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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)江戸時代に至る食生活

 ア 米を作り始める

 (ア)獲物を求める生活

 日本の食生活史における最初の大きな転換点は稲作の開始であるが、それ以前の時代の人々は、主として狩猟・漁労(ぎょろう)(魚やそのほかの水産物をとること)・植物性食物の採取(さいしゅ)(植物を食べ物としてとること)などにより食べ物を得ていたとされている。稲作伝来に先立って、えひめ地域に住んだ旧石器時代の人々はどのような食生活を送っていたのだろうか。
 考古学研究者の**さん(伊予郡砥部町高尾田 昭和10年生まれ)は、次のように語る。
 「旧石器時代の年代については最近いろいろと学説が揺らいでいますが、今のところ、後期旧石器時代の開始を約3万年前とするのは信頼できると思います。愛媛県で最も古い旧石器時代の生活こん跡は、約2万5千年前ころのものと考えられます。
 この時代は、現在よりかなり寒冷な氷河期の気候ですから、堅果(けんか)類(ドングリなど固い皮をかぶった果実類)はなかなか手に入りませんでした。また、瀬戸内海は大草原、宇和海もかなりな部分が陸地で、魚介類をとって生活するのも難しかったのです。そのため、草原に住む大型草食動物の狩猟が人々の生活の中心をなしていました。当時は、かなりの数のナウマンゾウ・ヘラジカ・オオツノジカなどが生息していたと思われます。
 旧石器時代の一家族は数名ですが、狩猟はそれ以上の数の集団で行われていました。気温が低いので、大型動物を一頭仕留めれば、おそらくその集団が1か月くらい肉を食べ続けることができたと思います。生肉で食べることもあるし、火を使ったこん跡の発見例が県外にはあるので、焼いて食べることもあったでしょう。
 当時の人々の食生活に関連した遺物として、皮をそぎ肉を切る道具としてのナイフ形石器があり、これは県内からも出土しています。この石器については、獲物の解体以外の用途も考えることができます。例えば、木製槍(もくせいやり)の先に刃(は)としてつけて狩りに用いたり、木製槍の胴の部分を作る際に木を削るのにも使われたと思います。つまりナイフ形石器は、狩猟具や狩猟具の加工用具としての用途も持っていたと考えられるのです。」
 平成14年(2002年)現在、県内では約90か所の後期旧石器人の生活こん跡が確認されている(⑯)。

