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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 大洲を支えた繭と生糸

(1) 養蚕のムラ

 ア 地域の養蚕を見続けて

 (ア) 多かった養蚕農家

 「私(Aさん)の家は代々農家で、養蚕も行っていました。私は昭和30年(1955年)ころから本格的に養蚕を行うようになり、昭和33年(1958年)からは三善村農協に勤務するようになりましたが、その後も養蚕を続けていました。多田地区(集落)全体で20戸くらいありますが、当時、蚕を飼育していなかったのは3、4戸で、そのほかの家では大なり小なり養蚕を行っていました。私が農協に勤務するようになったころ、三善地区全体でも恐らく7割くらいの家が養蚕に関係していたと思います。多田地区では7、8割の家が、東宇山地区では5割くらいの家が養蚕農家で、春賀地区では酪農などと兼業を行っている家もありましたが、それでも6、7割の家は養蚕農家だったと思います。その当時、養蚕組合が養蚕農家から養蚕資材の注文を取り、それを農協が養蚕農家に渡していました。注文を受けた養蚕資材には蚕座紙(蚕を飼育する籠に敷く黄土色の紙)や蚕網、消毒に使用するホルマリンなどがありました。」

 (イ) 稚蚕の飼育

 「ずっと以前には家で毛蚕(けご)(孵化(ふか)したばかりの蚕の幼虫)から飼育していましたが、後に稚蚕飼育所での共同飼育に変わりました。旧保内(ほない)町の川之石(現八幡浜(やわたはま)市)に愛媛蚕種という種屋さん(蚕種業者)がありますが、一頃は八多喜にも種屋さんがありました。私(Aさん)が小さいころには、その種屋さんで毛蚕を一箱(10g)か、その2分の1、4分の1という単位で購入していました。自宅で孵(ふ)化(か)したばかりの毛蚕を刷毛(はけ)で蚕座紙に落とし、毛蚕の上から1㎝角くらいに刻んだ桑の葉を振り掛けて与えていました。」

 (ウ) 上蔟

 「毛蚕の段階を初齢といい、その後、成長過程で4回脱皮すると『上がり蚕(こ)』になります。上がり蚕とは繭を作る前の成熟した蚕のことで、体が透き通ってきて桑の葉を食べなくなります。そのような蚕を拾ってもろ蓋(木箱)にとり、蔟(まぶし)を上に載せると蚕は蔟の中にはい上がって繭を作ります。これを上蔟といいますが、もろ蓋にとった蚕の量が多すぎると、2頭の蚕が一つの枠に入り大きな繭を作ってしまうこともありました。この繭のことを『玉繭』といい、玉繭からは生糸をスムーズにとることができないため、もろ蓋に蚕を入れすぎないように注意する必要がありました。上蔟のときには広い場所が必要であったため、どの家でも座敷のほかに土間や庭の隅々まで使っていて、寝るときは蚕と蚕の間に布団を敷いて寝ていたことを憶えています。私(Aさん)が養蚕をやめる前のころには段ボール製の回転蔟が出回っていて、私の家でも使用していました。」

 (エ) 繭の集荷

 「私(Aさん)が養蚕を行うようになったころ、三善地区の養蚕農家は収穫した繭を袋に詰めて三善村農協の集荷場へ持ち寄っていました。当時、三善公民館の向かいに農協の米倉庫があり、その前が集荷場となっていて、それは、私が農協に勤務してからも変わりませんでした。集荷した繭は、桝田製糸、今岡製糸、酒六が時間を決めて受け取りに来ていて、そのときには農協の職員も手伝っていました。集荷場では精繭(上繭)とびしょ繭(中で蚕や蛹が死んで糸が汚れている繭)、玉繭などの不良品を分けて集荷していました。当時は繭の表面の毛羽を集める業者もあったので、小さな製糸工場では、精繭ではなく玉繭や毛羽を原料として生糸を生産していたのかもしれません。春賀地区出身の方が経営していた伊予玉製糸では、玉繭を原料として生糸を生産していました。」

