データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 山をつくる
(1) 鈍川森林組合の始まり
「私(Aさん)は昭和26年(1951年)に高校を卒業したのですが、そのころに鈍川村役場の収入役の方が、『卒業したら働きに来ないか。』と誘ってくれました。私は農家の長男だったので、農業を継がないといけないのではないかと考えていたので、『父と相談してから返事します。』と言ったのですが、父も『それだったらよいのではないか。』と賛成してくれたので、鈍川村役場に入りました。昭和の大合併で、昭和29年(1954年)に四つの村が合併して玉川村ができる前のことです。役場に入ると、今の産業建設課の仕事になると思いますが、『勧業の仕事をしてくれ。』と言われました。その当時の役場は村長・助役・収入役の三役を含めても職員が9人しかいませんでした。役場に入ってからは、県や国から送られてくる書類や過去の勧業の仕事の書類の綴(つづ)りを読むということを2か月くらい続けたことを憶えています。当時の鈍川村の主な産業は農業と林業で、特に炭焼きで生計を立てていた人がほとんどだったように思います。それで勧業の仕事も林業関係の仕事が多かったのです。当時、森林法が改正され、それまでの森林組合を協同組合的な組織に改めなければならなくなり、新しい森林組合が設立されました。私の役場での仕事のほとんどが林業関係の仕事だったため、上司から『山の仕事、森林組合の仕事をしてくれないか。』と言われ、私も『何でもやりますよ。』と答えて森林組合の仕事を始めることになりました。当時の森林組合は役場の中にありました。私は1年ほど役場に籍を置いた後に森林組合の方に移り、それからは森林組合の仕事に専念しました。」
(2) 昭和20年代・30年代の林業
「私(Aさん)が森林組合に入ったころは、山の奥の方でミツマタを多く作っていました。ある方は150haくらいの土地を所有し、栽培に適した場所で人を雇ってミツマタ栽培を行っていました。人が通ることのできる道などは整備されていなかったので、川を通り道にして、肩にミツマタの皮を担いで運んでいたことを憶えています。
また一時期ですが、パルプ材を切り出すことが盛んになりました。パルプ材といえばブナやトチ、ナラなどの雑木ですが、それまでに自然に生えていた古い木を切り出していました。山陽パルプや日本紙業などの大手の会社が、鈍川温泉の奥の木地地区の山から、道がなかったので索道を引いてパルプ材を切り出していました。パルプ会社の重役がやって来て、鈍川温泉で宴会などを派手に行っていたことを憶えています。その後にスギやヒノキの植林が始まりました。現在では木地地区の80%以上はスギやヒノキの人工林になっています。木炭も昭和30年代までは生産されていましたが、販売や集荷は農協が行っており、森林組合はそれほど関わっていませんでした。」
「私(Bさん)が小学生だったころは、あちらこちらで炭を焼いていて、煙が方々の山から上がっていました。小学校へ歩いて登校していると、炭小屋で焼いた炭を集める集荷場がいろいろな所にあったことを憶えています。集落ごとに小屋のようなものがあり、そこへカヤを切って作った炭俵に炭を詰めて集荷してあったものを見たことを憶えています。燃料革命が起こり、燃料が木炭からガスに替わりましたが、昭和40年(1965年)ころまでは、木炭を生産していたのではないかと思います。」
(3) 木を植える
ア 苗木の配布
「私(Aさん)が森林組合の仕事を始めたころ、県は、林業改良指導員を配置しました。林業改良指導員は、森林の所有者や林業に従事する方々に対し、林業に関する技術や知識の普及と森林施業に関する指導を行います。県は82か所の森林区を設定し、その全てに林業改良指導員を派遣して駐在させており、私は林業改良指導員に学びながら、森林組合の仕事を行っていました。当時は、苗木を植えること、つまり植林することが仕事のほとんどだったと思います。
植林ではまず、苗木の斡旋(あっせん)を行います。国が林業の普及のために補助金を出していたので、県に補助金を申請する事務や、県森林組合連合会への苗木の発注などを行っていました。県森林組合連合会は各郡に支部を設置しており、県内には12の支部があったと思います。その支部の所長がオート三輪車を手配して各森林組合に苗木を配布していました。苗木は全国から国鉄貨物の汽車で今治駅まで運ばれ、そこから鈍川森林組合まで運ばれてきました。植林が盛んに行われていた時期には、恐ろしいほどの本数の苗木が運ばれてきたことを憶えています。鈍川森林組合に届いた苗木は、私たちが各所有者の林地の入り口まで持って行き、誰のものであるか分かるように札を付けて配布していました。それが昭和30年(1955年)ころから昭和40年代の後半まで、20年ほど続きました。
