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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 松丸の町並み

 松丸は、江戸時代には宇和島藩領の松丸、延野々、豊岡、富岡、上家地の5か村と吉田藩領の目黒村に分かれていたが、明治22年(1889年)の町村制の施行により明治(あけはる)村が成立し、昭和15年(1940年)には人口増加により町制を施行して松丸町となった。昭和30年(1955年)、松丸町と吉野生村が合併し松野町となった。いわゆる平成の大合併の際、松野町は他市町村と合併しなかったこともあり、現在、愛媛県内で最も小さい自治体となっている。
 松丸地区は松野町の北部にあり、北側を西から東に流れる広見川の右岸に位置している。JR予土線の松丸駅には駅舎を活用したふれあい交流館(ぽっぽ温泉)があり、町の主要な観光拠点を担っている。また、松丸地区の南方に位置する標高172mの独立丘陵には、中世の山城である河後森城跡がある。河後森城の天守は、藤堂高虎が宇和島城を築城する際に月見櫓(やぐら)として移築されたと伝えられている。
 松丸の町は、江戸時代末期より南予と土佐の交易の拠点の一つとして栄えた。そして、明治後期から大正期にかけて、登記所や警察署など公共機関の誘致を行うとともに、商業基盤を作り商工活動を活発にすることで、吉野に代わって松野町の中心へと成長していった。しかし、昭和28年(1953年)に国鉄宇和島線が高知県江川崎まで延長されると、松丸街道を利用した交易は衰えた。その後、広見川の左岸を通る国道381号が整備されると、松丸への人の流れは急速に減少していった。
 本節では、昭和30年代から40年代を中心とする松丸地区の町並みの様子や、地域でのくらしについて、Aさん(昭和11年生まれ)、Bさん(昭和26年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。