 (イ)縄文人の食べ物

 約1万2千年前ころに縄文時代の幕が開いた。気候の温暖化とともに現代と似通った自然環境となり、氷河が徐々に溶けていわゆる縄文海進(海面の上昇によって海が陸地に侵入する現象)が進んだ結果、現在の瀬戸内海や宇和海が形成された。
 全国的に見ると、大型獣が死滅し、代わってシカ・イノシシなどの中型獣が狩猟の対象となった。漁労ではサケ・マスなどのほか、マグロなど大型の回遊魚(かいゆうぎょ)(外洋を季節的に移動する魚)、さらにはイルカ・クジラなどの海獣までが捕獲された。採取活動では、クリ・クルミ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどが得られた。すでに原始的焼畑農耕が始まっており、焼畑でマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどが栽培されたという指摘もある。温暖化により手に入る食べ物の種類が増加したため、縄文人は、これらを季節ごとに巧みに組み合わせて日々の生活を乗り切ったのである。
 この時代の食生活を特徴づけるものの一つとして、土器使用の開始が挙げられる。この点について、前述の**さんは次のように語る。
 「縄文時代初めの草創期(そうそうき)に土器が出現しました。最初の土器は深鉢、次に浅鉢で、縄文時代後期になると用途に応じて器の形は多様化していきます。土器を用いることで、それまでの生(なま)か焼くかという食べ方のほか、炊く・煮る・ゆでるといったさまざまな調理方法が可能になり、食べることのできる物の範囲が広がりました。また、例えば貝を食べるにしても、それまではせいぜい数個だけ焼いて食べていたものが、土器の中の熱湯に放り込めば大量にゆでて食べることができます。ですから、土器使用の始まりとともに人々の食生活が大きく変化したといえるのです。
 ただ、当時の縄文土器は貴重品で、一家族が持っていたのはせいぜい一つか二つです。美川(みかわ)村の上黒岩岩陰(かみくろいわいわかげ)遺跡から出土した土器も、その個体数は全部で二つくらいしかないと思います。自分たちで作ったとは思えず、多分、物々交換で手に入れたものでしょう。」
 上黒岩岩陰遺跡(上浮穴郡美川村上黒岩地区)は、愛媛県における縄文時代の代表的遺跡である(写真1-1-4参照)。
 この遺跡から出土した土器片・獣骨片・魚骨片・貝殻などの遺物、あるいは遺構から、縄文時代の草創期とそれに続く早期を中心とした縄文人の生活をうかがい知ることができる。
 まず草創期については、遺跡の第9層から大型のニホンザルの骨などが出土しており、食料を得る手段に狩猟があったことが分かる。同じ時期にあたる、穴神洞(あながみどう)遺跡(東宇和(ひがしうわ)郡城川(しろかわ)町川津南(かわづみなみ)地区)第8層出土の炎を受けたこん跡のある集石遺構とも考えあわせると、当時の人々は山の岩陰や洞穴を住居とし、小石を集めて炉(ろ)を作り、そこで暖をとるとともに肉を焼き、あるいは土器を用いて食べ物を煮炊きする食生活を送っていたようである(⑰)。
 次に早期については、上黒岩遺跡の第4層から狩猟用と思われる犬の埋葬遺構が発見された。また、ニホンジカ・イノシシ・カモシカ・ツキノワグマ・アナグマ・カワウソ・テン・タヌキ・ノウサギ・ニホンオオカミ・ムササビ・ニホンザル・オオヤマネコなどの動物やキジ科の鳥類の骨が出土したことにより、狩猟の対象が多彩になってきたことが分かる。そのほか、淡水の魚介類としてカワニナ・ウナギ・カニ、海魚としてサバが確認されており(⑰)、上黒岩人はこうした食べ物も口にしていたようである。
 縄文人の食生活を知る手掛かりとして、ごみ捨て場としての性格を持つ貝塚遺跡も重要である。貝塚からの出土物は、その名の通りたい積した貝殻が最も目につくが、獣骨片・魚骨片や木の実も多い。県内では縄文時代後期に属する平城(ひらじょう)貝塚(南宇和(みなみうわ)郡御荘(みしょう)町平城地区)がよく知られており、宇和海近くに位置するこの貝塚からは、ハマグリ・フトヘナタリ・ハイガイ・サルボウ・カキなどの貝類が数多く出土した。魚類・海獣類ではエイ・タイ・ボラ・マグロの骨が出土し、さらにサメ・ブリ・クジラの骨の出土によって外洋を舞台とした漁労の存在が確認された。動物はシカ・イノシシが主体である(⑰)。いずれも、当時平城に住んだ人々が日常食べていたものと考えられる。