現在の玉川の森林資源の植栽年度を示す統計を見ると、植栽年度が5年刻みになっていますが、昭和32年(1957年)から昭和51年(1976年)までの間に植林されたスギやヒノキの面積が大変多くなっています(図表2-2-3参照)。とにかく、昭和40年代後半までは森林組合では植林の仕事がほとんどだったことを憶えています。
玉川では植林のときに、苗木を1坪(約3.3㎡)当たり1本植えることになっていて、10a当たりでは約300本、1ha当たりでは約3,000本植えていました。間伐などを行って成木になると、だいたい1,500本くらいになりました。地域によっては植える苗木の本数も違うようで、久万高原(くまこうげん)町の方では1ha当たり6,000本植える施行方法を採っており、苗木はかなり密に植え、枝打ちや間伐をしっかり行って良質な木を作るのだそうです。」
イ 森林組合の合併
「昭和29年(1954年)に4か村が合併して玉川村となり、その後数年して町制を施行しましたが、森林組合は旧村ごとにありました。もともと森林組合があったのは、鈍川、龍岡、九和の各地区でした。九和地区の森林組合には職員がおらず、鴨部地区には森林組合自体がなかったため、九和地区と鴨部地区では、苗木の配分や補助金の申請などの林業に関係する仕事は、役場の勧業係の職員が行っていました。それが昭和38年(1963年)に各地区の森林組合が合併して玉川森林組合ができました。鈍川地区と龍岡地区はそれぞれの旧役場に組合の支所を置き、それぞれの旧職員で支所の地区を担当し、九和地区と鴨部地区は旧九和村役場に組合の本所を開設し、専務理事が常駐して全体の取りまとめと、九和地区、鴨部地区を担当して処理に当たっていたことを私(Aさん)は憶えています。鈍川地区と龍岡地区の山林面積はほぼ同じでしたが、両地区で玉川全体の8割弱を占めていたので、そのようにしていたのではないかと思います。」
ウ 植林のピーク
「植林のピークは、森林組合の合併前後の昭和38年(1963年)ころでした。そのころには苗木は貨物列車ではなく、トラックで運ばれてくるようになっていました。トラックで運ばれてきた苗木は、森林組合がオート三輪車で方々の植林地へ運んで配っていました。私(Aさん)も夜中になるまで配っていたことを憶えています。苗木を運んで札付けしてから戻ってくると、毎日夜遅くになっていました。鈍川温泉から上流に6㎞から9㎞ほど上がった所に木地地区の集落があります。現在は家が1軒もなく、別荘が点在しているだけですが、そのころには40軒くらい家がありました。それから鈍川小学校の木地分校もありました。児童数が全校で40人ほどの小さな学校でしたが、木地地区の子どもたちはその学校に通っていました。私が苗木を木地地区へ運んで配っていると、地区で世話をしてくれる人が、『もう腹が減っとろうがね。』と言って、餅を焼いて御馳走(ちそう)してくれたことを憶えています。その当時、苗木の配布をしていた時期は本当に忙しかったです。森林組合の従業員も少なかったのですが、毎年2日くらいは徹夜で仕事を行っていました。そうしないと間に合わなかったのです。植林は3月に入ってから4月一杯くらいまで行っていました。それと並行して植林地のコンパス測量を行っていて、測量をしながら山を回って面積を算出し、それを基に補助金を申請していました。補助金は県の5月の出納閉鎖に間に合うように申請しなければなりません。期限に間に合わないと補助金が出ないので、間に合うように申請書を提出する必要があります。申請書を提出した後、県の林業改良指導員がその書類を確認し検査をする必要があるので、5月10日くらいまでには申請書を提出する必要がありました。鈍川でも当時100軒くらいの林家が、多いときには100haくらい植林を行っており、その時期が3月と4月に集中していました。申請書を提出するためには測量もしないといけませんし、面積を算出して、苗木の購入費がいくら、植え付け費がいくらと計算し、全体の費用を算出しなければなりません。そのようなことで3月から5月にかけては非常に忙しかったことを憶えています。森林組合は、補助金が出ると植林した林家に補助金を渡していましたが、その際、1%くらいの手数料を引いて渡していました。」
エ 林業ブーム