 (オ) 製糸工場への繭の出荷

 「私(Aさん)が養蚕を始めた昭和30年(1955年)ころは、まだ製糸業が盛んな時代でした。農協で集荷した繭を、最初のころは桝田製糸と今岡製糸へ出荷していましたが、その後、酒六が加わり、原料の繭の確保をめぐり桝田製糸、今岡製糸と激しい競争を繰り広げるようになりました。どの製糸会社の人たちもお酒などを携えて養蚕農家を訪ねて回り、自分の会社に繭を出荷してくれるよう依頼していました。その結果、三善地区の養蚕農家は桝田製糸、今岡製糸、酒六に出荷するグループに分かれていたことを憶えています。そのころ、どの製糸会社でも優良な繭を確保するために『試繰(しぐり)』を行っていました。試繰というのは、各農家が出荷した繭の中から一定量の繭をサンプルとして抽出し、一定の基準で繰糸の所要時間、糸量、質、不良繭・死に繭の数などを調べることです。試繰に立ち会うために製糸会社へ出掛けた農家の人たちは、製糸会社から食事などを御馳走(ごちそう)になっていたそうです。しかし、その後、製糸業は衰退を続け、市内の製糸工場はなくなってしまいました。」

 (カ) 真綿

 「養蚕農家の中には真綿を出荷する人もいましたが、ほとんどの家では子どもの綿入れ(綿入れ半纏(はんてん))などを作る材料として使用したり、真綿を延ばして機を織ったりしていました。当時はどの家にも糸取り機や機織り機があり、それらの道具を使って綿入れを作るのはおばあさんの仕事となっていたようで、私(Aさん)の家でもおばあさんが綿入れを作っていました。綿入れは使っているとすぐに固くなってしまったので、そのときには綿屋さんに打ち直してもらい、再び使っていたことを憶えています。」

 (キ) 養蚕をやめる

 「私(Aさん)は農協に勤務後も養蚕を続けていました。大洲平野を洪水から守るため、昭和40年(1965年)ころから建設省大洲工事事務所による肱川、矢落川等の堤防工事が計画され、昭和45年(1970年)ころに用地買収が完了したと思います。この工事によって春賀地区にあった私の桑畑は失われましたが、峠地区の方にまだ桑畑が3反(約30a)くらい残っていたので養蚕を続けていました。ところが、しばらくして峠地区の辺りにも新しい堤防が建設されることになり、残っていた桑畑も建設用地に含まれていたため、養蚕をやめることにしました。農協に勤務してからは、出勤する前に朝早くから桑採りを行い、勤務を終えて帰宅後、夜遅くまで桑採りを行うという毎日を送っていましたが、本当によく働いていたと思います。」

 イ 祖父から孫へ受け継がれる養蚕

 かつて大洲地方の主幹産業であった養蚕業は衰退を続け、現在、大洲市内の養蚕農家はわずか2戸となっている。現在も養蚕を続けているBさんとCさんから、子どものころから現在までの養蚕について話を聞いた。

 (ア) 子どものころの養蚕

 「終戦(昭和20年〔1945年〕)ころ、私(Bさん)の家では養蚕を行っていたほか、米やサトイモを作ったり桑畑でソラマメを作ったりしていました。米とソラマメは全て自家用でしたが、サトイモは販売もしていました。この辺りでは3反(約30a)から5反(約50a)、多い人で8反(約80a)くらいの田で米を作っていて、私の家では5反くらいの田で米を作っていたと思います。
 昭和20年代ころ、三善村では養蚕農家が非常に多く、私の家でも子どものころから養蚕によって生計を立てていました。子どものころは母屋を蚕室として利用していて、蚕を飼育する時期になると、座敷に蚕の飼育棚を組み立て、棚に蚕籠を何枚も置いて蚕を飼育していました。春蚕や晩秋蚕の時期は朝晩に冷え込むことがあるので、養蚕用の大きな火鉢を使って部屋を暖めていました。養蚕用の火鉢は木炭を燃料とする蓋付きのもので、そこでかき餅を焼いて食べていたことが今でも懐かしく思い出されます。当時、母屋の座敷が蚕でいっぱいになっていた時期は、納戸という物置用の部屋に布団を敷いて寝ていましたが、納戸には窓がなく暗かったので、そこで寝ることがあまり好きではありませんでした。蚕を飼育している母屋の座敷は冬場でも暖かかったので、飼育棚の間に布団を敷いて寝るようなこともありました。給桑はしんどい仕事で、大人でなければできなかったので、子どものころは桑採りの手伝いをするくらいでした。また、私の家では蚕の盛食期に限って、隣村から若い未婚の女性がお手伝いさんとして来ていました。」

