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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 昭和30年から40年ころの中心商店街

 ア 本町1丁目の様子

 (ア) 商店街のにぎわい

 「この辺りの商店街の全盛期は、島嶼部から多くの渡海船が着いていた昭和30年代だと思います。島嶼部の人口は今よりはるかに多く、渡海船で多くの人が島嶼部と今治の間を行き来していました。渡海船が港に着くと、階段のように段々になっている所に船から板を渡して、乗り降りしていたのを私(Bさん)は憶えています。
 当時の港町(広小路に平行している1本北の通り)は島嶼部へ生活物資を送るため金物店や米穀店、酒店などが立ち並ぶ問屋街として栄えていました。島嶼部の人は、港町の通りと本町の通りが合流した所から、本町2丁目、1丁目へと流れてきました。また、港町をはじめ、周辺に多くの旅館がありましたが、島嶼部の人が故意に船に乗り遅れて、旅館に宿泊することもあったそうです。
 当時は、商店街の周辺に大きなタオル工場が複数あり、工場の寮もありました。そのような工場で働く女性従業員が多数いたことも、商店街の人通りが多かった理由だと思います。夜市があったときなどは、通行できないほどの多くの人であふれていましたが、今治銀座はそれほど人通りが多くありませんでした。」

 (イ) 本町1丁目の店舗

 「現在のヴィサージュの場所には大洋デパートができる前、大きな雑貨の卸問屋があり、蔵が七つあったことを私(Bさん)は憶えています(図表1-1-3の㋐参照)。うちの店の前にあった月賦販売業者は、大阪(おおさか)、名古屋(なごや)(愛知県)で営業していましたが、大阪万博(昭和45年〔1970年〕開催)のころ、ホテル業に進出して成功しました(図表1-1-3の㋑参照)。現在は大阪で三つのビジネスホテルを経営しています。」

 (ウ) アーケード

 「本町1丁目商店街に現在のドーム式アーケードが設置されたのが平成2年(1990年)です(写真1-1-2参照)。平成17年(2005年)、合併を記念して、この本町1丁目のアーケードに今治市の各地から神輿(みこし)が30体ほど集まりました。神輿には新しくてきれいなものや、古びたものなどさまざまなものがあり、大変な人出だったことを私(Bさん)は憶えています。
 現在のアーケード設置前、本町1丁目商店街には、昭和48年(1973年)ころに、片屋根式で覆われているアーケードが設置されました。その際には、関係者から照明器具を多数取り付けるように求められたため、商店街がとにかく明るくなったことを憶えています。」

 イ 新町の様子

 「昭和30年代、今治港には島嶼部からの渡海船が数多く着いていました。渡海船は品物を運ぶだけでなくお客さんを乗せていて、特に朝方は、今治市内への通勤・通学や通院のためにたくさんのお客さんが利用していました。そのため、現在のドンドビの辺りよりも、港側の方がにぎわっていて、特に食品関係の店、例えば製菓店、蒲鉾(かまぼこ)店や鮮魚店が集中している新町商店街は人出が多かったと私(Aさん)は思います。また、当時は阪神方面行きの旅客船が午後11時ころに今治港を出ていたため、新町商店街では多くの店が午後10時過ぎまで開いていました。今考えると不思議ですが、タクシーを使わずに歩いて今治駅から今治港に向かう人が多かったです。
 昭和40年代になると、島嶼部の人は定期船を利用する人が多くなりました。島嶼部から今治市内の高校に通う高校生は、現在の水上交番がある辺りに置いていた自転車に乗り、商店街を通って通学していました。午後8時ころが島嶼部への最終便でしたが、島嶼部からの高校生は、その便に間に合うように商店街を通って今治港まで行っていました。」

