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遍路のこころ(平成14年度)

(2)新たな試み

 ア 四国音楽巡礼から世界音楽巡礼へ

 松山市在住の**さん(昭和24年生まれ)は、愛媛大学特設音楽科の講師の傍ら、地元FM放送局でパーソナリティーを務めるなど、信仰心や世界平和には縁のない生活を送っていた。
 ところが、昭和54年(1979年)9月6日、そんな**さんに突然人生の転機が訪れた。4歳の長男と妊娠中の妻が、オーケストラボックスから5m下に落ち、重体に陥った。瀕死(ひんし)の重傷を負い生死をさまよう状態であったころ、約40人いたピアノ教室の生徒の半数が、「**さんの指導が厳しすぎる。」という理由で辞めていったという。**さんは、「人間として、音楽家として、そして教育者としてどうすればいいのか分からなくなりました。そんな時、ふと気がつくと、幼いころから慣れ親しんでいた石手寺に行っていました。お遍路さんの一心に祈る姿や読経の声、線香の煙を眺めていると、不思議と心が安らいで、光のようなものが見えたんですね。それにすがるような気持ちで四国遍路を歩き始めました。それまでは信仰心もまったくなかったのに、おかげさまで二人とも回復することができました。」と四国遍路の動機を語る。
 石手寺を始めとして、昭和54年11月ころから昭和60年まで7年半をかけて八十八ヶ所を巡り、各寺ごとに1曲ずつ作曲して、「霊場組曲」を完成させた。最初は一人で巡っていたが、家族が回復してからは、一緒に巡るようになった。巡礼を始めて3年目、当時出始めていたばかりのシンセサイザーを使うようになり、お参りした後、その寺で作った曲をシンセサイザーで奉納演奏するようになったという。
 当時の曲作りについて**さんは次のように語る。
 「寺に入ると、感じるものがあります。ほとんどの寺は自然に囲まれていますが、その中の風のささやきとか、鳥のつぶやきとか、本尊が語りかけてくるものがあります。最初は自分が思いつくままに曲を書いていましたが、次第に自然からの訴え、自分に語りかけてくるものを楽譜にし、音として表現するということができるようになりました。寺とそれを包み込む自然を音楽で表現できたのではと思っています。
 メロディはすぐ楽譜に書き留めることができるが、それを楽曲に仕上げるためには、当時は多重録音という作業が必要だったので、一つの寺に数週間を要するときもあったそうだ。
 四国八十八ヶ所を巡礼したことによる自身の変化を、**さんは次のように語る。
 「信仰心が目覚め、人間として少し自分自身が見えてきたように思います。初めは、お遍路さんからの声かけに対して、あいさつもできなかった自分が、次第に自分の方からやさしく声をかけて労をねぎらうことができるようになりました。また、奉納演奏をしながら巡礼することにより、音楽に対する考え方も変わり、人も心も魂も、自然さえも安らぐ音楽を作りたいと願うようになりました。」
 昭和63年(1988年)2月3日、**さんは四国巡礼の締めくくりに作品を奉納したいという気持ちから、高野山に初めて登った。その時**さんは、高野山に祀(まつ)られている様々な宗教、宗派の墓を見、たまたま、その日、イタリアのアッシジから来ていたコーラスの人たちが歌う賛美歌が全山に流れているのを聞いて、「高野山はいろんな宗教、国境、言葉を超えた何かがある。」と感じた。
 その後、コンサートの打ち合わせで訪れるうち、「高野山は四国八十八ヶ所の到達点でもあるけれども、新しい出発点でもあるのではないか。宗教の違い、国の違い、言葉の違いといったものをすべて受け入れてしまうだけの心の広さ、深さが高野山にはある。家族の命を助けていただいたので、そのお返しとして自分のできることをやろう。高野山を出発点にして、世界の平和と鎮魂を祈りながら音楽巡礼をしよう。音楽ならば国境を越えていける。言葉は通じなくても、音楽を聴いてもらえれば、自分の思いを伝えることができる。」と考え、昭和63年、高野山を出発点にして世界の平和と鎮魂を祈りながら作曲し、演奏するという、世界八十八ヶ所音楽巡礼の旅をスタートした。八十八というのは、自分が生まれ育ち導かれたところが四国八十八ヶ所、高野山での奉納コンサートの年もたまたま1988年だったということ、また88というのは、横にすれば学術記号の無限大(∞)が並んだ状態であるが、少しがんばれば手が届く数字でもあるとの考えからだという。
 高野山でのコンサートの聴衆の中にいた広島の人から、「平和のために世界を回るならば、ぜひ広島でやってほしい。」という申し出を受け、その年の12月に広島で2か所目の平和コンサートを行った。平成12年9月、世界八十八ヶ所音楽巡礼の結願の地となった、朝鮮半島軍事境界線に到達するまでの12年間、ハワイ真珠湾、ベルリンの壁、天安門、南京虐殺地、沖縄ひめゆりの塔など第2次世界大戦の跡地を中心に巡った。数人の前で演奏するときもあれば、大観衆を集めて披露することもあった。平成2年12月にはローマ法王の前で謁見演奏を行い、ローマ法王から平和を音楽で伝える使者として、メッセージを贈られたという。
 第一次世界音楽巡礼を終えた**さんは、各地での反響を「世界中どこへ行っても、最初は誤解のあることもありますが、音楽を聴いていただくと、涙を流して感動してくれて、理解してくれます。音楽は、言葉が通じなくても、様々な対立があってもそれを超えて感動を与えることができます。人それぞれ、ものの考え方とらえ方が違うはずなのに、音楽を聴いていただくことによって自分のメッセージが伝わっていきます。人間本来持っている心は、とてもきれいなものです。音楽を聴くことによって、汚れた心、欲などを洗い流して、元に戻ることができると信じて、そういう曲を作りたいと思って活動しています。」と語る。
 重さ10kgもあるキーボードを担いで、世界各地で鎮魂や慰霊のために演奏している**さんの活動を、「日本に向けてのメッセージでもあるね。」と表現している人もいる。
 現在**さんは、第二次世界音楽巡礼の旅に取り組み、ニューヨーク国連本部を出発点に、宮島、チベット、サイパンなどを訪れている。「今後の行く先はまだ明確には決まっていませんが、多分、何らかの意志で行かされることになるでしょう。宗教を越え、人種を越え、国境も越えて、すべての人に遍(あまね)く光を照らすような音楽を作りたい、曲を聴くすべての人が、涙を流して感動するような曲を作りたいと考えています」とその抱負を語る。