 (イ) 養蚕に取り組み始める

 「私(Bさん)は高校卒業後、松山(まつやま)の合成繊維メーカーに就職しました。そのころ、長兄は県職員となっていて、次兄は分家して農業に従事しており、農業高校に通学していた弟も、将来は農業改良普及員になることを希望していました。父は明治31年(1898年)生まれで、『農は国家の大本なり』という教育を受けて育ったため、息子たちの誰も自分の跡を継がないことは忍び難かったのだと思います。まだ独身だった私は、父の思いを推察し、『子どもが親の跡を継がないことは恥ずかしい。農業でも何とかして生計を立てることができるはずだ。』と言って、実家で父とともに養蚕に取り組むことを決意しました。それは東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)のことですが、そのころ峠地区全体では約20戸のうち8、9戸が養蚕を行っていました。
 そのころから昭和50年(1975年)近くまでは、県道大洲長浜線から西側にあった耕地のほとんどが桑畑で、私の家でもそこに6反(約60a)くらいの桑畑を所有していました。肱川流域は氾濫のたびに肥えた土が運ばれてきたため、桑の生育状態が良いそうです。また、大洲の自然条件も生糸を作るのに適しているため、大洲産の生糸は品質が良いことで知られ、伊勢神宮の式年遷宮の御料糸には主に大洲産の生糸が選ばれていたそうです。」

 (ウ) 稚蚕共同飼育所

 「私(Bさん)が養蚕を始めたころ、かつて春賀縫製があった場所に三善地区の共同飼育所がありました。共同飼育所では2齢までの稚蚕の共同飼育を行い、3齢になった蚕が養蚕農家に配られて、それぞれの家で飼育していました。私(Bさん)は、昭和47年(1972年)ころから7年間くらい、共同飼育所で養蚕農家の責任者を務めていました。そのころは条桑育だけだったので、人工飼料を与えるようになったのはそれよりも後だと思います。当時、三善地区には70戸くらいの養蚕農家がいたと思いますが、その方々から飼育費を集金し、7人くらいの飼育員さんを雇っていました。飼育員さんは、蚕を養蚕農家に分配するまでの1週間くらい、共同飼育所に泊まり込んで蚕の世話をしていて、私もその期間は飼育所で毎日寝泊まりして飼育員さんの手伝いをしていたことを憶えています。また、そのころ共同飼育所には、蚕業技術員の方が駐在していました。八多喜や菅田、内子(うちこ)町などの出身者がいて、私よりも年配の方が多かったと思います。さらに、それぞれの地区に共同飼育を行うための共同桑園があり、その管理も各地区で行っていました。三善地区の共同飼育所は昭和58年(1983年)ころに廃止され、徳森にある農協の人工飼料に対応した施設に集約されました。」

 (エ) 蚕室の改良

 「私(Bさん)が養蚕を始めたころは、座敷で蚕を飼育し、屋外にテントを張って条桑育を行っていましたが、養蚕を始めて3、4年目に母屋の隣に蚕室を建てて蚕を飼育するようになりました。そこでは平飼を行うようになり、棚飼よりも楽に飼育できるようになりました。棚飼のころは、桑の葉を1枚ずつ摘み、竹籠の蚕に満遍なく与えていましたが、平飼となってからは条桑育を行うようになったので、給桑も以前よりは楽になりました。それでも今に比べると苦労が多かったように思います。
 そのころ実施されていた第二次農業構造改善事業の補助事業では、養蚕を行うための施設を整備しようと思っても、個人に対しては助成が行われませんでした。そこで、私が組合長となって峠養蚕農事組合を設立し、組合員が共同利用する施設ということにして、昭和54年(1979年)から56年(1981年)にかけて鉄骨平屋の蚕室を整備しました。この蚕室は現在も使用しています(写真2-1-3参照)。蚕室1室の面積は250㎡ですが、春と秋は暖房機を使用し、暖房機から出た温風がダクトを通って室内を回り、蚕室の内部を暖めています。暖房時には戸を閉め切っているため、室内には隙間風が入ってくるくらいのもので、特に室内の換気を意識しているわけではありません。寒い時期は比較的飼育しやすいのですが、暑い時期の飼育はなかなか大変で、現在、蚕室の戸を開放したり、蚕室の傍(そば)にドングリの木をたくさん植えて、その木陰が蚕室を覆うようにしたりして、蚕室の中が暑くならないように工夫しています。しかし、昨今の夏の暑さは昔よりも厳しくなっているため、今後は蚕室に冷房設備を整備しなければ、夏に蚕を飼育することは難しくなくなりそうだと思っています。」

