が決まると『嫁入り道具』といって家具一式を嫁ぎ先へ持参する習慣が残っていて、私は集団就職で大阪へ出た人の嫁入り道具を運びました。
 義父はタクシー会社のほかにも事業を行っていたこともあり、私が42歳のとき、妻にタクシー事業を任せたため、私たち夫婦でタクシー会社を経営することになりました。タクシー業に従事するようになった昭和60年(1985年)ころはお客さんが多く、とても忙しかったことを憶えています。人口も今のように減少しておらず、柳沢や喜多山方面へのバスも運行していました。新谷の町には久保医院や歯医者さんもあったので、柳沢など山の方の人達は、行きは朝一番のバスを利用したり市内へ通勤する人の車に乗せてもらったりして、買い物や通院をしていました(図表1-1-3の㋚、㋛参照)。帰りはバスの便が少ない、買い物をして荷物があるという理由で、よくタクシーを利用していました。また、町中には冨岡さんの店、田子屋さん、松葉屋さんと3軒の料理屋さんがあったので、お酒を飲んで帰る人もいて、夜間もタクシーの利用客がいました。
 当時、多くの家庭に自家用車はありましたが、まだ一家に1台という時代でした。家族の誰かが使用していると他の人は使用できなかったため、そういう家庭の方がタクシーを利用することもありました。タクシーの利用客が減少し仕事が忙しくなくなったのは、十数年前に大規模小売店への規制が緩和されたころからだったと思います。それまでは大規模小売店の出店には規制があったため、大洲市内のスーパーマーケットはフジとAコープしかありませんでした。そのため、家賃を支払う必要がないため夫婦で1日当たり2千円から3千円の稼ぎがあればやっていけるというような店や、夫が外で働き妻が内職がてら商売を行っているような店であっても何とか経営が成り立っていました。ところが、規制緩和によってそのような店は経営を続けることができなくなり、やめてしまったのです。そのようなことがタクシーの利用客の減少にも影響していると思います。
 現在75歳なのでタクシー会社を継いでから三十年余りになります。今では人口が減少する一方で自家用車を3、4台所有する家庭が増加し、タクシーを利用する人は少なくなりました。また、車を運転することができないお年寄りは、介護施設への行き帰りにタクシーではなく施設の送迎バスや介護タクシーを利用することも増えているようです。」

 カ 畳店

 「私(Cさん)は、昭和37年(1962年)に畳店を営んでいた夫と結婚しました。畳店は義理の祖父が始めたと聞いていて、夫は3代目に当たります(図表1-1-3の㋜参照)。70歳のときに病気をして、平成15年(2003年)ころに店をやめましたが、店の方は、高齢になってからはぼつぼつやっているような感じでした。
 畳店が比較的忙しいのは春と秋で、夫はよく、『夏と冬は仕事がない。』と言っていました。昔はお祭りが盛大に行われていて、お祭りの時期が近づくと、どの家でも障子を張り替えたり、畳を替えたりしてお客さんを迎える準備をしていたので、畳店にも注文がたくさんありました。結婚したころは義父もまだ健在でしたが、普段は畑仕事に出ていて、夫だけで間に合うくらいでした。町には3軒の畳店があり、私の店から少し東へ行った所には義理の叔父が営んでいる畳店があります(図表1-1-3の㋝参照)。叔父は一人前になると、のれん分けのような形ですぐに独立したそうです。兄弟の畳店が町中にありましたが、当時は畳店にも需要があり、それぞれの店にお得意さんがいたため、お客さんを取り合うようなことはなかったと思います。
 私は結婚する前から市の職員として働いており、結婚してからも続けていたので、畳店の仕事のことはあまり知りません。それでも稲刈りの季節の休日には、畳床(たたみどこ)に用いる藁(わら)を買ったり、田処や柳沢など遠方へ納品したりするときには、トラックへの積み込みを手伝っていました。また、私が嫁いできたときにはすでに畳専用のミシンが導入されていました。藁を締め上げて畳床を作る大きな機械の横に、畳の縁(へり)を縫うためのミシンが1台ありました。その後、新しい機械が出たときに1台購入したのか、2台のミシンが並んでいました。」

 キ 町中のその他の商店

 「私(Gさん)の家には、昭和32年(1957年)に撮影した店の前の通りの写真が残っています。右端に写っているのが旧豫州銀行の外壁で、現在は新谷タクシーと篠崎洋服店が入っています(図表1-1-3の㋙、㋞参照)。新谷タクシーは昭和34年(1959年)に創業したので、写真のころはパチンコ店で、道路上の一番手前の横型看板の右端に『パチンコ』の文字が見えます。左端に見える平野商店では主に酒類・醬油(しょうゆ)を販売していて、写真のころはパンやお菓子も販売していました(図表1-1-3の㋟参照)。その奥の右端には鶏肉などを解体して販売していた精肉店の看板があります(図表1-1-3の㋠参照)。中央には斜線が入った大本理容店のゼブラの看板が、左端にはブリキ店の看板が見えます。また、お子さんを連れて歩いている女性の肩越しには、松葉屋食堂の縦型看板の『うどん』の文字が見えます。通りの反対側に『アイスクリーム』と書かれた縦型看板も、道路上に見える『氷』の文字の看板も冨岡さんの鮮魚店のもので、その店は後に新谷センターというスーパーマーケットに替わりました。もう一つ奥に『新谷劇場』と書かれた看板が見えますが、新谷劇場は商店街の通り沿いではなく、橋のたもとの、現在は駐車場になっている所にありました。商店街の中心は札の辻の前後(東西)で、その辺りは看板が最も多く、大変にぎわっていました。」

写真1-1-2 松本零士氏が疎開していた地域の風景

写真1-1-2 松本零士氏が疎開していた地域の風景

『昆虫国漂流記』の掲載図と同じ構図の写真  令和2年9月撮影

図表1-1-3 昭和40年代の新谷の町並み

図表1-1-3 昭和40年代の新谷の町並み

地域の方々からの聞き取りにより作成。民家等表示していないものがある。

写真1-1-7 稲荷山公園(紅葉山)

写真1-1-7 稲荷山公園(紅葉山)

田子屋は写真右端のステージ付近に出店していた。  令和2年11月撮影

写真1-1-9 大本理容店

写真1-1-9 大本理容店

令和2年12月撮影

写真1-1-10 松葉屋

写真1-1-10 松葉屋

松葉屋食堂はなくなったがビル名として松葉屋は残っている。  令和2年12月撮影

写真1-1-11 新谷タクシー 

写真1-1-11 新谷タクシー 

旧豫州銀行の建物にて篠崎洋服店とともに営業  令和2年7月撮影