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遍路のこころ(平成14年度)

(1)接待講の活動②

 ウ 紀州接待講

 (ア)その沿革

 有田・野上の両接(施)待講が霊山寺で接待を行うのに対し、紀州接待講は徳島県日和佐町にある二十三番薬王寺で接待を行う。この接待講は、高野山に近い和歌山県のかつらぎ町や橋本市など紀ノ川上流の人々が中心であるが、それにとどまらず紀ノ川筋のほぼ全域を含み、最上流の奈良県五條市辺りから最下流の和歌山市までの広範囲に及んでいる。
 紀州接待講の始まりについては、現在使用されている「紀刕摂待所摂待名簿」や前田卓氏が紹介する明治初期の「紀州摂待講記録(④)」、接待講が薬王寺門前に建立した石灯籠(いしどうろう)の年号などを総合的に見ると、江戸時代後期の18世紀後半から19世紀前半と考えられる。このころに、紀州藩主徳川家の許可を得て始まり、さらに薬王寺門前の土地を借り受けて、藩主の命令で用材を紀州から運搬して接待所を建設したということである。
 その後、戦前の紀州接待講の様子については、前田氏が古老たちから聞き取り調査を行い、次のように記している。

   さて、古老の話によると、昔は先祖の祭事がすんでから、すなわち彼岸の結願日が終ってから(三月二十五~二十六
  日)、三隻の接待河船が五条市から紀ノ川を下り、両岸の部落で次々と接待品を積みながら、和歌山の青岸港まで下って
  いったのである。一般に山の手での接待品としては、柴が多く、そのほかの地方では米や沢庵が集められる。この接待船
  は赤と白ののぼりを立てて、何日の何時頃には、どこそこの岸に着くと、あらかじめ通知しておくので、世話人たちはそ
  の日のために村人たちから接待品を集めておく。各村々で集められた荷を積んだこの接待船は、(中略)二日がかりで和
  歌山の港に着く。この河船で集められた接待品は、徳島の日和佐港から魚を和歌山市に積んで来た二~三隻の漁船に頼ん
  で日和佐港まで運んでもらっていた。(中略)世話人と接待品を積んだ漁船が日和佐港に着くと、大勢あつまってきて船
  荷を引き上げてくれたそうである(⑤)。

 こうした紀州接待講の活動は、太平洋戦争の激化にともなって昭和18年(1943年)にいったん中断した後、昭和30年(1955年)に当時の講元・辻本房太郎氏らの努力によって再開された。