 (オ) 8回育に取り組む

 「昭和39年(1964年)に養蚕を始めたころは、春蚕、初秋蚕、晩秋蚕の3回育を行っていました。蚕種10gが蚕2万頭に相当するとされていて、春蚕が30g、初秋蚕が15g、晩秋蚕が25gで合計70gの蚕を飼育していました。蚕種10g当たり40kgくらいの繭をとることができたので、そのころは合計280kgくらいの繭をとっていたことになります。その後、補助事業で整備した養蚕施設の建設費などの返済に充てるため、それまでの3回育から8回育に変えて収益を増やすことにしました。全国でも年間8、9回というのが最も多い飼育回数でした。8回育を行っていると、共同飼育所から受け取った稚蚕と、繭を作っている途中の蚕の飼育時期が重なってしまいますが、そのようなときは蚕に病気が出やすいので特に気を付けていました。私(Bさん)が最も多くの蚕を飼育していたのは昭和60年(1985年)ころで、妻とともに1回に100gから120gくらいの蚕を飼育していました。そのころ出荷していた繭の量は、私が約3,300kg、次兄が約6,000kgから6,300kgで、兄弟で合計約10,000kgの繭を出荷していました。現在は年間4回の飼育を行っており、およそ2,500㎏の繭を出荷しています。」

 (カ) 1日の仕事

 「朝は5時から6時ころまで給桑を行った後、7時ころまでに朝食を終えて、7時半から10時半ころまで桑採りを行います。11時半から午後1時ころまで2回目の給桑を行った後で昼食をとり、午後3時半から4時ころまで昼寝をします。午後4時から7時ころまで長い時間をかけて2回目の桑採りを行い、夜7時半から8時半ころまで給桑を行うという生活が毎日続きます。昔は毎日糞(ふん)や食べかすを取り除く作業を行っていましたが、今は、眠が終わったときに網の下に溜(た)まった糞や食べかすを全て取り除く程度です。蚕を中心に考えた生活で、食事は必ず給桑が終わってからとっていました。給桑を1日に4回行う農家が多いと思いますが、私(Bさん)は3回しか給桑を行っていません。蚕は新鮮な桑の葉しか食べないため、桑採りは葉がしおれる日中には行わず、朝と夕方に行っていました。蚕は小さいころでも、1回の給桑で桑の葉を20束(1束が約15㎏)くらいも食べるため、100gの蚕を飼っていたころは、1tトラック1台と軽トラック1台で桑採りに行っていましたが、それは現在も変わっていません。昔の桑採りは桑の葉を1枚ずつ採って籠に入れていましたが、桑の葉を枝付きの状態で採るようになってからは、同じ作業時間で昔の5、6倍の桑の葉を採ることができるようになりました。また、今は充電式の剪定鋏(せんていばさみ)を使って桑採りを行っているので、作業も随分楽になっています。条桑育が普及した理由としては、枝付きの状態の方が葉の鮮度が保たれるということに加えて、桑採りを効率良く行えるということがあります。」

 (キ) 白い繭と黄色い繭

 「今は旧保内町川之石にある愛媛蚕種から農協職員の方が稚蚕を受け取り、10gずつ蚕座紙に包んで、私(Bさん)と次兄の家まで持ってきてくれています。以前は徳森の飼育所まで自分で取りに行っていましたが、今は市内の養蚕農家は私と次兄の2戸だけになったため、農協職員の方がそれぞれの家まで届けてくれていて、とても助かっています。昨年(令和元年〔2019年〕)までは黄色い繭と白い繭をとっていました。黄色い繭を作るのは『大寶黄金』という品種の蚕です。大寶黄金の繭の繊維は通常の繭の繊維よりも倍くらい太いため、絹糸に加工することができませんが、真綿布団の中綿には非常に適しています。しかし、大寶黄金の蚕は成長が不ぞろいになることが多く、採れる繭の量も白い繭より少ないため、あまり飼育したくはありません。昨年も、白い繭であれば種10g当たり45kgくらいとれるところが黄色い繭は30kg余りしかとることができませんでした。大寶黄金の単価が通常の白い繭の単価よりもかなり高ければ話は別ですが、1kg当たり100円くらい高い程度です。それならば、同じ労力を掛けるのであれば、収量の多い白い繭を作りたいと考えるのが普通だと思います。」