(2) 現在の中心商店街

 「最近、呉服店だけでなく、商店街の店が次々と閉店しています。皆さん一定の年齢まで店を続けますが、後継者がいないため、病気になったり亡くなったりして、続けることができなくなり閉める店が多いです。また、商店街で営業していた店が、商店街の店を閉めて、ショッピングモールに出店することもあります。うちの店もショッピングモールから出店の打診が何回かありました。いざ出店するとなると、まず敷金、改装費用など、高額の初期投資が必要です。加えて、出店後には毎月、光熱費や共益費、店舗の広さに基づいた家賃が必要となり、計算すると収支が合わないために私(Bさん)は断りました。」
 「瀬戸内しまなみ海道が開通して、商店街の人の流れが変わりました。当初は影響ないと思っていましたが、何年か前から大きく変わって、商店街の人通りが少なくなりました。瀬戸内しまなみ海道の開通後、島嶼部への航路が次々と縮小されていき、今から10年ほど前には阪神方面へのフェリーも寄港しなくなるなど、今治港に着く船が少なくなっていったことが、やはり大きいと私(Aさん)は思います。高校生もバス通学に替わったため、商店街を通らなくなりました。商店街の店も次々と閉まりだし、なお人が来なくなりました。とにかく人通りが少なくて、昔と比べると現在は10分の1もないかもしれません。昨年(令和2年〔2020年〕)からは新型コロナウイルス感染症のため、さらに人出が減りました。もっと早く収まると思っていましたが、これほど長引くとは思いませんでした。」

(3) 商店を営む

 ア 呉服店を営む

 (ア) 老舗の呉服店

 「私(Bさん)の先祖は、吹揚城(今治城)で御典医を務めていたそうです。明治に入って呉服店『日吉屋』を創業し、140年近くになります。もともとは本町2丁目の、現在の母恵夢本舗の本店がある場所にありました。終戦後、区画整備で広小路が現在の道幅に拡幅されることになり、戦前は酒店があった現在地を替地として提供されたのです(図表1-1-3の㋒、写真1-1-4参照)。同じように、本町1丁目の多くの店は、終戦後に区画整備で移転してきましたが、現在まで続いているのはうちの店くらいです。このときの区画整備では、本町2丁目の通りも広がりました。2丁目の通りには戦前、現在のワンボックスカーより一回り大きいくらいの木炭バスが走っていましたが、防火演習に使う竹を立て掛けていると、通れないほど狭い道幅でした。」

 (イ) 学生時代の思い出

 「私(Bさん)は東京の大学に進学し、卒業した昭和36年(1961年)に今治に戻ってきました。東京の大学に在学中、東京六大学野球の応援によく行きました。大学1年生のとき、対戦校の立教大学では長嶋茂雄選手が4番打者を務めていました。長嶋選手は本当によく打っていて、対戦校が立教大学の場合、いつ応援に行っても負けていたことを憶えています。」

 (ウ) 多くの呉服店

 「全盛期には、今治には呉服店が組合員だけで23軒、組合員以外でも小さな店を含めると20軒ほどあり、合計40軒余りあったと思います。本町1丁目だけでも、うちの店を含めて5軒の呉服店が並んでいました。広小路を渡った2丁目にも5軒ほどありましたが、それぞれの店にお客さんが普段からよく来てくれていました。
 呉服店が多いため、仕立屋も多く、うちの店だけで専属の仕立屋が40軒近くありました。ほかの店と契約していた仕立屋も含めると大変な数だったと私(Bさん)は思います。当時は、仕立屋に住み込みで働きながら技術を教わった人が仕立屋をしていましたが、そういう人たちの多くは亡くなってしまいました。現在では、高松(たかまつ)(香川県)や徳島(とくしま)の学校や訓練校で学んできた人が多く、国家資格の和裁技能士1級を取得している人もいます。そういう人たちも30代や40代になっていて、後に続く人がいません。若い人たちは和裁だけでなく、洋裁や編み機を使った編み物もしなくなりました。昔は今治にも洋裁や編み物の学校がいくつかありましたが、現在では一つもありません。」

 (エ) 商品を売る

 「明治の初めに始まった『えびすぎれ』という、端切れや小物の売り出しが2月上旬にあります。全盛期には、3日間、昼食をとる暇がないほど多くのお客さんでにぎわっていたことを私(Bさん)は憶えています。当時は、自分で仕立てができる人も何割かいたため、いろいろなものを買って帰っていました。
 通常の営業日では、実用呉服といって、普段着るものがよく売れていました。最近は、茶道や華道、日本舞踊といった趣味の世界や営業で着るものが売れていて、昔よりも売れている商品は高額になっています。獅子舞などの伝統行事で使う衣装の注文もあります。そのようなものの中には反物から仕立てるのが難しいものがあり、今治で仕立てができない場合は、京都(きょうと)に送って仕立てます。そのため、子ども用のものでもかなりの高額になり、ある衣装では、一式200万円ほどになりました。昔は、祭りの役に当たったと喜んで衣装を作っていましたが、今ではそのような高額の衣装は、地区で一つ作ったものを使うようになっています。そうしないと、役を引き受ける人がいなくなったのです。
 ほかにも夏祭りの『おんまく』での『ダンスバリサイ』の際に履く、裏にゴムの付いた地下足袋の注文などもあります。ダンスには、企業などがチームを組んで参加するため、まとまった注文が入ります。ある企業から30人分の地下足袋の注文が入りましたが、『あの企業にダンスに参加できる人が30人もいたのだろうか』と不思議に思っていたところ、今治だけでなく、方々の支店から好きな人が集まって参加すると聞いて納得しました。おんまくのときには、昼から70人も80人も浴衣の着付けがあります。しかし、おんまくもコロナ禍で2年続けて中止となり大変残念です。」