 (ウ)松山平野での稲作の開始

 ユーラシア大陸東部から北九州へと渡ってきた稲作技術により、日本は水稲耕作に基礎を置く本格的な農耕社会へ移り変わった。米は味が良いだけでなく栄養価が高く、長期間の保存が可能なうえ、比較的多収量の作物である。稲作の定着により、日本は食料の生産を人工的に行うことのできる新しい社会の段階に入ったのであり、これは食生活上の大転換であった。
 現在(平成15年)のところ、県下において最も早い時期の水稲耕作が確認できるのは松山平野北部の低湿地である。ここに位置する縄文時代晩期(縄文時代最後の時期)の船ヶ谷(ふながたに)遺跡(松山市安城寺(あんじょうじ)町)や大渕(おおぶち)遺跡(松山市太山寺(たいさんじ)町)からは、石庖丁(いしぼうちょう)や石鎌(いしがま)など稲の刈り取り道具としての用途が想定できる石器が出土し、また、大渕からは籾痕(もみあと)の残る土器片も発見されている(⑱)。
 その後、弥生時代には水稲耕作は県下全域へ広がったが、米だけで全員の食生活を維持するだけの生産量はなく、旧来の手段による食べ物の獲得も欠かせなかったと考えられる。松山平野においても、動物性たんぱく質を得るためにシカなどの狩猟が行われ、秋にはシイ・ドングリなど堅果類の採取がなされた。魚網(ぎょもう)の重しとして用いる土錘(どすい)・石錘(せきすい)が多くの遺跡から出土しており、漁労が盛んに行われたことも確認できる。また、水利の便の悪い台地上では、オカボ(陸稲)やアワ・ヒエなど雑穀の栽培、モモ・クリなどの管理育成も行われたようである(⑱)。
 この時代を通じて使われた弥生土器は、煮炊き用の甕(かめ)・貯蔵用の壺(つぼ)・食べ物を盛る鉢や高坏(たかつき)(高坏は杯(さかずき)状の脚付き台で、神へのお供えなど特別な場合に使われた。)・米を蒸す甑(こしき)など、その用途が明確に分化した。松山地域の弥生遺跡からは、これら食器類も数多く出土している。
 以上のような点から、弥生時代の松山平野の人々の食生活を想像すると、米をはじめとして鳥獣肉・魚肉・貝・木の実などを食料とし、竪穴(たてあな)住居の炉で甕や甑を用いて加熱調理を行い、できあがったものを鉢に入れて食事をする弥生人の姿が浮かび上がってくる。収穫した米は、家庭内では壺に、集落単位では高床(たかゆか)倉庫に保存されていた。谷田Ⅲ(たにださん)遺跡(松山市西野(にしの)町)では屋外炉の跡が認められるので(⑱)、火災よけのために外で煮炊きすることもあったようである。
 稲作による食料生産の多寡(たか)により、やがて人々の間に階級が生まれた。そして、古墳時代にはいると各地に支配者としての豪族が登場し、やがて大王(おおきみ)(後の天皇)を中心とする国家の成立に至った。この時代には、巨大古墳の築造に象徴される土木技術に支えられて水利事業や水田開発が各地で行われ、権力者主導で食料の増産が図られた。食べ物の加工についても、前代の炉に代わってかまどが初めて登場し、加熱調理に際しての熱効率が飛躍的に高まることとなった。

 イ 貴族の時代の食生活

 (ア)木簡が語る産物

 和銅3年(710年)の平城京遷都(せんと)に始まる奈良時代には、律令制度により国家形態が整えられる一方で、さまざまな税負担に苦しんだ大多数の被支配者層は、貧窮の生活を余儀なくされていた。日常の食生活においても、貴族が米を常食としたのに対し、庶民はアワ・ヒエなどの雑穀に多くを頼っていたといわれる。
 この時代の伊予国の食べ物について知る手掛かりとして、平城京や長岡京から出土した荷札木簡(もっかん)(木簡は薄く細長い木片に墨で字を書いたもので、紙の代わりに使用した。)がある。平城京関係の荷札木簡に書かれた伊予からの貢進物(こうしんぶつ)(貢物(みつぎもの)として献上されたもの)を挙げると、周敷(すふ)郡(現周桑(しゅうそう)郡を中心とする地域)から白米(精白(せいはく)された米)、風早(かざはや)郡(現北条(ほうじょう)市を中心とする地域)から鯖(あおさば)、和気(わけ)郡(現松山市北部地域)から小麦・塩・楚割(すりはや)(魚肉を細長く割いて塩干しにしたもの)、伊予郡(現伊予市・伊予郡松前(まさき)町を中心とする地域)から鯛(たい)楚割などとなっている。また、長岡京関係の荷札木簡には、温泉(おんせん)郡(現松山市中部地域)・和気郡・伊予郡からの白米が書かれている(⑰⑱)。当然のことながら、これらの食べ物はすべてある程度の保存がきくものばかりである。
 下って平安時代の康保4年(967年)に出された『延喜式』(律令を施行する際の細かい規則)を見ると、その中に伊予からの主要税目として各種の食べ物の名称が記されている。その主なものを挙げると、舂米(つきまい)(精白米)・蘇(そ)(現在のコンデンスミルクに近い乳製品)・大豆・醬(ひしお)大豆(塩を加え発酵させて調味料の醬に加工したダイズ)・胡麻(ごま)・胡麻油・塩・海藻(にぎめ)(ワカメ)・海藻根(めかぶ)(ワカメの茎状の部分)・那乃利曽(なのりそ)(ホンダワラ)・鰒(あわび)・鮨鰒(すしあわび)(保存のため塩と飯で熟成したアワビ)・煮塩年魚(あゆ)(塩で煮たアユ)・胎貝鮨 (いかいのすし)(保存のため塩と飯で熟成したヒメガイ)・鯖などである(⑱)。これらの食べ物はいずれも、貴族をはじめとする都人(みやこびと)の食卓に供するため、伊予の農漁民が捕獲・生産した産物であった。