 (ク) 上蔟と毛羽取り

 「昭和39年(1964年)ころから、ボール紙製の蔟を回転枠に取り付けた回転蔟を使っていて、私(Bさん)はその蔟のことを『ボール巣』と呼んでいました。一つの回転枠に10枚の蔟を取り付けることが可能になっていました。通常は、蔟の一つの枠の中に1頭の蚕が入り繭を作ります。ときには2頭の蚕が一つの枠の中に入り玉繭ができることもありますが、玉繭はお金になりません。2頭の蚕が一つの枠の中に入ると、それぞれが思い思いに糸を出すため、糸が絡んで使いものにならないのだと思います。通常の絹織物にするための糸は長いものだと1,500mくらいあると思いますが、途中で切れていない糸が高級な糸とされています。
 繭ができると、自宅で繭の表面の毛羽取りを行っていました。最初のころは、養蚕農事組合で購入した足踏式の毛羽取機を使用して毛羽取りを行っていましたが、その後、古い洗濯機のモーターを利用した自作の毛羽取機を使用していた時期もありました。全自動収繭毛羽取機を使用するようになってからは、蔟からの繭抜きと毛羽取りを同時に行ってくれるので作業がとても楽になり、今でもその機械を使用しています。」

 (ケ) 繭の出荷

 「私(Bさん)が養蚕を始めたころから、この辺りの養蚕農家は収穫した繭を共同で酒六八幡浜工場へ出荷していました。その後、喜多養蚕連と今岡、桝田両製糸が一体となった伊予生糸株式会社が設立され、国の補助事業の適用を受けて新工場が冨士に建設されると、私たちはそこへ収穫した繭を自家用車で運んでいました。現在はユナイテッドシルク株式会社(松山市)と愛媛たいき農協の本所へ出荷しています。繭を出荷する前に1日くらい繭を蚕室で保管していますが、その間は、ネズミに繭を食べられないように、ネコを1匹蚕室内に入れておくことにしています。それだけで繭をネズミに食べられずに済むため、養蚕農家にとってネコはとても大切な生き物です。その後、繭を約15㎏ずつ袋に詰めて出荷します。農協に出荷した繭は米用の低温貯蔵庫で保管され、愛南(あいなん)町の方の養蚕農家が出荷した繭と合わせて群馬県の製糸工場へ送られます。そこには国内唯一の乾繭施設があり、繭の中の蛹(さなぎ)が成虫(蛾(が))となって繭に穴を開けたり汚したりして繭の価値が失われる前に蛹を殺すとともに、生糸にするまでの間にカビが出たり腐敗したりすることがないように乾燥させるのです。乾燥させた繭は全て、滋賀県の米原(まいばら)にある近江真綿工房に購入してもらっています。」

 (コ) 養蚕の衰退と農業の現状

 「私(Bさん)が養蚕を始めた昭和39年(1964年)ころは、三善地区の養蚕農家は多かったので、毎年、みんなで県外へ旅行に行っていました。三善地区で養蚕農家が減ってからは新谷地区などと合同で旅行に行っていましたが、今では市内全体で養蚕農家は2戸となり、旅行も行われなくなりました。養蚕農家が急激に減少したのは平成の初めころで、その原因としては、後継者不足よりも繭の価格の低迷の方が大きかったと思います。私たちは繭の価格が下落し始めたときに国の補助事業で繭の増産体制に入ったことになるので、今から考えるとタイミングが非常に悪かったと思っています。
 現在、この辺りでは若い農業後継者はほとんどいません。三善小学校区の人口が1,100人から1,200人くらいですが、その中で農業後継者は3、4年に1人生まれるくらいです。農業は自然相手の仕事で、大雨が降ることもあれば日照りが続くこともありますが、そのような状況でもある程度は生産量を維持しなければ生計を立てることができません。農業高校や大学で知識を身に付けていても、実際に経験してみなければ分からないことも多いと思います。農業は、サラリーマンのように生活が安定しているわけではありませんが、農閑期には比較的自由な時間が多いので、子どもと過ごす時間を大切にしたい人にとっては良い仕事だと思っています。」