 (オ) 京都で仕入れる

 「反物は、実際に目で確認しなければ、色や風合いが分かりません。そのため、毎月、私(Bさん)は仕入れ先の染物業者がある京都へ行っています。実物を見て、仕入れる商品を決めたり、希望する商品がない場合は『こちらの色をこのように変えて作ってください』と染物業者に要望したりしています。反物は安いものでなく、付加価値が付いてかなりの高額になるものもあり、扱う商品に責任を持つために、実際に自分の目で見ることは大切だと思います。今は、このコロナ禍で京都へ行くことができないため、写真を送ってもらっていますが、やはり分かりにくいです。」

 (カ) 瀬戸内しまなみ海道の開通効果

 「瀬戸内しまなみ海道が開通した際、うちの店にも半年ほどは恩恵がありました。橋を渡ってくるお客さんが増えたのではなくて、開通効果で宿泊客の増加が見込まれる松山の道後温泉街のホテルから、従業員の制服である着物の注文があったのです。半年間で三つのホテルから、それぞれ40着ほど注文がありましたが、松山の呉服店で注文するより、うちの店で注文した方が安かったようです。半年ほどすると注文が止まったため、『どうしたのですか。』と私(Bさん)が道後のホテル関係者に聞いたところ、『お客さんが止まった。』と言われました。しまなみ海道周辺で大渋滞が発生したため、観光客に敬遠されたようです。」

 (キ) 呉服業界におけるメーカーの減少

 「呉服業界のメーカーは減少しており、京都の老舗メーカーも多くのメーカーが廃業しています。国内のメーカーが減少したため、ベトナムなど東南アジアへ生産が委託されるようになりましたが、このコロナ禍では、そのマイナス面の影響を受けたと私(Bさん)は思います。商品を注文していたメーカーから、『ベトナムで都市封鎖が実施されたため、商品の生産が間に合わず、納期が遅れることを覚悟しておいてください。』とうちの店に連絡がありました。」

 イ 製菓店を営む

 (ア) 老舗の製菓店

 「『ムロヤ菓舗』は私(Aさん)の祖父が明治12年(1879年)に創業しました(図表1-1-3の㋓参照)。祖父は今の喜田村の出身で、農家の次男でした。祖父は母親から『農家では食べていけないから、街に出て菓子屋になりなさい。』と言われ、室屋町にあった『室町屋』という店で修業したそうです。その店の御主人には子どもがいなかったため、祖父に『養子になってほしい。』と言ったそうですが、祖父は少々変わり者で、『店を継いで太らせても(大きくしても)もともと太かったと言われる。駄目になったら養子が潰したと言われる。』と言って断ったそうです。その店はその代でなくなることになるため、『ムロヤ』という名を使っても構わないということで、ムロヤにしたそうです。昔の資料を見ると、初めは漢字でも店名を書いていたようですが、何年かするとカタカナでの表記に落ち着いたようです。私は記憶にないのですが、昭和10年(1935年)ころには、商売好きの父が向かい側の店舗を借りて、平日に10銭均一の店を営業していたそうです。また、隣の店舗を借りて『ムロヤ茶房』という喫茶店をしていて、こちらは私も記憶があり、現在の店の3倍ほどの広さがあったと思います。」

