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遍路のこころ(平成14年度)

(2)遍路にみるさまざまな交流

 ア 地域に定着し、地域に生きた遍路

 愛媛県上浮穴郡久万町の下畑野川地区は四十五番岩屋寺の打戻りの地で知られる。そのため、この地域の河合集落(写真2-1-4)には多くの遍路宿があり、遍路は旅客としてこの地域の経済を潤しただけでなく、地域社会や文化にも大きな影響を与えたといわれている。
 郷土史家の名智禾之氏の「畑野川文化年代記」によると、「この地に泊まったお遍路さんの中には、山中に開けた畑野川の小盆地を好ましい所と感じて落ち着く者もおり、そうしたお遍路さんを先祖とする家が少なくない。」と記し、中には出生地での経験を生かして、畑野川の発展に貢献した人もいるという。その例として、明治の初年(1868年)九州から来てこの地に落ち着いた日野西千代蔵をあげている。彼はこの地方の牛馬商の元祖となり、取り引きを拡大し、貸し付け飼育をはじめ地方の畜産に寄与した人であるという。
 また、「経済や産業のみならずむしろ内面的な文化面にこそより深いものがある。」として、「法印や尼僧等で土着し、知識人として土地の人を陰に陽に啓発指導した」ことが、地域の文化に大きな影響をもたらしたとし、実名はあげていないが、「そうした祖先を持つ家は家柄」とされていると述べている(⑬)。
 さらに名智氏は、遍路と地域とのトラブルが政治的・社会的問題になった例も紹介している。
 文久元年(1861年)、「紀州室郡防己村の百姓庄九郎が遍路中、上畑野川明杖でけがのため薬を強要し、土地の者に殴打されて死亡した。所持の往来手形から御三家紀州藩の百姓とわかり、関係者らは色を失ったが、西明神村庄屋梅木源兵衛、久万町村庄屋鶴原太郎次が関係者を連れ紀州に赴き、事件はようやく決着した。」という。事件後、ほぼ1年余を経ての決着であったが、この山間の辺地に起こった一小事件が親藩(松山藩)と御三家(紀州藩)の問題になり、「藩の格式、身分と身替わり、当時の人命補償額、事件と所替え、祈願の習わし等、封建社会の種々相をうかがうことができる。」と結んでいるが、事件は村人の誠意ある交渉で解決されたという(⑭)。
 「畑野川文化年代記」には、「畑野川の川筋に沿って上畑野川に通じる里路があるため、この道筋を通る遍路が往々いた。特に単独の風来遍路はよくこの道筋にはいり、その身軽さから滞在し、土着した者も多かったようである。(⑮)」と記しているが、この畑野川の地に近く、四十五番岩屋寺のある美川村に定着して大きな足跡を残した人物がいる。
 坂本正夫氏が、昭和62年(1987年)に聞き取り調査したところによると、明治4、5年(1871、72年)のこと、愛媛県上浮穴郡仕七川村(現美川村)へ、風来坊みたいな遍路がやってきた。身なりはよくなかったが、字を書かせても画を描かせても、また話をさせても優れていたので庄屋(戸長)に認められて奉公人として働いていたが、やがて見込まれて村の農家へ養子に入った。この男性は尾張名古屋(愛知県)の商家の九男で、「お前はいらん(必要のない)子供じゃあから、家におっても食えんからどこへでも出て行け。」と親に言われたので、遍路となって四国路を放浪していたのであった。なお、この男性は後に村の有力者となり、村長を務めたと報告されている(⑯)。『美川村史』にもそれと思われる人物が存在し、人柄や才能が認められ、後には村政にも関与し、産業の開発や教育の振興に努め、村の発展興隆に大きく貢献している(⑰)。この伝承事例などはまさに遍路が地域に定着し、地域と共に生き、地域に貢献・寄与した典型的なものであろう。