 (サ) 小学生との触れ合い

 「15年くらい前から毎年、三善小学校の児童が私(Bさん)の家へやって来て、蚕の飼育を行っています。今は蚕を見たことがないという人がほとんどで、初めて蚕を見た子どもたちはとても驚いていました。蚕の存在を知ったことをきっかけに、子どもたちが科学に興味を持ってくれればと思って、子どもたちを受け入れてきました。残念ながら、今年(令和2年〔2020年〕)は新型コロナウイルス感染症の影響で実施することができませんでしたが、来年には再開できることを願っています。」

 (シ) 孫への思い

 「孫(Cさん)が『会社を辞めて養蚕を継ぎたい。』と言ってくれたとき、私(Bさん)はとてもうれしかったのですが、彼には『養蚕だけで食べていくことはできる。収入が今よりほんの少しだけ減るかもしれないが、繭の収量を増やすために自分で工夫する必要があるぞ。』と伝えました。指示されたことを行うだけではやる気もそがれますが、自ら工夫して仕事に取り組んでいると、つらい仕事も苦にならないものです。その点を理解できていれば、養蚕は難儀なことばかりではありません。会社勤めよりも自由に使える時間が多く、一日中子どもの傍にいられるので、両親が共働きの家庭よりも子育ての環境としては良いと思います。私は、孫が弱音を吐かずに養蚕を続けてくれることを願っていますが、どうしても続けることが難しくなったときには、後のことを心配せずに勤めに出ればよいと思っています。」

 (ス) 祖父から養蚕を継ぐ

 「私(Cさん)は小さいころ、祖父の養蚕の仕事が忙しいときには、母が手伝っているのを見たり、ときには手伝ったりしていました。私は小さいころから虫が苦手なのですが、不思議なことに蚕には苦手意識もなく、すんなりと受け入れることができました。それは祖父の血を受け継いでいるからかもしれません。そのころは、祖父は繭を作る仕事をしているという程度の認識しかなく、繭についてもそれほどの知識はありませんでした。
 一昨年(平成30年〔2018年〕)の西日本豪雨では、給桑に追われる時期を終えてようやく繭をとるという時期に蚕室が浸水し、繭は全滅してしまいました。当時は祖父もかなり落胆して、『もう養蚕をやめようか。』と話していたほどでした。それでも、お手伝いさんが来てくれて、次の蚕期には飼育できる状態になると、祖父もようやく養蚕を続ける気になりました。私は祖父を何とか手助けしたいと思い、祖父の後継者がいないという話を以前から聞いていたので、自分が跡を継ぎたいと考えたのです。その決意を祖父や母に伝えたところ、『やってみたらいい。』と前向きに言ってくれたので、私もすんなりと養蚕の世界に飛び込むことができたと思います。高校卒業後、5年間勤務した会社を辞め、先行きが不透明な養蚕農家を継ぐことに多少の不安はありましたが、実際に養蚕を始めてみて、とても魅力的な仕事だということに気づいたので、今は養蚕を継ぐ決心をして良かったと思っています。」

 (セ) 養蚕の苦労を知る

 「現在、私(Cさん)の家では蚕を年に4回飼育していますが、1回の飼育に1か月くらいかかります。その間は遊ぶ時間もなく、想像していた以上に重労働でした。蚕が繭を作るまでの間は、蚕に餌となる桑の葉を与えることが主な仕事です。祖父によると、蚕は真上を覆っている桑の葉を食べ、離れた所の桑の葉は食べないそうなので、給桑のときには、桑の葉を満遍なく、かつ蚕を覆うように置いていきます(写真2-1-5参照)。朝早くから給桑を行い、それが終わってから朝食をとります。初秋蚕を飼育するのは夏の暑い時期なので、涼しい朝7時半ころから桑畑へ行って1回目の桑採りを行います。帰宅後少し休憩し、11時半ころから昼の給桑を行い、給桑が終わると昼食をとります。昼食後に昼寝をした後、夕方の少し涼しくなってきた時分から2回目の桑採りを行います。夕方に行う2回目の桑採りは、その日の夜と翌朝の給桑分の2食分の桑の葉を採るため、非常に疲れる仕事です。多いときには70束から80束もの桑の葉を採り、運搬車まで担いでいったり、帰宅すると担いで降ろしたりしなければなりません。初めて桑採りを行ったときは肩がパンパンに張り、『祖父はこんな大変な仕事をしてきたのか』と驚いたことを憶えています。帰宅して夜の給桑を行うと1日の仕事は終わりで、そのころには午後8時ころになっています。」