 (イ)都人の食

 奈良時代・平安時代を通じて食べ物の種類は増加し、その調理法も進化した。米は蒸して強飯(こわいい)にすることが多かったが、それ以外にも、水を入れて煮て固粥(かたがゆ)(現在のご飯)や汁粥(しるがゆ)(現在の粥(かゆ))とした。野菜は羹(あつもの)(熱い吸い物)に入れるほか、ゆで物・煮物・和(あ)え物(鱠(なます)と呼ぶ。)・漬物などに料理した。肉は、焼く・煮る・蒸すといった方法で調理するか塩漬けにした。この時代の主な調味料は塩と酢であるが、多種の醬(ひしお)類(穀物や肉に塩を加えて発酵させたもの)も調味料としてよく使われた。『万葉集』には、蒜(のびる)(ユリ科の植物で、葉とユリ根にあたる部分を食用とする。)を醬と酢で和えた中に鯛の肉を加えればいっそうおいしいと詠んだ歌がある(⑲)。
 貴族文化の最盛期は、平安時代中期の摂関政治の時代である。この時期には朝廷内においてさまざまな儀式が年中執り行われ、その都度饗応(きょうおう)の宴(うたげ)が催されて、見た目に華やかな大饗(たいきょう)料理が出されたのである。
 大饗料理の献立は、豪華ではあるが一方で形式的なものでもある。現存最古の料理書といわれる『厨事類記(ちゅうじるいき)』に記された献立は、①調味料(酢など4種をそれぞれ器に入れて出す。)、②醬類(鯛醬(たいびしお)など4種)、③乾物(干鳥と呼ばれる塩漬けして干した雉(きじ)など4種)、④鱠(なます)(鯉(こい)など6種)、⑤干菓子(ほしがし)(干棗(なつめ)など4種)、⑥木菓子(きがし)(栗(くり)・杏(あんず)などの果物)、⑦唐菓子(からがし)(八種(やくさの)唐菓子と呼ばれる中国伝来の菓子8種)、⑧粉餅(もち)(赤蘇芳(あかすおう)など4種)、⑨汁物(多くは鮑(あわび)汁)、⑩焼物(雉足(きじあし)など3種)、といった内容で、これらに加えて酒が出された(⑲)。
 平安時代の食について注目すべきは、獣肉食の衰退である。その起源は天武天皇4年(675年)の殺生(せっしょう)禁断令にあるといわれるが、その後もたびたび同様の禁令が出され、仏教思想の浸透などとともに食肉を忌(い)む風潮が広がった。その結果、平安時代末期になると貴族たちは動物の肉をほとんど食べなくなり、それは徐々に全国・全階級に拡大していったのである(⑲)。表立っては獣肉食を避ける社会の風潮は、その後明治維新に至るまで続いた。