 イ 美術作品

 (ア)「四国遍路八十八ヵ所彫画」

 兵庫県明石市在住の彫画家**さん(昭和10年生まれ)は、平成7年1月の阪神淡路大震災をきっかけに四国八十八ヶ所を巡り、自身が確立した彫画で描いた札所風景の作品を次々に新聞紙上に発表し、大きな反響を呼んでいる。
 阪神淡路大震災で被災した**さんは、その時の模様を次のように語っている。
 「あの大地震の中で、ふとんの上に立ち上がることもできず、ただぼう然と揺れが止まるのを待つのみ。筆は折れて机の上から飛び、ケント紙は暗闇の中で漂っている。本棚はぶっ倒れ、家具類は踊る。生きているのが不思議だった。」
 この地震で縁者をなくし、夜も眠れないほどのショックを受けた**さんは、「何のために絵を描いているのだろうか。」と思い悩み、一時創作意欲を失った。そんな時に、震災で亡くなった知人・縁者の供養のため、震災のショックからの癒(いや)しを求めて、訪れたのが四国遍路であった。**さんは少年時代に徳島に疎開した経験をもち、四国遍路を身近に感じていたことも、四国へ行くきっかけとなった。
 寺院を巡りながら、風景をスケッチしていると、自分が持って生まれたものは、やはり「紙と鉛筆」だということに気付いた。また、寺を訪ね、スケッチし、ケント紙に一つひとつの線を彫る動作に、祈りや癒しを感じたという。
 彫画は、B5判の大きさのケント紙の表面に墨を塗り、その面に図柄を模写し、カッターナイフで削りながら、紙に凹凸を付け、版画風に仕上げていくユニークな技法である。紙をはぐような精緻(せいち)な技術で作成された作品は、版画と切り絵の味わいを融合した、独特の柔らかく繊細なタッチで温かさを感じさせる。
 この**さんの作品は、「四国へんろ風景」という表題で、愛媛県内でも、平成8年1月から平成9年1月まで『読売新聞』紙上に掲載され、大きな反響を呼んだという。新聞社の都合により休載すると読者からの抗議の声が多く寄せられ、新聞社側としても反響の大きさに驚いたようである。第1回目の記事を一部引用すると次のとおりである。