 (イ) 戦後の製菓店

 「空襲で街は焼け野原になりましたが、商店街ではバラック小屋でいち早く店を再開した人たちもいて、うちの店も早い方だったと思います。私(Aさん)の母が『このまま遊んでいてもいけない』と、知り合いの建築関係の人に頼んで、2間×3間(1間は約2m)くらいの小さなバラック小屋を建ててもらいました。饅頭(まんじゅう)を作る職人がおらず、材料も手に入らなかったため、喫茶店として再開し、氷を入れて混ぜて作ったアイスクリームをお客さんに出していました。
 材料が手に入るようになり、流しの職人を雇って、割と早い時期に饅頭を販売するようになったと思います。流しの職人は昭和40年代まで雇っていて、どの職人も1、2年しかおらず、出身は松山、香川県や大阪府とさまざまでした。空襲で店が焼ける前にうちの店で働いていた島嶼部の人たちのうち、半数ほどがうちの店で働いてくれました。そのような人たちがいたおかげで、何とか饅頭の販売を始めることができました。」

 (ウ) 洋菓子作りを始める

 「戦後、母は苦労していたため、早く私(Aさん)に菓子作りをしてほしいと考えていたようです。旧制今治中学校に進学していた私は、そのまま今治西高校(旧制愛媛県立今治中学校は、戦後の学制改革により昭和23年〔1948年〕4月に県立今治第一高等学校、さらに昭和24年〔1949年〕9月に県立今治西高等学校になった。)に通っていましたが、高校2年生のとき、『高校を中退して菓子を作ってくれ。』と母から言われました。しかし、あと1年で卒業だったため、無理を言って何とか続けさせてもらいました。ちょうどそのころ、高校は男女共学、小学区制となりました。それまでは現在の今治西高校と今治南高校が男子校、今治北高校が女学校でしたが、それら三つの高校が共学となり、校区別に通学する高校が決められたのです。私が住む美須賀校区は今治北高校の通学区になったため、高校3年生の1年間だけは今治北高校に通うことになりましたが、そこで妻と知り合って後に結婚したのです。妻は、戦時中に広島(ひろしま)から大三島に疎開してきて、そのまま今治で進学していました。もし私が高校2年生のときに中退していたら妻と出会うことがなかったですし、人の縁は不思議なものだと思います。
 今治北高校を卒業後、すぐに菓子作りを始めましたが、ちょうどそのころ、東京都板橋区に製菓学校が設立されました。『戦後のこれからは、洋菓子の時代だ』と考え、うちの店には洋菓子の職人がいなかったため、母に『東京の製菓学校に通わせてください。』とお願いしましたが、実は単純に東京に行きたかったことも理由の一つでした。その製菓学校には3か月間で学ぶ促成科があり、『夏の忙しくない時期なら構わない。』と許可をもらって、8月から3か月間、洋菓子の作り方の講習を受けて帰ってきました。講習といっても、先生が作るのを見て、レシピを書き写すだけといった感じでした。講習を修了して、昭和26年(1951年)にうちの店で洋菓子の販売を始めましたが、今治で洋菓子を販売した店としては、早い方でした。当時、今治で洋菓子を販売していたのは、現在の商店街からマルナカ今治駅前店への曲がり角にあるマンションの場所にあった『光』くらいだったと思います。当時、『光』は今治では比較的大きな喫茶、食堂で、後に唐子浜で海水浴場や遊園地も経営しました。」

 (エ) クリスマスケーキを作る

 「洋菓子を販売し始めた最初の冬、私(Aさん)は、とにかくクリスマスケーキを作ってみることにしました。そのころの今治には、洋菓子関係の問屋がなく、ケーキを入れる箱もなかったため、紙箱を扱う店に頼んで作ってもらいました。ケーキがいくつ売れるのか想像もつかず、とりあえず100個作ってみることにしました。ケーキの作り方を店で習ったのならば全体の作業の流れが分かりますが、講習で見て学んだだけで流れが分からなかったため、ケーキを一つずつ作り、箱に入れて広い場所に並べていきました。一つずつ作ったためケーキの柄が違っていて、『奥のケーキをください。』とか『そちらの柄のケーキをください。』とお客さんに言われ、それから一つずつ包装してリボンをかけて渡していたため、とても大変だったことを憶えています。翌年は見本を作って、同じ柄のケーキを作り、お客さんに『ケーキをください。』と言われたらすぐに渡せるように工夫をしました。その後、12月24日のクリスマスイブに、知り合いのキャバレーにケーキを卸していたことがありました。キャバレーのお客さんがケーキを持ち帰るのですが、二つ三つ持ち帰るお客さんもいました。ケーキを配達に行った家が、たまたま父親がキャバレーからケーキを持ち帰った家で、子どもが寄ってきて『お母さん、またケーキが来たよ。』と言われたことを憶えています。
クリスマスのころになると、お菓子を入れたサンタクロースの靴などさまざまなクリスマス商品が売られていますが、東京へ行ったおかげで、そのような商品があることを知りました。講習期間中、私は浅草で下宿をしていたのですが、講習が終わって今治へ帰ろうかというころ、たまたま蔵前の問屋街へ行きました。幟(のぼり)が派手に立っていた店があったため、『何だろう』と思って入ってみると、クリスマス関係の商品を豊富に扱っており、『ええ、こんなものがあるのか』と大変驚きました。持ち合わせのお金がなかったため、買うことができずにいろいろな商品を見ていたところ、お店の方に声を掛けられました。その店は、東京に支店を出して間もない大阪の卸問屋で、『お金がないため買えない。』と私が言ったところ、お店の方が『大阪の本店から実家の製菓店に送ります。』と言ってくれたため、私はいろいろな種類の商品を注文して実家に送ってもらいました。そのころ、今治ではそのような商品は珍しかったため、キャラメルやチョコレートを入れたサンタクロースの靴が面白いくらい売れたことを憶えています。」