「当時はなぜそのように植林をしていたのかというと、木材が高く売れていたからだと思います。終戦ころは方々が焼け野原だったので、戦後しばらくの間は、どのような木材でも高く売れる木材ブームが起こりました。それが、昭和50年代の後半ころから平成の初めころになると、木材も量より質が求められるようになりました。例えば、ヒノキでも節のない無節材の需要が高まって、無節材が高く売れるようになりました。そのため森林組合が指導をして、みんなが植林をしてから頻繁に枝打ちを行い、無節材を作るようになりました。そうすると飛ぶように売れたことを私(Aさん)は憶えています。
そのように木材が高く売れていたので、他の商売でお金を稼いだ人が山にも投資をするようになりました。昭和40年代のことだったと思いますが、今治のタオルの景気が良かったころ、タオル業者が鈍川地区で多くの林地を所有していました。ある業者は鈍川地区に350haもの土地を購入し、林業の専門家を雇用して林地を経営していたことがあります。他のタオル業者の中にも多くの土地を所有している方がいましたし、東京や松山の他業種の会社も多くの土地を購入していたことを憶えています。そのころは、融資造林といって国が3.5%くらいの低い金利で融資を行い、造林を推進していました。また、林地を購入する取得資金も同じような金利で融資をしていました。今でこそ3.5%というと高い金利のように感じてしまいますが、当時としては非常に低い金利でした。そのようなこともあって、多くの企業が林業に参入していたのではないかと思います。」
(4) 林業組合の仕事
ア 伐採・搬出
「私(Aさん)が森林組合で働いていたころ、森林組合では植林のほかに、林道の開設や木材の伐採・搬出、間伐や枝打ちなどの仕事をしていました。森林組合が組合員からそれらの仕事を請け負っていたのです。玉川森林組合の職員は7人ほどでしたが、そのほかに伐採などの仕事を行う作業班を作っていました。作業班には昭和50年代の最も多いときで35人ほどいて、依頼に応じて、国有林や公有林、民有林の伐採・搬出を行い、市場に出していました。トラックも2台所有していたので、トラックで木材を搬出して市場で市売りし、組合員に売上金を払っていました。
現在では木材の価格も下がっていますが、価格が良かったときは多くの木材が売れていました。森林組合では、市場を月に2回くらい開いて市売りをしていましたが、毎月9日と25日ころに市場を開いていたのではないかと思います。現在では少なくなりましたが、かつては玉川にも製材業者がたくさんあり、多くの業者が買いに来ていましたし、高知や広島などの県外からも業者が買いに来ていました。買方登録業者として110余りの事業体が登録し、毎回の市売りに30以上の業者が参加していました。それらの業者が落札した木材は、自家用トラックか運送業者のトラックによって引き取られて行きました。市場がなかったころは、製材業者は直接林地に行って、個々の山林の所有者から木材を購入していました。終戦後はずっと、山師と呼ばれる人が木材の売買を斡旋していました。昭和40年代の後半に玉川森林組合の市場が開かれ、昭和50年代に移設されたので、昭和50年(1975年)ころまでは山師がいたのではないかと思います。」
「木材がよく売れていたころは、林業架線を設置して、架線で木材を搬出していました。それから、私(Bさん)が組合長になったころには車で木材を搬出するようになりました。バックホーで開設した作業道を運搬車が通って、木材を運び出すというように変わってきました。林地に作業道を開設すると、所有者にとってその作業道は、軽トラックで林地を見に行くための管理道になります。そのため、バックホーで作業道を開設して木材を搬出することが推奨されていました。」
イ 木材市場の開設
「玉川では昭和41年(1966年)から昭和44年(1969年)ころに第1次林業構造改善事業の指定を受けて、林道事業で大きな林道を開設しました。その後、昭和51年(1976年)から第2次林業構造改善事業の指定を受けて、木材市場を設けることになりました。
その数年前に玉川ダムの近くにダムの建設残土を置いていた広い土地があったので、その土地を借用して市場を始めていたのですが、第2次林業構造改善事業の補助金を利用して本格的な市場を作ろうということになったのです。それで、法界寺地区のもともとミカン畑だった土地を購入し、市場を移設しました。その市場が成功して多くの木材が売れていたので、森林組合にとっても良かったし、組合員にとっても良かったです。ただ、市場は現在もありますが、近年は木材があまり売れなくなり、価格も安くなったので厳しくなっていると私(Aさん)は聞いています。」