   ひんやりした大気澄む青空の下、チリンチリン、カーンと鳴るさわやかな鈴と鉦の音に誘われて四国札所めぐり約1,400
  キロ・メートルのふそんながら気まぐれ遍路に出た。
   古いとか新しいとかいったことは抜きにして、豊かな大自然と四国八十八か所伝統の尊さを訪ねてみた。あえて私事をつ
  ぶやくなら、阪神大震災で亡くなられた縁ある方々の供養もかねて。時には道端の石仏と語らい、時には四国の風物に日本
  の原風景を発見した(⑩)。

 その後、平成11年5月から平成13年5月にかけて「旅の絵本 四国88ヵ所巡り」という表題で、『産経新聞』夕刊紙上に掲載され、好評であったという。
 また、平成8年8月には香川県坂出市、平成14年4月には徳島県脇町美村(みむら)が丘(おか)で、原画展が開催された。**さんは、今後札所だけでなく、札所周辺の四国の風景や自然・街道・暮らしを彫画で描いてみたいと考えている。

 (イ)「四国霊場案内図会」

 松山市在住の**さん(昭和6年生まれ)は、平成6年12月に描いた五十番繁多寺を皮切りに、上空から寺と周囲の自然を俯瞰(ふかん)したような四国霊場鳥瞰図の作成に取り組んでいる。新聞等では、鳥瞰(ちょうかん)図として紹介されているが、**さん本人は「現代版四国霊場案内図会(ずえ)」と呼んでいる。年間5、6か寺のペースで作品を完成させ、平成14年6月現在、愛媛・香川を中心に43か寺を42枚の絵に仕上げている。香川県観音寺市にある六十八番神恵院と六十九番観音寺は同じ場所にあるため、一枚の絵になっている。
 **さんは市内の私立高校の教員をしていたが、脳こうそくを患い痴ほうの症状がみられた義父の介護に専念しようと、定年まで5年を残し、平成3年に退職した。いつ終わるかわからない義父の介護に携わるうちに、自分の中に潜む二面性に悩むようになった。身体的・精神的な介護疲れをいやすために寺に参ると、表面では義父の病気平癒を祈り、家内安全を祈る自分がいる一方、この介護がいつまで続くのかという先が見えない不安やいらだちを抱え、介護のために仕事を最後まで全うできなかった後悔にさいなまれる自分がいた。自分の心の陰の部分、不条理性に対峙(たいじ)するため、写経のつもりで四国霊場の絵を描き始めた。写経とは本来、供養などのために経文を書き写すことであるが、**さんは、思いを込めて一字一字書いていくことが、人間がもつマイナス面と対峙することであるととらえ、自身の絵にも、目には見えない様々な思いを込めているという。
 また、**さんが退職した前後から凶悪な少年事件、登校拒否や学級崩壊が社会問題として大きく取り上げられ、もと教員として無力感に襲われ落ち込んでいた。**さんの残された人生の中で、大人社会から締め出され閉塞(へいそく)状況におかれている現代の若者に対して、何ができるのか、できるだけのことをしていきたいという思いも絵に込められているという。
 **さんの絵は、細部まで緻密な線で描かれている。水彩絵の具の淡い色とボールペンの黒々とした線で、寺とその周辺の自然が空から見下ろしたような角度で画面に収まっている。四国霊場の札所に車や列車で足を運び、2~3時間かけて寺を散策し、本堂や大師堂など建物の大きさや配置を確認し、寺の平面図を作成する。その際、印象を受けた石仏や地蔵なども描きとめ、周りの風景などは写真に収めて帰る。四つ切り画用紙に鉛筆で大まかなデッサンをした後、境内の建物をボールペンで描いていく。まず本堂を描き、全体のバランスや立体感を考慮しながら建物を対角線上に描いていく。介護の傍ら描いていくため、いつでも中断できるようにボールペンで細部を描き始めた。下絵完成後、上から水彩絵の具を塗ると、油性のボールペンで引かれた線が水彩絵の具をはじくことによって、絵に深みが出る。絵の具は、3回程度塗り重ねていくことによって、微妙な色合いが出るという。
 細部まで緻密に描くことについて、**さんは次のように語る。
 「寺は、長い時間をかけて現在の姿になっている。境内には新しい石仏もあれば、古い時代の様々なものも祀(まつ)られている。どういう事情で建てたかも分からないような石仏もあるが、今そこにあるということは、誰かが願いや祈りを込めて建てたものに違いない。そういうものの総体が寺の雰囲気を形成している。だから、単に細部まで描いているのではなく、境内を巡っているときに遭遇した地蔵や石仏を描くことによって、寺に込められた人々の様々な思いや祈りを絵に描きとめたかった。」
 **さんの絵は、地元銀行のロビー展や郵便局などで展示されたり、平成14年6月から開催された、朝倉ふるさと美術・古墳館の「四国遍路展 未来へ続く祈り」にも展示された。**さんは、絵を見た人とのお四国をめぐる対話を楽しみに、最後まで完成させようと決意している。また、完成後は、体力が許せば八十八ヶ所を歩いて回り、今度は寺と寺の間の遍路道を主題とした作品を作りたいと考えている。