 (オ) 製菓店の経営

 「私(Aさん)が菓子作りを始めたころ、どの製菓店も朝早くから仕事を始めており、うちの店は午前6時くらいでしたが、午前5時ころから仕事を始める店もありました。お客さんは朝早くからは来なかったのですが、当時は全て手作りで時間がかかったためです。私は午前6時ころから仕事を始めて、午前8時から9時ころに朝食を食べていました。夏はそれほど忙しくないため、夕方くらいに終わりますが、年末は午前0時ころまで仕事をするのは当たり前でした。休みは元日とお盆時期の8月16日の、年に2回だけでした。
 当時の主力商品は戦前から作っていた蒸し饅頭でした。観光客が何人か一緒に来店して、1人の方が買うと別の方も『私もください。』と買っていってすぐになくなり、昼ころからまた作ることがありました。そうかと思うと、朝早くに作ったものが売れ残ってしまうこともありました。昔の蒸し饅頭は、現在のように脱酸素剤を入れた包装をせずに箱詰めして売っていました。それでも買って帰ってから、すぐに食べれば大丈夫なのですが、保存料も使用していないため、2、3日後に『かびが入っている。』とお客さんから電話が掛かってきて、謝罪して同じものを送ったこともありました。そういうことが続いて、焼き饅頭で日持ちするものを作ろうということで、昭和30年代になってからだと思いますが、『一位木(あららぎ)』という菓子が誕生したのです。一位木を作り始めたころが、日本全体の景気が良くて、店の売り上げも伸びた時代でした。菓子の量産ができるようになったこともあり、頑張れば頑張った分だけ売り上げが伸びて、当時は大変やりがいがありました。
 当時、島嶼部の中学校を卒業して住み込みで働く従業員が3、4人いました。しかし、景気が良くなってくると、製菓店は勤務時間が長くて休みが少なく、体力的にも大変であるため条件の良い職種へ転職していきました。これでは若い子が働いてくれないということで、印刷業を営んでいた姉に相談をしたところ、『日給月給制にして皆勤手当、精勤手当を支給しなさい。残業代も125%付けて出しなさい。』と言われ、それまではそのような制度について学んでおらず、『そういうものなのか』と思いました。ちょうどそのころ、真面目でほとんど休まず働いていた従業員が、結婚してから月に10日間ほど休むようになり、結婚前と同額の給料を支給すべきか悩んでいましたが、皆勤手当、精勤手当の制度を導入することで解決しました。住み込みの従業員は昭和40年代まではいたと思います。
 また、時期ははっきり憶えていませんが、昭和30年代に、商店街で従業員が集まりにくくなったこともあり、『定休日を設けないといけない』ということで、月に1回、26日か27日だった思いますが、商店街全体で定休日を設けました。その日になると商工会の方が見回りに来て、営業をしている店に『ちゃんと店を休んでください。』と注意をしていました。それまでは、休みなどなかったため、私は定休日に何をしていいか分からず、暇つぶしの方法がなくて困ったことを憶えています。」