 (ソ) 春蚕・晩秋蚕と初秋蚕の違い

 「私(Cさん)は、給桑のときに蚕室の戸を開けて換気を行っていますが、初秋蚕を飼育する夏には、それ以外の時間も戸を開けるようにしています。蚕室には扇風機を置いていますが、蚕に埃(ほこり)がかかってはいけないし、桑の葉に埃がかかると苦い味になるため、扇風機を使うことはあまりありません。室温管理も大切です。小さい間の蚕はひ弱なので、夏でも雨が降り続くなどして気温が少し低い朝は、ストーブを使って室温を26、27℃に保つようにしています。初秋蚕では暑い夏に蚕を飼育するため、死に繭や屑(くず)繭などが春蚕や晩秋蚕に比べると少し多くなります。また、初秋蚕のときには、飼育数を春蚕や晩秋蚕の半分以下に減らしているので、桑の葉を1台の軽トラックの荷台いっぱいに積めば何とか運ぶことができますが、春蚕や晩秋蚕の時期は1.5tトラック1台と軽トラック1台の荷台いっぱいに積まなければ足りないくらいです。」

 (タ) 独り立ちを目指して

 「最近、繭はさまざまな方面から注目されています。私(Cさん)は、最近、シルクのマスクが作られたり、繭に含まれる成分からシャンプーやリンス、化粧品が作られたりしていると知って驚くと同時に、繭や生糸にとても魅力を感じています。きれいな繭ができるまでには、しんどい作業や汚い作業などもありますが、蚕に対して気遣いをすればするほど良い繭ができるので、非常にやりがいのある仕事だと思っています。
 友人に養蚕を継ぐと伝えたとき、『お蚕って何。』と言われましたが、私のような若い世代は、養蚕のことを知らない人が多いと思います。私も微力ながら、より多くの人たちに養蚕や繭の魅力を伝えていきたいと考えていますが、まずは私自身が一人前の養蚕農家になることが先決です。目先の目標としては、祖父から教えられた養蚕の知識と技術をきちんと引き継ぎ、少しでも早く独り立ちしたいと思っています。県内では西予(せいよ)市にも養蚕農家の方がいますが、私のような20代の養蚕農家はいません。最近、養蚕農家の育成を目的とした講習会に参加したことがありますが、20代の方はいませんでした。現在、同世代の養蚕農家の方とのつながりはありませんが、ある程度頑張っていれば、数少ない若手の養蚕農家として評価されるかもしれないと前向きに捉えています。」

(2) 座繰製糸工場の記憶

 ア 工場での作業風景

 「大洲で大きな製糸工場といえば今岡製糸と桝田製糸くらいで、そのほかに小さな製糸工場が40軒くらいあったそうですが、そのころ製糸工場を経営していた方は今では90歳くらいになっていて跡を継いだ方もいないため、当時の工場の様子を知っている方は少なくなりました。私(Dさん)の父は、祖父の代から宇和島、八幡浜、大洲の常磐町で座繰製糸を手伝った後、昭和35年(1960年)ころに独立し志保町に工場を設けたのが金子製糸の始まりだそうです。工場には従業員の女性が6、7人いて、祖父の代から50年くらい勤めている人たちばかりでした。皆さん工場の近辺に住んでいて、徒歩か自転車で朝7時には工場に出勤して仕事を開始し、夕方5時ころまで働いていたと思います。昼食時には持参したお弁当を食べていました。金子製糸は小さな製糸工場で、昔ながらの座繰器械で生糸を生産していました。女性従業員6、7人が取り鍋の前に座り、煮繭によって繭糸のほぐれを良くした後、一つの繭から1本ずつ糸を引き出し、それを数本集めて1本の糸に紡いでいました。この作業を繰糸といいますが、繰糸を終えた小枠をそのままにしておくと糸がくっついてしまうため、小枠から生糸を乾燥させながら大枠に巻き直していて、その作業は男性が行っていました。女性従業員は屋内で一日中、お湯に浸(つ)かった繭に触れていなければならなかったため、いつも汗だくだったことを憶えています。」