 (ウ)「四国八十八ヶ寺札所版画」

 西条市在住の版画家**さん(昭和14年生まれ)は、四国霊場を版画で表現する試みに取り組み、御詠歌を挿入した独特の版画を完成させた。グラフィックデザイナーとして会社に勤務する傍ら、石鎚山などをテーマとした趣味の版画作品を制作していた。退職後の平成5年以降、バイクに乗り、1泊2日の行程で取材旅行を繰り返し、「四国八十八ヶ寺札所版画」を5年間かけて制作し、平成9年に完成したという。
 制作方法は次のとおりである。1回の行程で、5か寺(1か寺に要する時間は約2時間)程度をスケッチし、細部はカメラに収めて帰る。寺の全容を描くのではなく、その寺を象徴するもの、最も印象に残ったもの、伝承の形でその寺に伝わっているものなどを中心に下絵を構想し、ベニヤ板に下絵と御詠歌を墨で描いた後、彫っていく。見る人を飽きさせないように同じ構図が続かないよう工夫している。1枚の版画を仕上げるのに約1週間を要し、一国1年のペースで90点の作品を完成させた。90点になった理由は、四国霊場八十八ヶ所に加えて高野山と般若心経の写経を彫ったためである。平成14年6月現在、番外霊場の二十か寺を彫った版画も完成している。**さんの版画は、色紙(しきし)のサイズであり、「この大きさであれば、息切れせずに八十八ヶ所を完成させることができる。」との考えに基づいている。版木は薄いベニヤ板、版画を刷る際には練墨を使用しているという。
 今治市別宮町にある五十五番南光坊近くに生まれた**さんは、現在西条市の六十四番前神寺近くで生活しており、「四国八十八ヶ寺札所版画」への取り組みを次のように語る。
 「昭和55年(1980年)ころにも、四国八十八ヶ寺の木版画に取り組んだことがあったが、その時は仕事の関係で10か寺程度彫っただけで挫折した。また、過去にある方の遺作の彫りと刷りをさせてもらったことがあったが、刷りながらも原画は自分のものじゃないということが頭に強く残り、いつかは自分で原画から作りたいと思っていた。
 そう強い信仰心があったわけではないが、仕事の時間から解放され自分の時間を持つことができるようになったことに加えて、『お四国』を描かせてもらうことによって自分の版画の力量を試したいという思いもあった。さらに、四国に生まれ遍路道が通っている所に暮らしてきた者として、時代とともに大きく変容してきた寺の今の姿を残しておきたいという強い思いがあった。特に、茅葺(かやぶ)き屋根の鐘楼など、朽ち果てていく建物を版画にして残したいと考えた。
 ここ(西条市)に住む限り、様々な思いの込もった遍路道との接点を求めたい。八十八ヶ所の寺ばかりでなく、道中なども描いてみたい。遍路道標などにはやや疎(うと)いところもあったが、今後は描いてみたい。あまり宗教的にならず、気楽に現在の寺の姿や寺の周りの風景を描いていきたい。」
 **さんの作品も、朝倉ふるさと美術・古墳館の「四国遍路展 未来へ続く祈り」に展示されていた。現在**さんは、色紙よりも少し小さいサイズの四国八十八ヶ所と西国三十三か所の版画制作に取り組んでいる。

