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遍路のこころ(平成14年度)

(1)展示室による保存

 ア 常設展示

 (ア)前山おへんろ交流サロン

 八十七番長尾寺から八十八番大窪寺に向かう途中の前山ダム湖畔(香川県さぬき市前山)に、さぬき市営前山おへんろ交流サロン(写真3-2-1)がある。平成11年11月にオープンした前山おへんろ交流サロンは、遍路にスポットを当てた展示施設としては、全国で初めて作られたものである。開館以来前山おへんろ交流サロンの運営に携わっている**さん(昭和4年生まれ)と**さん(昭和6年生まれ)によると、設立の経緯は次のとおりである。
 昭和50年(1975年)に前山ダムが完成し、かつての前山村の中央部(中津地区)がダムの底に沈んだ。その結果、中津地区で分岐していた、長尾寺から結願(けちがん)の寺大窪寺へと続く遍路道の一部が、ダムの底に消えてしまった。その1本は、主に修行僧が通ったという女体山越えの道。もう1本は、中津地区から南に進む、大多数の遍路が通った道で、道標・石仏などが多く建てられていた。ダム建設の前後から、前山地区の民俗を保存・継承していこうという動きが起こったという。
 その後、両名が昭和59年(1984年)から『改訂長尾町史』の編集に取り組んだ時に、遍路資料の収集や遍路に関係する民俗資料の整理などを行った。これがきっかけとなって、徳島文理大学比較文化研究所の民俗調査の対象として四国遍路が取り上げられ、学術的探究も高まり、より総合的に資料の調査・収集にあたるようになった。
 平成10年農林水産省の補助事業として、長尾寺から大窪寺までの遍路道沿いに、体験学習・特産品販売・資料展示コーナーを設けた農村活性化センターが建設されることが決定された。この資料展示コーナーに、これまで収集してきた遍路資料を展示して、結願の町としての特色をアピールし、地域の活性化を図ろうということになった。こうして平成11年11月7日、資料展示コーナーをへんろ資料展示室として整備し、農村活性化センターの一部を前山おへんろ交流サロンとして仮オープンした(①)。
 約120m²のへんろ資料展示室には、四国八十八ヶ所の基礎を築いたといわれる弘法大師空海や行基の肖像画をはじめ、遍路が札所や旅の途中で投宿した農家などに、謝礼のしるしとして渡した納札、各札所の印が押された納経帳等の資料約100点を展示している。また、紺色の遍路衣装、遍路のスタイルや巡礼中のマナーなどの基礎知識や遍路の歴史年表のパネル展示もあり、遍路の歴史をひもとく上で数多くの貴重な資料が並んでいる。
 また、平成13年10月からは、四国八十八ヶ所の位置が一目で分かる大型立体模型(写真3-2-2)が展示され、評判となっている。四国山地などの標高差を忠実に再現したウレタン樹脂製の立体模型は、縦3m、横5mあり、そこに八十八ヶ寺を示す豆電球を取り付けている。各寺の名前が書かれたボタンを押せば、豆電球がともり、寺の所在地が分かる仕組みになっている。
 展示資料について**さんは、「開館当初から、天明元年(1781年)や弘化3年(1846年)の納経帳や接待を受けた遍路が残した納札・古い地図・手形など、四国遍路の歴史を感じさせる資料約300点を、展示室・玄関ロビー・体験交流室などに展示・保管しています。中でも、長尾町の農家の屋根裏から見つかった2,000枚以上の納札は、天明元年から現在までの200年間の接待の歴史と、全国から四国遍路に訪れていたことを確認できる貴重な資料です。開館当初は、地元長尾町の資料が70%、町外資料が30%でしたが、平成14年9月現在では、両者の割合はほぼ同程度となっています。また、最近は町外の遍路経験者や研究者からの寄贈が増え、現在では、八十八ヶ寺を描いたクレヨン画や水彩画、昔の札所の写真などを含む資料の総数は、約450点に増加しました。展示スペースに限りがあり、そのすべてを展示・公開できないのが残念です。」と語る。
 年に1、2回実施されている企画展も評判を呼んでいる。平成13年10月から平成14年9月まで開催された、100年前の霊場の写真パネル90点を紹介した「四国霊場八十八ヶ所札所 明治の姿」は、特に好評であったという。明治30年代から40年代にかけて撮影された写真で、木綿の着物に地下足袋の遍路姿など当時の様子がしのばれる物ばかりであった。スペースの関係で、香川・徳島と愛媛・高知の2回に分けて、3か月ごとの展示予定であったが、実際に目にした遍路や見学者から、八十八ヶ所すべてを見たいという強い要望があり、90点の写真パネルを一斉に展示するとともに期間を1年間に延長することを余儀なくされたという。
 前山おへんろ交流サロンの今後について、**さんは「四国八十八ヶ所の結願の地であるという特色を生かした、資料館作りに努めていきたいと思います。ここに来れば、遍路に関することは何でも分かる、何でもそろうという四国遍路の総括施設としての自負を持って取り組んでいきたいと考えています。また、最近は自分探しやリフレッシュ目的で参拝する人、趣味を兼ねて回る人、遊びを追求して歩く若者などいろいろな目的・価値観をもって巡る人が増えています。遍路道は時代を語り、歴史を語るといわれていますが、四国遍路も時代とともに変わりつつあります。今後とも、同行二人の思想やお接待の心を生かし、収集した遍路資料を四国の共有財産として大切に保存していきたいと考えています。」と語る。