ウ シイタケ栽培について
「造林はスギやヒノキが中心ですが、広葉樹のクヌギの造林も行われていました。クヌギはもともと木炭の原木でしたが、木炭が生産されなくなってからは、シイタケ栽培用の原木として使われました。原木としてはクヌギが一番良いのです。玉川森林組合では、シイタケの種菌の斡旋や植え付けの指導をしていました。県内には、乾燥シイタケや生シイタケの販売も行っている森林組合もありましたが、玉川では販売は主として農協が行っていたことを、私(Aさん)は憶えています。」
エ 現在の木材市場
「私(Aさん)が30年前に森林組合を退職した平成の初期ころ、木材市場では良い木材は売れていたので、まだ何とかなっていたように思います。ところが、20年前ころからはなかなか木材が売れなくなってきました。現在でも貯木場に木材はありますし、市場で売られています。しかし、森林を全伐することはほとんどなく、間伐がほとんどです。間伐材の中にも大きな良い木材がありますが、やはりしっかりと間引きをしないと大きくなりません。植林にしても、最近では玉川全体で年に20aくらいしか行われていません。昔を知っている者からすれば考えられないことです。
私も少し林地を所有しており、そのほとんどに植林していますが、昔ならとっくに切っているような木ばかりです。戦時中に供出するために木を切った後、昭和18年(1943年)ころに苗木を植えたものが一番古く、樹齢が80年くらいになります。そのほかにも樹齢が60年、70年の木が多くあります。以前であればすでに切って売っているはずの立派な木ですが、今はなかなか切ることにはなりません。そのようなかなり大きな木が、私の所有する林地だけではなく、どの林地でも見られます。」
「私(Bさん)が森林組合で仕事を始めた昭和50年代から平成の初めころは、多くの木材が市場に出ていました。玉川森林組合でも国有林の太い木を多く切り出して市売りしていましたが、一番良いときにはヒノキだと1㎥当たりの値段が20万円から30万円以上していたと思います。そのため、四国中から銘木店が買いに来ていましたし、中国地方からも買いに来ていました。当時は買い手がたくさん来ていたので、値段も上がっていました。しかし、現在では建築様式も変わってきて、質の良い木材が必要なくなりました。木造の家でも、柱が見えるように作らず、ボードで包み込んでしまうため、木材の質は関係なく、どのような木材でもよくなってしまいました。神社仏閣でもなければ、樹齢の古い木は必要なくなってしまったのではないかと思います。以前は玉川でも質の良い木材を作るために頻繁に枝打ちをして無節材を作ろうとしていましたが、近年では枝打ちも行わなくなりました。久万高原町の森林組合などでも、以前は磨き丸太や搾り丸太などを作っていましたが、今はそれほど売れないのでやめているそうです。現在、玉川にも大きく育っている木があります。植林してから下刈りや間伐を行うなど、今までかなり山林に投資をしてきたので、安い値段で売ることはなかなかできませんが、時代には勝てません。」
(5) 越智伊平組合長の思い出
「私(Bさん)は越智伊平組合長の後に玉川森林組合の組合長になりました。私はまだ50歳になっていませんでしたが、越智先生に『お前が次をやれ。』と言われ、組合長をすることになりました。越智先生が組合長を務めている間は専務理事として、先生の代わりに会合に出席したりはしていましたが、妻に『組合長をすることになった。』と言うと、『先生の後であなたができるの。』と心配されたことを憶えています。しかし、越智先生の下にいたので、多くの人に巡り合うことができて、助けてくれる人も多かったです。越智先生は建設大臣、運輸大臣、農林水産大臣を務めましたが、橋本内閣で農林水産大臣に就任し、『これから林業行政も良くなる』と思っていると、体調を崩されて残念なことになってしまいました。
越智先生は玉川出身で、木地地区に山林を所有しており、だいたい週末には東京から帰られて熱心に山林を回っていました。土曜日の正午ころに必ず、先生から『今日午後から山に行けるか。』と電話が掛かってきて、一緒に先生の所有する山林を回っていました。雨が降っているときなどは、先生は谷から出ている排水用の暗渠(あんきょ)の状態を確認し、木が詰まっているときには車を止めさせ、いつも車に積んでいたとびを使って詰まった木を自分で取り除いていました。また、よく役場に立ち寄り、町長などに『梅雨のときや長雨のときは職員に林道を回らせて掃除をさせたらどうか。』とか『暗渠が詰まっていたら、舗装された道路の上を水が流れて道が流されてしまうぞ。』などと話していました。先生は国会議員だったため普段は東京にいましたが、林業に対して熱意を持っていたことを憶えています。
