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遍路のこころ(平成14年度)

(2)四国八十八ヶ所霊場周辺の新四国④

 (エ)お山四国巡拝の思い

 新仏を弔うために石手寺お山四国を巡拝するという風習について、松山市恵原町の**さん(大正10年生まれ)に聞いた。
 「私の祖父が亡くなった折には、両親に連れられて石手寺のお山四国にお参りした記憶がある。私の母は弘法大師を信仰しており、歩いて本四国を巡拝した経験もあり、毎月20日の石手寺の縁日にはお参りを欠かさなかった。当時、石手寺をお参りすると言えば、仁王門右手の茶堂大師の参拝を指し縁日は大変なにぎわいであった。また、母は『お山参り』と称して、お山のお大師さんを半日かけてお参りしていた。私も連れていってもらったことがあるが、まず茶堂大師を拝み、前山(まえやま)(西山)の頂上では市内の景色(写真2-2-32)を眺めながら弁当を食べ、後山(あとやま)(東山)を巡拝して帰ってきていた。お山の頂上で食べる弁当が楽しみであったことを今でも覚えている。昭和63年(1988年)に母が亡くなった際にも、白木の位はいを持ってお山四国を巡拝させてもらった。お山四国では、新仏の49日までに白木の位はいを持って巡拝し、結願の札所にその位はいを納めるか、檀那(だんな)寺に納めている。最近は檀那寺に納める場合が多く、年に一度供養したあとで焼却してもらっている。この恵原付近では家族が亡くなると、できるだけ早い機会に石手寺のお山四国を位はいを持って回ってあげると新仏が成仏できるとの考え方があり、その習わしが今も残っている。昨年のことであったが、信仰のあつい親戚の家では15人もの家族や縁者がお山参りに出かけた。」
 また、お山四国を参詣する人たちがどのような気持ちで参詣しているのか、毎日の茶道大師参りと、月に一度のお山四国参りを欠かしたことがないという**さん(昭和15年生まれ)に聞いた。
 「私は子供のころから信心深い母に連れられてお山四国を巡拝していました。母は94歳で亡くなりましたが、91歳まで元気にお山四国をお参りしていました。母は、百日咳(ぜき)にかかった1歳の私を背負って、はだしでお山四国に願(がん)をかけてお参りし、全快したことを口癖にしており、『あなたはこのお山四国で助けられているのだから』と、いつも言っていました。お陰で私は、子供のころを含めて嫁いでからもいつも母と姉と実家の嫁さんと一緒に巡拝を続けてきました。その後、母が亡くなってからは、姉と実家の嫁さんとの3人で月に一度の巡拝を続けています。都合のよい日曜日の7時ころに石手寺に集まって、まず、茶堂大師と穴場地蔵をお参りし、2時間ほどかけて西山と東山を巡拝していますが、主人と一緒に巡拝したこともあり、また実家の孫も一緒にお参りすることもあります。
 巡拝の際はお米を少々持参し、札所の本尊と大師像にお供えし、余った分はありがたいお米として家族で食べさせてもらっています。また、東山の弘法大師像が建っている広場で(写真2-2-33)軽い朝食をとり、3人でおしゃべりしながら巡拝を続けています。月に一度、巡拝をしないと気分的に落ちつかず、お参りするとほっとするし、来月もまた行こうと希望がわいてきます。10年ほど前になりますが、足の痛みの快癒を願って、お山四国に1年に千回の願をかけて1日に何度も巡拝していたおじいさんがいました。昔はお山四国の参道も狭くてけもの道のような状態でしたが、最近は整備されて日曜日には10人ほどがお参りしています。私たちは、巡拝の際には遍路道の草刈りをしながら歩き、雨の日でも傘をさしてお参りしています。平成14年8月11日の日曜日にお参りしていた際、新仏の位はいを持ってお山四国を巡拝している家族に出会いました。私の母が亡くなった際には、49日までに位はいを白い布でたすき掛けして巡拝しました。私も足が丈夫な間は、毎日お大師様(茶堂大師)にお参りし、月に一度はお山四国を巡拝させてもらおうと思っています。」

写真2-2-32 西山頂上からの松山市街の眺望

写真2-2-32 西山頂上からの松山市街の眺望

松山市石手・東野方面を望む。平成14年11月撮影

写真2-2-33 東山頂上の広場

写真2-2-33 東山頂上の広場

64番の石仏と高さ16mの弘法大師像。平成14年6月撮影