 (イ)愛媛県歴史文化博物館の民俗展示室3「四国遍路」

 四十三番明石寺近くの丘の上に、平成6年11月に開館した愛媛県歴史文化博物館(愛媛県東宇和郡宇和町卯之町)がある。この博物館は、愛媛の地に生まれ住んだ往古からの人々の足跡をたどり、それに学び、新しい郷土を築く個性豊かな文化を創造するとともに、県民の生涯学習を推進することを目的として建設された。「愛媛のあけぼの」・「中世武家社会下の伊予」・「幕藩体制下の伊予」・「愛媛県の誕生と歩み」の四つの歴史展示室、「愛媛の民俗・祭りと芸能」・「愛媛のくらし」・「四国遍路」の三つの民俗展示室、考古展示室、文書展示室を常設し、体験学習室などを備えている。
 歴史文化博物館は、通常の歴史展示のほかに、民衆の生活に焦点をあてた民衆史及び愛媛の民俗の展示を大きく取り上げるとともに、家屋などを原寸で復元することによって、来館者が各時代の雰囲気や暮らしぶりを体感できることが大きな特徴となっている。
 四国遍路については、歴史的・民俗的考察のもとに、約300m²の独立した民俗展示室3「四国遍路」を設け、その中に「四国遍路の成立」・「四国遍路の盛行」・「近・現代の四国遍路」・「接待・善根宿」・「弘法大師伝説」などのコーナーを設置し、四国遍路の起源や遍路の変遷をパネルなどで紹介している。また、展示だけでは説明できない四国遍路の雰囲気を味わってもらうために、展示室中央の寺を模した映像シアターにおいて、四国の四季と遍路の風俗を組み合わせた11分間のイメージ映像を、15分おきに放映している。さらに、四国八十八ヶ所検索映像装置を設置し、札所番号をボタンで押すと、壁面の四国地図中の豆電球が点灯して札所の位置が提示されるとともに、モニター画面には札所ごとに15秒の長さで、山門・本堂・大師堂・そのほかの特徴的な建物が映写される。
 歴史文化博物館の民俗展示室3「四国遍路」の開設の経緯やその後の運営方針は、次のようである。愛媛県歴史文化博物館が開館した平成6年当時、四国の他の博物館では四国遍路のコーナーは設けられていたが、独立した展示室はまだない状態だった。そこで、四国を代表する重要な民俗の一つとして四国遍路をとらえ、四国遍路の風習及び四国遍路にまつわる伝統文化を収集・展示しようということになった。開館時の資料は、約80件だったが、常設の資料を増やしていこうという歴史文化博物館の収集方針により、購入資料や寄贈資料が増え、現在では約170件の資料を備えている。特に、四国遍路の案内記や絵図などは年々充実し、現在は3か月に一度、展示資料を入れ替えているという。
 また、歴史文化博物館は、生涯学習の施設でもあるという館の性質から、展示だけではなく、県民を対象に民俗講座なども毎年開講している。平成7年以降、四国遍路に関係する講座としては、「空海と四国遍路」、「道中記に見る江戸時代の四国遍路」、「遍路人 中務茂兵衛の話」、「受け継がれていく四国遍路の道」、「ふるさとおもしろ講座 四国遍路」などが開講されてきた。
 平成12年11月から平成13年2月にかけて、「四国遍路の出版物-江戸~昭和のガイドブックとガイドマップ-」と題したテーマ展も開催された。これは、歴史文化博物館の館蔵資料を中心に、江戸時代中期から昭和40年代にかけての四国遍路の絵図や案内書などを展示し、収集資料の成果を公開するとともに四国遍路の出版物の特徴やその変遷を紹介したものであった。四国遍路の絵図や案内図、金毘羅の絵図、版木や納経帳など47件が展示された。このテーマ展の期間中に、体験学習教室として、「史跡巡り 遍路道を歩く」が催され、43人の参加者が、四十一番龍光寺のある三間町戸雁から四十二番仏木寺を経て歯長(はなが)峠の途中まで、約3kmの遍路道を歩き、好評であったという。
 今後の展示室運営について歴史文化博物館では、納札を初めとする様々な館蔵資料の整理・研究を進め、資料の充実に努めるとともに南予地方に残る茶堂とお接待や四国遍路との関係についても調査していくとのことである。