越智先生は、内水面の蒼社川漁協の組合長も務めていました。歴代の組合長は町長が務めることも多かったのですが、先生が組合長を務めたのは、山と川と海は一体であるという信念を持っていたからではないかと思います。先生はよく『山と川と海は一体だから、山をきちんと手入れをして、ミネラルを含んだ良い水が出ると、川の魚も海の海藻も魚も良くなるんだ。』と言っていました。地域のことを考えて熱心に活動していましたが、『林業はちゃんとやらないかん。』と言って、いつも林業のことを心配してくれていたので、本当に森林が好きだったのだと思います。」
(6) 林業の役割
「私(Bさん)は現在、『災害に強い山』を作る必要があると思っています。二酸化炭素濃度の上昇による温暖化の問題もありますし、雨でも昔は長雨で災害が起こるということがありましたが、現在のように短時間に多くの雨が降るということはあまりなかったのではないかと思います。
昔から蒼社川は暴れ川といわれていて、上流の山の奥地に木を植えないといけないということで造林が進められてきました。玉川の山林の地質は花崗岩が風化してできた真砂土という山崩れを起こしやすい土壌で、山林に作業道を開設しても雨が降ると流されてしまいます。以前に宇和島の方へ作業道を開設するための研修に行ったとき、作業道を固めるための土は玉川とは全く土質が違っていたため、『これだったら流されないな』と驚いたことを憶えています。
昔の山林では、スギやヒノキを植林して大きくなったら切る、利用する、そしてまた植林するという循環ができていました。樹齢の若い木ほど二酸化炭素を多く吸収するそうですが、現在の玉川の木は、大きくなっても切り出す面積は小さいので、せめて間伐だけでも行って、地面に日光が当たって下層植生が十分に生育し、地力や保水力が維持される、災害に強い山にしないといけないのではないかと思います。
水の問題もあります。今治は昔から、タオルのさらし場などで水をふんだんに使ってきました。また、玉川の水を飲料水として島嶼(とうしょ)部の方にまで送水しています。私は『下流の人ももっと水のことを真剣に考えないといけないのではないか』と思っています。父が、『奥山へ雪が降らないと夏に水不足になるぞ。』とよく言っていました。雪でも雨でも山に降ったものが、じわりじわりと土に染み込んで、徐々に下流に流れていきます。今は山林の下層植生の生育が十分ではないので、雨が降っても水が土に染み込まず、地表を流れるだけになってしまっています。旧玉川町の約90%が森林ですが、日本全体でも約70%が森林です。災害が起きると特に、『二酸化炭素の問題や水の問題、そして災害の問題、森林の役割や大切さをもっと考えなければならないのではないか』と考えます。
スギやヒノキだけでなく、雑木であろうと竹林であろうと整備していなければもろい山になってしまいます。私は『間伐を行い、地表に日光が当たるようにしないといけない』と考え、組合長を務めていた間は組合員に、『間伐しようや、間伐しようや。』と言ってきました。
ただ、『間伐しよう。』と言っても、森林の所有者は自分でお金を出してまで間伐を行おうとはしないので、国や県、市が少しずつでも補助をしないと整備が進みません。現在は、『お金はいらないので間伐しましょう。承諾書に印鑑をついてください。』と言って、今治の方に訪ねていくと、『組合長さん、もう山をあげるので、どうにでもしてください。』などという答えが返ってきます。そういう人が多くなり、子どもも親に『金だけ置いておいてくれたらよい。不動産なんか一切必要ない。』と言う時代になってきました。今治に住んでいる人であれば、まだ何とか話もできますが、県外に出ている人の中には、『触らないでほしい、放っておいてほしい。』と言う人もいます。それでも、少しでも林家の収入につながるように、そして地域の山を守り、下流の人の命も水も守ることが森林組合としての使命だと思いながら、何とか間伐などを行って森林の整備をしてきました。」
(7) ひどくなってきた獣害
「私(Bさん)は長い間愛媛県の鳥獣保護員も務めていますが、最近ではこの地域も獣害が深刻になっています。有害鳥獣駆除は期間が定められ、許可も要りますが、『本当に保護が必要なのか』と疑問に思うようになってきました。イノシシやシカ、サルが多くなり、被害も年々拡大しています。シカは小さい苗木を食べてしまうため、林業にとって厄介です。しかし、これはお金をかけてネットを張るなどの対策を講じることもできますが、サルはなかなか対策が難しいようです。
