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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 製蝋業と人々のくらし

 木蝋(ろう)はハゼの実から採取される油分であるが、採取したままのものを生蝋、純度を高めて漂白したものを晒(さらし)蝋または白蝋といい、製造工程そのものも晒蝋という。愛媛県では製蝋業は幕末期から盛んになり、明治時代初期に木蝋価格の下落により一時生産が減少したものの、海外輸出が増加し価格も徐々に上昇してくるにつれ生産が回復していった。喜多郡出身の池田貫兵衛、河内寅次郎らは神戸に喜多組という貿易商社を設立し、木蝋を各国に輸出して成功したことで知られている。愛媛県は全国有数の木蝋生産を誇ったが、特に喜多郡は、最盛期の明治20年代後半には国内の晒蝋生産の約40%を占めたという。しかし、国内の製蝋業は、外国油脂製品の輸入と新興の化学工業との競争の影響を強く受けて衰退していった。喜多郡においても、大正時代末期までに内子(うちこ)町の晒蝋業者が消滅し、外国からの輸入が途絶えた第一次世界大戦期に持ち直したものの衰退していった。そのような状況の中、旧長浜(ながはま)町(現大洲(おおず)市)においては製蝋業が継続し、柴地区で行われていた晒蝋の生産は近年途絶えたが、生蝋の生産は現在も行われている。
 本節では、旧長浜町におけるハゼの実の収穫について、Aさん(昭和6年生まれ)から、晒蝋について、Bさん(昭和34年生まれ)から、木蝋の生産について、Cさん(昭和44年生まれ)、Dさん(昭和63年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。