 (イ)現在の紀州接待講

 現在の紀州接待講の仕組みについて、接待講の講元を務める**さん(昭和3年生まれ)は次のように語る。
 「紀州接待講の組織は、まず講元の私と副講元・会計が講の三役と呼ばれ、それとかつて三役を務めていた長老が何人か相談役としております。三役のもとには各地区の世話人が1,500人近くいて、毎年春と秋には世話人さんたちに集まってもらって総会を開いています。この方たちが接待名簿を持ち、各家庭を回って浄財を集めてくれるのです。
 この接待講には、地元に信仰の拠(よ)り所になる大師堂があるわけではありません。しかし、浄財を集めてくれる世話人さんたちは、皆弘法大師を信仰している人ばかりで、浄財をいただくのも大体は真言宗の家からです。なお、各世話人さんたちが持つ接待名簿は帳面の形式になっていて、そこには金品を提供してくれた各家庭の人の氏名・住所・浄財の金額とともにそれぞれの願い事を書くようになっています。」
 また、平成14年の接待講の活動は次のとおりである。
 「今年(平成14年)は、3月27日から4月5日まで10日間の接待を行いました。この接待講はかなり広範囲な地域にわたるため、毎回接待に参加を希望してくれる世話人さんたちの数は多いです。ただ、それぞれ仕事があったりして10日間の期間中ずっと家を空けるわけにはいかない人もいますし、宿泊場所の問題もありますから、各地区ごとに3班に分かれて3泊4日ずつで接待を行うことにしています。各班20数名程度でやはり年配者中心になりますが、ちょうど春休み中のお孫さんを一緒に連れて来てくれたりもします。参加希望者には、和歌山県からここまで交通費自弁で、各自誘い合わせて来てもらいます。
 薬王寺に着くと、国道に面した門前の建物で宿泊し、そこの厨房(ちゅうぼう)で自炊する生活を送ります。この3階建ての鉄筋コンクリートの建物は、もとの紀州接待講の接待所を建て替えたもので、現在は建物の1階はお寺が納経所として使い、2階は接待講が、3階はお寺の檀家(だんか)がそれぞれ自由に使うこととなっています。ここでの滞在費用は接待の資金から賄いますが、自炊のための米・野菜を送ってくれる家庭もあります。
 近年の接待品は、タオル(手拭)1万本とお菓子です。これらの品物を、業者を探して発注し、薬王寺までに送っておいてもらうのです。接待所の建物の前にテントを張り、そこで参拝を済ませたお遍路さんに接待品を渡していきます(写真1-1-12)。」
 接待品を渡した時、お遍路さんの笑顔を見るのが自分たちにとっても大きな喜びだと、**さんは語る。
 「毎年このタオルをもらうのが楽しみだと、特にこの期間を選んでやって来てくれるお遍路さんがいます。また、去年もらったタオルで参拝用の帽子や笈摺(おいずる)を作ったと言ってうれしそうに見せてくれるお遍路さんもいます。
 総じて歩きの遍路さんたちは、接待品を手を合わせて受け取り、お礼も丁寧に言ってくれます。先達(せんだつ)が接待のことを説明してくれている団体の遍路さんの場合は、集団で接待品を受け取りに来ます。また、一人がもらうと、『どこでもらったの。』ということで、いったんバスに乗っていたのに走ってもらいに来てくれる団体の人々もありました。
 昔は遍路の格好をした人のみに接待品を渡していて、先輩からもそう教えられていたのですが、最近、『同じお寺に参っているのに、なぜ接待を受けられないのですか。』と言う人が出てきたので、今は装束に関係なくお参りを済ませた全員の方に渡すようになりました。そういったことで、もともと5千本程度だったタオルの数を1万本に増やしたのです。」
 しかし最近、他の接待講と同様に、接待の意味が分からない若い人々が徐々に増加しつつあることを感じていると**さんは言う。
 「接待は断わるものではありません。『同行二人』とは遍路とお大師さんがいつも一緒に歩いているということで、私たちはそのお大師さんに接待を行っているのです。しかし最近の若いお遍路さんの中には、『お接待です。』と言って渡そうとしても受け取らない人もいるので、無理には渡さないようにしています。
 地元で浄財を集めるにしても、若夫婦の家庭だといただけない場合もあります。接待の意味が分からず、なぜ四国の寺ですることに協力しなければならないのかというわけです。浄財が集まらないと、接待講の活動を続けるのは難しくなります。浄財を出してくれる家々の世代替わりによる問題も出てきているのです。」
 それでも**さんは、接待講存続へ向けての熱意を持ち続けており、その気持ちを次のように語る。
 「私は四国遍路の先達もしていますが、先達としてお遍路さんを案内して回っていると、特に春先にはあちこちで草餅やミカンの接待を受けます。接待を受けたお遍路さんたちに、今度は接待をやってみませんかと呼びかけたりもしています。」
 以上が紀州接待講のあらましだが、このように和歌山県からの接待講がいずれも戦後いち早く再開され、現在もかなりな規模を有している理由について、前田卓氏は、「その原因の一つとして、和歌山県は弘法大師が入定された高野山をひかえているために、今なお大師と共にあるという気持ちが強く“お大師さん”に対する親近感も強いからであろうか。(⑥)」と推測している。