玉川では炭焼きが衰退した後、シイタケ栽培が盛んに行われていました。ところが、ここ10年ほどサルがシイタケを食べてしまうので、生産者の高齢化とともにシイタケ栽培をやめてしまう人が多くなっています。山の中にシイタケの原木があるので、防ぎようがありません。私の家の畑でも野菜にかなりの被害が出ました。タマネギもやられましたし、友人から『サルがカボチャを抱えて道を渡っていたよ。』と言われて、畑を確認するとカボチャがなくなっていました。エダマメも被害を受けました。近所の方に『お客さんが来ていたよ。』と言われ、『誰でした。』と問うと、『誰って、サルよ。道路の縁石に腰掛けてエダマメを食べていたよ。大声を出して追い払おうとしたけど、全然逃げなかった。』と言われました。私も年を取って野菜もだんだん作れなくなってきましたが、作ってもサルにやられてしまいます。
獣害が拡大している原因として、獣が増えていることもあるかもしれませんが、以前と比べて現在では人が住む所と動物が住む所の境界が曖昧になってきているということがあるのではないかと思います。昔は『陰刈り』といって、林地と住居や畑との間のある程度の範囲の草をきれいに刈っていて、林地の所有者もその範囲には木を植えないことになっていました。また、水の流れる谷筋でも水田や畑に人の手が入って管理をしていました。そのため、山と里の境界がはっきりしていて、動物も人の住む所にはなかなか入って来られなかったのではないかと思います。ところが、現在では人の手が入らず荒れてしまって、人の住む所と動物の住む所との境界が曖昧になっており、そのことが獣害が拡大している原因になっているのではないでしょうか。被害を少なくするためにも、一度境界をはっきりさせる必要があるのかもしれません。」
(8) 次世代につなぐ
ア 水と緑の懇話会
「林業は空気、水を守るためにも、災害を防ぐためにも大切なものだと私(Bさん)は思います。今治では昭和62年(1987年)に『今治地方水と緑の懇話会』という組織が先人たちの努力によって作られました。今治市長をはじめ、県や市の議員や、今治市の職員、森林組合関係者、市民有志でこの懇話会を組織しています。年に1回総会が開かれるのですが、毎年、総会の日には植樹活動を行っています。市内の小中学生と一緒に手入れされていない竹林を伐採し、クヌギを植林したりするような活動で、小中学生が成長とともに森林の成長を見ることができるように、近くの山で実施しています。
また、文化祭を市や農協、森林組合と一緒に実施していますが、そのときにもパネルを展示して林業に対する啓発活動を行ったりしています。そのときに人気があったのが、子どもを対象にした木工教室です。本箱を作ってもらって木の良さやぬくもりを感じてもらうことを目的としています。材料や道具は懇話会でそろえ、けがが怖いので保護者の方に付き添ってもらい、地域の大工さんなどにも手伝ってもらってイベントを実施しています。20年以上続けていますが、多くの人に参加してもらいました。そのような活動が認められて、懇話会が全国育樹祭で表彰されることになり、私が代表で出席することになりました。その年の全国育樹祭は沖縄で行われましたが、秋篠宮様御夫妻に話を聞いていただいたり、質問を受けたりして、良い経験をしたと思います。」
イ 家づくりセミナー
「昔から、家を建てるときはその土地で育った木を使うと家が長持ちするといわれています。また、家が建つと木材が売れるだけでなく、瓦屋さんや畳屋さん、建具屋さんなどの家づくりに関わるさまざまな業種が潤います。森林組合では、今治市や県の林業課と一緒に、設計士や工務店も入って、『家づくりセミナー』を開催していました。そのときも子どもが来てくれると保護者も一緒に来てくれるので、木工教室を実施したり、施工中の家を見学してもらったり、以前は山で木を切り出す現場を見学してもらったりもしました。ヘルメットをかぶって、チェーンソーで木を切っているところなどを見学すると、感動して帰ってくれました。若い人は、壁を塗って菊間瓦で屋根を葺(ふ)くとかなり金額がかかるという印象があるようですが、それは誤解で、私(Bさん)は、他の工法と同じくらいの金額で、非常に良い木造の家ができると説明しています。」
図表2-2-3 現在の玉川の森林資源の植栽年度 調査協力者提供のデータより作成 |