 (カ) 菓子作りの機械化

 「昔は全て手作業で菓子作りをしていました。餡(あん)も初めは全て手でこねていましたが、力仕事でとても苦労しました。昭和30年(1955年)ころに餡練り機やミキサーを使うようになり、体力的に仕事が楽になったと感じたことを私(Aさん)は憶えています。さらに、餡と生地を入れると丸めて成型する機械が登場しました。今治で最初に菓子を成型する機械を導入したのは、『権太』(現母恵夢本舗)さんだったと思います。私は愛媛県菓子工業組合の役員をしていましたが、役員会で『権太』さんの社長から『機械はいいぞ。』と聞いて、『この方が言うなら間違いないだろう』と、それほど考えもせずにうちの店でも導入しました。導入したのは昭和41年(1966年)だったと思いますが、今治では早い方で、当時の金額で100万円くらいでした。導入に当たって、その機械の製造会社がある宇都宮(うつのみや)(栃木県)に、2日間ほど泊まり込みで使い方を習ってきました。『レオン自動機』という食品機械の製造会社で、現在ではパン関係の機械も扱っています。手作業だと1分間に数個しか成型できませんが、その機械を使うと一度に1,400個ほどと、比べようもないほど大量に成型できるようになりました。すると、窯もそれまでのものだと数をさばけず、一度に焼く時間もかかるため、新しいものを導入する必要がありました。また、それまでは冷めた後に手作業で一つずつ包装していましたが、夜通し作業をしても間に合わなくなりました。そこで、自動包装機も次の年に購入することになり、とにかくお金がかかって苦労したことを憶えています。」

 (キ) 後継者とともに

 「息子に『大学生の間に店を継ぐかどうか考えなさい。継ぎたくないなら、それでも構わない。』と伝えて大学に通わせました。大学の卒業が近づくころ、就職難であった一方で店の経営が順調だったこともあって、息子は『跡を継ぐ。』と言ってくれました。うちの店では洋菓子の販売を続けていましたが、私(Aさん)は洋菓子についてそれほど専門的に学んでいなかったため、『和菓子は教えることができるから、洋菓子について学んできなさい。』と息子に言いました。組合役員のつてで、東京にある大人数で手作りをしている洋菓子店を紹介してもらい、息子は3年ほど働いて帰ってきました。それからは主に、私は和菓子を、息子は洋菓子を作っていました。和菓子は西条や松山など遠方からも、それほど数は多くないですがお客さんがわざわざ買いに来てくれますが、洋菓子は店の前を通るお客さんでないと、なかなか買ってくれませんでした。私は『人が通らないと売れないような菓子は駄目だ。遠くから探しに来るような菓子を作りなさい。』と息子に言ったのですが、なかなか難しかったようです。商店街の人通りが減ってきたことや、和菓子は冷凍すると日持ちしますが洋菓子は日持ちしないこともあり、徐々に洋菓子は作らなくなっていきました。現在もカステラは作っていて、クリスマスケーキも予約販売を続けています。」

 (ク) コロナ禍の影響

 「うちの店も商店街の人通りが減ったことに伴ってお客さんが減り、フェリーが今治港に寄港しなくなって観光客が来店することも少なくなりました。一方で松山など遠方からわざわざ来てくれるお客さんもいて、有り難く思っています。顔なじみのお客さんだけでなく、顔を知らないお客さんも多いです。現在は午前8時から仕事を始めていて、午前9時ころに店を開けています。遅くまで開けていてもお客さんがほとんど来ないため、午後5時ころには店を閉めています。私(Aさん)は体が元気なうちは、仕事を続けたいと思います。
 コロナ禍の影響はうちの店でもあり、お茶会が開催できなくなって、大口の和菓子の注文がなくなりました。また、タオル美術館に土産用の菓子を卸していたのですが、観光客が来てくれないため土産も全然売れなくなりました。コロナ前は観光バスが3台、4台と駐車していたのですが、最近は観光バスが駐車しているのを見たことがありません。うちの店はまだ卸の割合が少ないのですが、卸だけでやっている店は本当に大変だと思います。」

図表1-1-3 昭和40年ころの本町1丁目商店街、新町商店街の町並み

図表1-1-3 昭和40年ころの本町1丁目商店街、新町商店街の町並み

Aさん、Bさんからの聞き取りにより作成 ※空き店舗は表示していない

写真1-1-2 現在の本町1丁目商店街アーケード

写真1-1-2 現在の本町1丁目商店街アーケード

令和3年7月撮影

写真1-1-4 日吉屋

写真1-1-4 日吉屋

令和3年7月撮影