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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 白滝の町並み

 旧長浜(ながはま)町は県の中西部に位置し、東は旧双海(ふたみ)町(現伊予(いよ)市)、南は大洲(おおず)市(旧市域)、八幡浜(やわたはま)市(旧市域)、南西は旧保内(ほない)町(現八幡浜市)に接し、北は瀬戸内海の伊予灘に臨んでいる。
 明治22年(1889年)、町村制の施行により、長浜町、喜多灘(きたなだ)村、櫛生(くしう)村、出海(いずみ)村、豊茂(とよしげ)村、相生(あいおい)村、柴(しば)村、滝川(たきがわ)村の1町7か村が成立した。大正11年(1922年)には柴村と滝川村が合併し白滝(しらたき)村に、相生村と豊茂村が合併し大和(やまと)村となり、昭和30年(1955年)1月に1町5村が合併し、長浜町となった。
 長浜町は肱川の河口に位置する町であり、近世以来肱川の水運と瀬戸内海の海運との接点であった港町長浜を中心とした町である。長浜は近世初頭まで肱川河口部には村もなく人家もほとんどないような状態であった。しかし、元和3年(1617年)に加藤貞泰が大洲藩主として入邦すると、長浜を大洲藩の外港として建設するために船奉行、船手組を置き、船数の増加を図った。これにより長浜は港町として発展することになった。
 藩政時代に、長浜に次いで家数、船数が多かったのが須合田である。須合田は長浜から4㎞ほど上流に位置し、潮汐の遡る最終の港として肱川沿岸各地域からの物資の集積が盛んであった。そのため、大洲藩の重要な物資の集積港となり、藩の代官屋敷や米倉が置かれた。須合田の町の東側には加屋の街村がある。周辺の住民は加屋の町と呼び、ここに来れば何でもそろったという。明治時代から大正時代にかけては、製糸会社が3社あり、従業員も数百人いた。この須合田と加屋を中心とする地域に白滝村があった。白滝の名称は加屋の町を流れる滝川の白滝瀑布(ばくふ)に由来する。白滝瀑布は景勝地としても名高く、白滝公園が観光地として成立した。昭和25年(1950年)には愛媛新聞が募った愛媛八勝十二景の一つとして県民の投票で選出されている。
 本節では、終戦前後から昭和40年代を中心とする伊予白滝駅周辺の町並みの様子や、地域でのくらしについて、Aさん(昭和7年生まれ)、Bさん(昭和15年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。