 (工)全国「かまぼこ板の絵」展覧会の四国霊場関係作品

 愛媛県南西部に位置する東宇和郡城川町の中心部に平成5年に開館した町立美術館ギャラリーしろかわがある。ギャラリーしろかわでは、「まちの個性を表現することこそ地域情報の発信である。」との考えに基づき、平成7年から全国「かまぼこ板の絵」展覧会を開催している。毎年応募作品・応募者数が増え、8回目を数える平成14年には15,787点の応募があり、フランスやアフリカのモザンビークからの作品も寄せられている。展覧会は例年7月下旬から11月下旬までの100日余りの期間に開催され、25,000人を超える入館者が訪れている。
 この「かまぼこ板の絵」展覧会では、1万点を超える応募作品の中から、70点程度の入選作品を選出しているが、ほぼ毎年四国八十八ヶ所をテーマにした作品が入選している (平成7年四国八十八ヶ所霊場めぐり、平成9年四国霊場八十八景、平成10年四国八十八ヶ所御本尊御影、平成11年さぬき札所二十三ヶ寺、平成13年お四国参り忘れ物はないか、平成14年75番札所善通寺六角堂)。特に、平成9年審査員岡崎昌之賞を受賞した新居浜市在住の**さん(昭和7年生まれ)の「四国霊場八十八景」と平成10年愛媛県森林組合連合会長賞を受賞した大洲市の**さん(大正15年生まれ)の「四国八十八ヶ所御本尊御影」は、展示期間中、作品の前で手を合わせる来館者が多かったという。
 **さんは、「四国に住居を構えているからには、一度くらい四国八十八ヶ所をお参りしたい。」という軽い気持ちで、平成3年6月から平成4年3月まで約10か月かけて四国八十八ヶ所を巡り、その時の思い出を平成9年かまぼこ板の絵に表現した 88枚のかまぼこ板1枚1枚に、それぞれの札所で印象に残った山門や本堂、御本尊などを水彩絵の具で描いている。その88枚の絵を22枚ずつ順に並べると、周囲を海に囲まれた四国の姿が浮かび上がってくるという構成になっている。この作品について**さんは、次のように記している。

   第1番霊山寺から第88番大窪寺までの山門、本堂などカメラに納めていたものと、愛媛新聞の「光と風と一すじの道」
  などを参考にして、青い国・四国をイメージして描いた作品です。
   ふうふう、はあはあ息を弾ませながら登った山道、あるいは長い長い石段、今も眼に浮かんできます。開発が進む現代、
  このへんろ道の50年、100年後はどうなっているのだろうか? いつの時代にも大切にしたいものが私たちにはある。人
  の温もり、暖かな風土、おおらかな自然。
   日本人のふるさとよ永遠なれ……(⑪)

 **さんの作品は、88枚のかまぼこ板に八十八ヶ寺の本尊の御影をボールペンで丹念に描いたものである。もと小学校の音楽教師をしていた**さんは、昭和50年(1975年)ころ、「四国に住んでいて、一度くらいお参りしたらどうだろうかな。」という知人との雑談をきっかけに、休みを利用して八十八ヶ所巡拝を始めた。退職後の平成6年12月喉頭(こうとう)がんにかかり、以後入退院を繰り返し、平成9年には声を失った。このころ、かまぼこ板に四国八十八ヶ寺の本尊をボールペンで描き、書庫の棚に陳列して、毎日眺めて心の対話をしたという。体調が快復した平成10年からは、また四国遍路の旅に出た。このころの心境を**さんは次のように記している。

   声を失って一年が経とうとしています。この世に生をうけてから70年間、水や空気のように慣れ親しんできた「声」
  と、別れを告げようとは、夢にも思っていなかった出来事でした。神から授かった、生まれながらの声を失ってみて、はじ
  めて声の出ないことの計り知れないつらさ、不自由さ、じれったさ、悲しさ、たとえようのない空しさを味わいました。
   またその一方で、「声」を失ってみて、私の過去についても、深く反省することができました。私は自由に声を出せるこ
  とをよいことに、多くの人の心を傷つけてきました。妻や子ども、親戚や友人、勤務していたときの同僚たちを、言葉を武
  器に傷つけていたのです。その罪の深さをいま身にしみて感じています。(中略)お大師様と同行二人の旅、その功徳に
  よって、今までの私の罪を少しでも償いたいと考えて発願しました。何回巡拝できるか分かりませんが、体が動き、生のあ
  る限りやってみるつもりです(⑫)。

 この間も、**さんは以前から回っていた八十八ヶ所巡拝を続け、三度目の結願まであと3分の1を残し、平成12年11月に亡くなった。
 **さんの思いのこもった88枚のかまぼこ板も、**さんの心の支えとなった88枚のかまぼこ板も、現在ギャラリーしろかわで大切に保管されている。