 イ 百姓一揆の逃亡者にみる四国遍路

 天保4年(1833年)以来の天候不順は、全国的に一揆や打ちこわしを頻発させた。
 天保7年8月、甲州郡内地方(現山梨県の旧都留郡)に端を発し、甲州一円を一揆の渦中に巻き込んだ甲州郡内(ぐんない)騒動は、郡内犬目村兵助と下和田村次左衛門(武七)の二人を頭取に米価引き下げ要求を中心に計画・実行されたことに始まるものであった。しかし、その意図に反して、一揆は激化し甲斐国幕領全域に及んだ。この一揆が鎮圧された後、頭取の一人次左衛門は獄死している。この騒動は江戸では瓦版までが発行されたほどの大事件であったという(⑱)。
 この騒動の鎮圧直後の7月26日、頭取の一人兵助は潜伏した犬目村(現山梨県上野原町)から逃亡し、幕府は「永尋(ながたずね)」として無期限の捜索を命じた。この逃亡した兵助の天保7年9月6日から、翌8年7月(または8月の)20日までの10~11か月余の記録と旅日記が残っている。増田広実氏はこの日記に対して「この旅日記の内容は必ずしも豊かでないが、こうした逃走生活を可能にした社会的基盤について、考えてみる必要を感じる。(⑲)」と問題提起している。
 この逃亡日記(⑳)によれば、犬目村を脱出した兵助は、秩父三十四霊場から北陸路に出て西国三十三霊場を南下し、丹波国・播磨国(現京都府・兵庫県)を経て、天保7年12月10日備前国(現岡山県)から四国讃岐国(現香川県)の地に入っている。この四国での兵助の逃亡行程の概要は次のようなものである。
 12月10日、岡山県の下津井から丸亀の城下に入り、金毘羅(こんぴら)を参詣(さんけい)している。翌日には「(七十五番)善通寺お始メ、当日五枚内納申候」とあり、それから逆打ちに六十九番観音寺、六十六番雲辺寺などを打って、12月21日に伊予の地に入り、六十五番三角寺奥之院仙龍寺に参詣とある。
 伊予路に入ってからは、六十五番三角寺・六十四番前神寺・六十一番香園寺などを打った後、妙口村(現小松町)では、村人の好意で年末の29日から正月の4日まで逗留(とうりゅう)している。その後、朝倉村・菊間町・北条市などを経て、2月に入って五十三番円明寺、五十二番太山寺を参拝して、4日には道後温泉で入湯している。その後、五十一番石手寺、五十番繁多寺、四十八番西林寺などを打ち、2月13日に三坂峠を越えて東明神村(現久万町)に入っている。この東明神村では、3月9日まで長期間逗留して、この間に四十四番大宝寺、四十五番岩屋寺に参詣している。
 その後、3月13日には「上島城下口泊り申候」とあるが、ここで「土佐国御関所御通シ無之候二付」と記し、土佐国への入国の厳しさを知って踵(きびす)を返し、翌日東明神村に戻っている。この「上島城下」が宇和島とするなら、ここから東明神村まで1日で引き返すのはかなりの無理があり、大洲城下または新谷辺りから引き返したとも考えられる。道後温泉まで引き返してからは、再度石手寺や繁多寺などを参詣してから今治市方面に足を向け、4月2日には「今張城下へ出、便船をかり大島へ渡り、新国八十八ヶ所を廻り始申候」と記し、12日には「大島之新国八十八ヶ所不残相納申候而大願相済候」と大島島四国廻りの大願成就を果たし(大島島四国の詳細は次節で記す。)、伯方島、岩城島、生口島、大三島を経て、4月21日安芸国(現広島県)の忠海町に渡っている。
 この四国滞在期間120日余の宿泊をみると、阿波国山城谷村(現徳島県山城町)の「観音堂」、伊予国に入り今治方面に向かう遍路道周辺で、「西累村大師堂」、「香園寺お堂」、「万額寺」でそれぞれ1泊している。桧山から今治を経て広島方面に向かう道筋では、遍路道から外れた松山市興居島で納屋2泊、野宿1泊とあり、越智郡大島で氏宮1泊、大三島で野宿1泊とあるが、その他は民家、百姓家、また木銭を払っての宿泊になっている。その木銭も20文前後(12文~30文)で、平均でも20文以下と推定される格安である。なお、本州路で記録されている木銭は72文、40文、安くて30文とあり、宿賃は272文との記述もある。
 さらに、3月21日には8か所で接待を受けたとの記事があるが、山本和加子氏は、「遠く東国からやって来て、いかなる事情を持つ人かわからなくても、接待は公平におこなわれていたのである。(㉑)」と四国遍路特有の接待に言及している。
 また、この四国滞在中のそろばんの指南(日記では「仕南」)は特徴的である。
 この四国滞在中のことについて、新城常三氏は、「彼の四国中の宿泊所は、多く百姓屋で、木銭を払ったほか、算盤教授や家相看で宿銭を稼いでいる。」と記し、さらに大師堂などの無料宿泊所や接待は四国特有のものである(㉒)と言及している。たしかに、この四国にいる間120日余で、野宿や寺社・お堂・納屋などでの宿泊はわずか9泊で、しかも野宿と明記されている2泊は遍路道を離れた島しょ部である。その他は民家、農家、木賃宿などに泊まり、また、多くの善根にもあずかっている。これは四国を出てから高野山に参詣するほぼ60日間における日程のうち、野宿あるいは野宿に近いと想像される宿泊が3分の1を越えるのと比較しても随分の差があることが分かる。ここにも四国特有の風土がみられる。
 なお、四国では未知の旅人であっても、遍路であればその受け入れには比較的寛大であった。とりわけ、その遍路が特別の知識や技術を有していればなおさらであった。兵助の四国滞在中のそろばん指南は、それを端的に物語っている。村人は進んでその技術を得ようとしている。ここには、そろばんを介して兵助と村人との間に文化交流があったと言っても過言ではなかろう。この時の兵助には「永尋」の逃亡者の面影は感じられない。
 ここにも四国特有の遍路と地域の人々との接触の様子をうかがうことができる。

写真2-1-4 かつて遍路宿が集まっていた河合集落 

写真2-1-4 かつて遍路宿が集まっていた河合集落 

久万町下畑野川。平成14年7月撮影