 イ 朝倉ふるさと美術・古墳館の企画展示「四国遍路展 未来へ続く祈り」

 四国八十八ヶ所を描いた木版画や水彩画、武田徳右衛門の遍路道標の資料を展示した「四国遍路展未来へ続く祈り」が、平成14年6月1日から7月28日まで、朝倉村立朝倉ふるさと美術・古墳館(愛媛県越智郡朝倉村大字朝倉下)で開催された。武田徳右衛門は、主に寛政6年(1794年)から文化4年(1807年)にかけて、四国の遍路道に遍路道標を建立した地元朝倉出身の人物である。道標の分布を示した地図や石に彫られた文字の記録、道標の写真など約50点を、遍路道と遍路道標を調査する**さんと朝倉村史談会の会員らが持ち寄り展示した。また、無量寺(朝倉水ノ上)所蔵の武田徳右衛門奉納・府中二十一ヶ寺霊場開創記念宝鏡も展示された。
 朝倉ふるさと美術・古墳館によると、「四国遍路展 未来へ続く祈り」の具体的内容は次のとおりである。
 「今治市との合併問題が現実化している今、朝倉村の歴史、文化、良いところをみんなに知って欲しい。朝倉村の歴史を残したい。」という思いで始めた企画展である。また、朝倉村の歴史を紹介することにより村の活性化を図りたいという思いもあり、村の広報紙を通じてスタッフ募集を行い、総勢70名を超えるボランティアの協力により運営されたという。
 第1部は「朝倉にこんな人がいた!」と題して展示した、武田徳右衛門の道標に関する資料約50点。第2部は西条市在住の**さん制作の「四国八十八ヶ寺札所版画」90枚。第3部は松山市在住の**さん制作の「四国八十八ヶ寺札所絵図」(本人は「四国霊場案内図会」と呼んでいる。)42枚。これらの作品は、3室の展示場に期間中展示された。また、期間中の土・日曜日には、館外の広場で、地元ボランティアによるぼたもちやお茶などのお接待が行われた。これ以外に、6月29日には、徳右衛門道標の研究者**さんによる講演、7月20日には、音楽巡礼を続けているシンセサイザー奏者**さんのコンサートが行われた。また、徳右衛門が開創した府中二十一ヶ寺霊場をバスで巡る現地探訪には地元を中心に43名の参加者があった。
 特に、**さんの講演は、村の広報紙で流す以外に特別な宣伝をしていなかったにもかかわらず、140名を超える聴衆が集まり、関心の高さに驚いたという。また、**さんのコンサートの会場作りや駐車場の整理などの運営には、50名を超えるボランティアの人々が朝早くから参加し、約850人の聴衆が集まり盛況だったという。
 展示室の雰囲気作りにも細やかな気配りがなされ、遍路の気分を味わうことができるよう工夫されていた。館入口の活け花は、ボランティアの協力で遍路道沿いに咲いている野の花を摘んできて、三日に一度の割で生け替えられていたという。また、展示作品下のスペースには、**さんの知人2名が和紙で作った21体の遍路道中人形が飾られ、来館者を遍路旅の雰囲気へと誘(いざな)っていた。
 朝倉ふるさと美術・古墳館は、今回の展示で、癒(いや)しの時代の中で遍路への関心がとても高いことや、朝倉村は信仰心の厚い地域であり、遍路や接待の土壌があることを再認識させられたという。来年度の企画展は、朝倉村の古墳から発掘された銅鏡を中心とした展示を計画しているが、今回の「四国遍路展 未来へ続く祈り」に寄せられた村民の思いやボランティアの心を大切に館の運営にあたっていくとのことである。

写真3-2-1 前山おへんろ交流サロンの全景

写真3-2-1 前山おへんろ交流サロンの全景

香川県さぬき市前山。平成14年9月撮影

写真3-2-2 へんろ資料展示室入口と立体模型

写真3-2-2 へんろ資料展示室入口と立体模型

前山おへんろ交流サロン。平成14年9月撮影