 工 その他の接待講

 次に、香川県善通寺市の七十四番甲山寺に仲南(ちゅうなん)町七箇(しちか)帆之山からやって来る接待講について見ていきたい。仲南町は、琴平町を挟んで善通寺市の南に位置する町である。したがってこの接待は、戦前までは盛んであった近隣村落からの出張接待が今に続いている数少ない事例ということになる。
 七箇帆之山地区の接待講は天保年間(1830年~1844年)に始まったといわれ、毎年旧暦3月3日あるいは4日の1日間だけ接待を行う。以下、この接待講の調査を行った善通寺市筆岡郷土研究会(昭和62年〔1987年〕調査)と水野一典氏(平成4年調査)の報告を要約して紹介する(⑦)。
 接待の活動は、まず世話係が、地区の約200世帯から米・小豆・味噌・ねじ干し大根(丸干し大根)・百花(高菜)・たくあんなどを集めるところから始まる。世話係の20名ほど(この人数は昭和62年現在)はこれらの品物を持って甲山寺に来て、前日から境内の茶堂に泊まり込む。当日は、朝早くから茶堂の前に大釜を据えて煮炊きし、接待の食事を準備する。献立は小豆飯のおにぎりと豆腐汁(豆腐をはじめ様々な具の入った味噌汁)であり、それにたくあんや奈良漬を添える。おにぎりは、最近は二つずつビニール袋に入れて置くようになっており、これは、食べない人はそのまま持って行けるようにという配慮からである。
 接待場所の茶堂前には「摂待 香河縣仲多度郡 七箇村帆ノ山中」と書いた幟(のぼり)旗を立てておき、準備が整うと、境内の遍路に「お接待ですよ、食べていきな。」と声を掛けていく。呼び声に寄って来た遍路たちは心温まるお接待に感謝しつつ、そこに置かれたベンチに腰掛けて食事をもらう。そして接待品がすべてなくなると、接待講の人々は片付けをして帰って行くのである。
 甲山寺には、七箇帆之山の接待講以外にも、春の時期に岡山県倉敷市から道越講・道口講という二つの接待講がやって来て、それぞれ1日だけ遍路にパンや袋菓子などを配る接待を続けている(⑧)。また、甲山寺の北に位置する多度津町の七十七番道隆寺にも、かつては多くの接待講が来て、春には大変にぎわっていたという(写真1-1-13)。現在も道隆寺には、岡山県の数か所や広島県尾道市から団体で来るが、午前中に少し接待をしてすぐ金毘羅参りに出て行ったりして、今は接待講というよりもむしろ社寺参詣のための講の色彩が強い。
 そのほか、現在は消滅した四国外からの接待講としては、戦前まで松山市の五十二番太山寺に大分県臼杵(うすき)市周辺から来てうどんの接待を行った接待講(⑨)(写真1-1-14)や、徳島県小松島市の十九番立江寺に来た大阪府南部の人々による和泉接待講・信達(しんだつ)接待講が知られている。また昭和初期には、立江寺自身が、接待を行って善根を積むという「善根会」を組織しており(⑩)、こういった札所による接待講的組織もめずらしい。
 以上見てきたように、伝統的な接待講の活動は、数少ないながら現在も脈々と受け継がれている。ただ今後の存続という点については、いずれの接待講も、接待の意味が分からない遍路の増加や接待講参加者・後継者の減少傾向など、多くの問題を抱えているようである。

写真1-1-12 紀州接待講による二十三番薬王寺での接待

写真1-1-12 紀州接待講による二十三番薬王寺での接待

後方の建物の2階が接待講の人々の宿泊所となっている。平成14年4月撮影

写真1-1-13 七十七番道隆寺境内の巨大な接待碑

写真1-1-13 七十七番道隆寺境内の巨大な接待碑

備前・備中(共に現岡山県)及び備後(現広島県)の接待講が文政10年(1827年)に建立した。平成14年9月撮影

写真1-1-14 五十二番太山寺境内の「饂飩(うどん)接待講」の寄附石

写真1-1-14 五十二番太山寺境内の「饂飩(うどん)接待講」の寄附石

平成14年7月撮影