 イ 製糸一筋に生きる

 「父は一日中工場の中で働いていたので日焼けすることがなく、日光を浴びると水疱ができていました。工場のボイラーは昔ながらのレンガ造りで、安価なおがくずを燃料にしていました。金子製糸は従業員が少なかったため、経営者である父がボイラーでおがくずを燃やしていました。また、生糸を出荷する準備も父が行っていました。大枠から生糸を外し、ねじりを加えてかせにしたり、糸が乱れないように紐(ひも)で縛ったりして整え、出荷できる状態にしていました。父は従業員が帰宅した後、ひとりでそのような作業を行っていたので、就寝時刻はいつも深夜12時を過ぎていたことを私(Dさん)は憶えています。翌朝も、始業と同時に仕事ができるように、従業員が出勤するまでにボイラーに点火していたので、毎日かなりの重労働をこなしていたと思います。」

 ウ 繭の臭い

 「私(Dさん)は子どものころ、父や従業員に電話が掛かってきたときには工場へ呼び出しに行っていました。工場の内部はお湯を使っていたためとても蒸し暑く、室温は40℃を超えていたのではないかと思います。また、繭を煮沸するときの特有の臭(にお)いがしていて、工場に入るときには鼻をつまんでいたことを憶えています。当時、大洲のほとんどの製糸工場は民家に隣接していましたが、換気などの設備が十分に整備されていなかったため、今であれば近隣から苦情が入り、工場を続けることができないかもしれません。工場の近隣の方々は嫌な思いをしたと思いますが、大洲は古くから製糸の町として栄えてきたためか、あるいは臭いがしたのが日中の時間だけだったためか、当時、工場に苦情が入ったことはありませんでした。」

 エ 家族的な雰囲気だった工場

 「毎年1回、工場の従業員だけで慰安旅行に行っていて、行き先は九州地方となることが多かったという話を聞いたことがあります。私(Dさん)の父は、工場が閉鎖されるころまで何らかの形で慰安旅行を続けていました。昔は娯楽が乏しかったこともあり、従業員にとって、慰安旅行で温泉観光地などを訪れることが唯一の楽しみだったのではないかと思います。また、父は従業員との家族的なつながりをとても大切にしていて、従業員のお子さんに誕生祝いを渡していました。工場の雰囲気も家族的で、従業員同士はとても仲が良かったと思います。」

 オ 工場の閉鎖

 「私(Dさん)は金子製糸が盛んだったころのことはよく分かりませんが、衰退していたころのことは憶えています。全国的に養蚕農家が減少して原料の繭の確保が困難になり、どの製糸工場でも経営を続けることが難しい状況になっていました。昭和58年(1983年)には座繰製糸は県内でも金子製糸だけになりましたが、それでも父は、『明治の名残を絶やしたくない』という強い思いで操業を続けながら、観光客に工場を公開していました。私たち家族は、父が製糸業に情熱の全てを注ぎ込んできたことを知っていたので、父の意志を尊重していました。しかし、父の頑張りも構造不況の波に抗(あらが)うことができず、後継者もいなかったことから、平成の初めころに操業を終えることになりました(写真2-1-8参照)。それからしばらくの間、父は気力を失っていましたが、その後、孫の世話をしているうちに元気を取り戻し、84歳まで十数年間区長を務めました。父は製糸業の話をすることが大好きだったので、新聞社やテレビ局からの取材依頼にも快く対応していて、数社から取材を受けていたことを憶えています。私も製糸工場に関することをいろいろと教えてもらいました。」

 カ 綿帽子作りに関わって

 「製糸工場を閉鎖してからは、父は真綿を加工して綿帽子を作り、毎年11月に行われる県の物産展へ出品するようになりました。そのため、家には前橋(まえばし)(群馬県)から仕入れた原料の生糸や真綿がたくさんありました。父は『これは県から依頼された仕事だから、ずっと続けんといかん。』と言って、80歳を過ぎるまで出品を続けていました。今は父も高齢となり綿帽子を作ることが難しくなったため、私(Dさん)たち夫婦が父に代わって綿帽子作りに取り組んでいます。父も喜んでくれると思うので、家に真綿が残っている間は物産展への出品を続けようと考えています。」

写真2-1-3 現在の蚕室

写真2-1-3 現在の蚕室

令和2年8月撮影

写真2-1-5 給桑

写真2-1-5 給桑

令和2年8月撮影

写真2-1-8 金子製糸の看板

写真2-1-8 金子製糸の看板

令和2年10月撮影