 ウ 多彩になる食

 (ア)武士と庶民の食

 建久3年(1192年)の鎌倉幕府成立とともに武家政治の時代が始まった。武士のもともとの出自(しゅつじ)は地方の有力農民層であるが、鎌倉時代の武士たちの多くは依然として農村に住み、前代の貴族たちに比べて全般的に質素な食生活を送っていた。
 愛媛県歴史文化博物館(東宇和郡宇和町)に模型展示されている、鎌倉時代の地頭(じとう)クラスの武士を想定した秋の夕食(⑭)を見ると、右の盆に飯とおかずが盛られた器、左の盆には濁り酒が入った器が置かれている。右の盆を細かく見ると、左手前に主食の五分搗(づ)き米(玄米と精白米との中間米)の飯、左後方に塩で味つけしたゴボウ・シイタケ・サトイモの煮物、右手前に醬(ひしお)を調味料としたカブ・ネギなどの羹(あつもの)、右後方にサバの塩焼き、そして中央にナス・ダイコンの漬物といった料理が盛りつけられている。食器はすべて白木(しらき)である。この食事は、当時の絵巻物に描かれた食事の様子をもとに、鎌倉時代の伊予の産物を献立にする形で復元したものである。したがって実際には、山間部では生魚はほとんど手に入らず、海岸部ではこれほどの数の野菜の種類はなかったものと思われる。
 次に、同館に模型展示されている同じ時代の庶民層の夕食は、片山内福間(かたやまうちふくま)遺跡(今治(いまばり)市片山地区)の発掘調査などをもとにして推定、復元したものである(⑭)。盆上の土器に盛りつけられたものは、左手前がアワと五分搗き米の混合飯、右手前がダイコン・ニラ・ワカメの塩汁、中央後方がイワシの塩焼きである。この献立は当時の庶民層の食事としてはよい方の部類であり、主食がほとんど雑穀飯のみの地域もかなりあったと考えられる。

 (イ)和食の源流

 鎌倉時代に新たに登場する料理として、中国からの禅宗伝来とともに日本に伝えられた精進料理が挙げられる(⑳)。これは肉類を全く使わず、豆腐やヤマイモの汁、キュウリの漬物、納豆、ゴボウ・コンブ・カブラ・ナスの煮物などにより構成される、仏教の影響が色濃く表れた料理である(⑳)。
 続いて、室町時代には懐石(かいせき)料理が登場した。懐石料理は、禅宗の僧侶が修行の際に温めた石を懐に入れて空腹をしのいだことにその名が由来するといわれ、この時代に茶会用の簡素な料理として確立された。精進料理とは異なり魚鳥の肉を使用するが、1汁2菜や1汁3菜の少ない品数で主人が工夫を凝らして茶会の客に出すものであった。しかし、時代が下るにつれて徐々に豪華さを増していき、後の江戸時代になって、ここから宴会の会席料理が派生することになる(⑳)。
 現在の和食の源流をなすものとして、これら中国の影響を受けた精進料理・懐石料理を挙げることができる。
 今は和食の定番(ていばん)の献立となっている天ぷらも、室町時代後期(戦国時代)に始まるヨーロッパ人との交流の中で伝えられた南蛮文化の油揚げ料理が日本化したものである。ちなみに、南蛮文化として新たにもたらされた主な食べ物としては、トウモロコシ・ジャガイモ・カボチャなどの農作物、コンペイトウ・カステラ・ビスケットなどの菓子が挙げられる(⑲)。

 (ウ)戦の食べ物

 武士の時代を象徴する食として、戦(いくさ)の食べ物がある。戦場に持って行く戦陣食(せんじんしょく)は、焼き米・糒(ほしいい)(蒸した飯を干したもので、湯水で戻して食べる。)が中心で、そのほか餅(もち)類・塩・味噌(みそ)・梅干し・干魚・塩魚・干しあわび・乾燥した海藻や野菜などが重要な栄養補給源とされた(⑲)。
 籠城(ろうじょう)戦(城にたてこもっての戦い)の際の守備側の食料について、愛媛県内の城跡から出土する炭化物を調査した食文化研究家の**さん(新居浜市北内町 大正15年生まれ)は、次のように語る。
 「城中に蓄えられた兵糧(戦時の兵士の食料)を知る手掛かりとして、岡本(おかもと)城跡(北宇和郡三間(みま)町二名(ふたな)地区)や三滝(みたき)城跡(城川町窪野(くぼの)地区)、小河(こごう)城跡(新居浜(にいはま)市萩生(はぎゅう)地区)から出土した炭化物があります。これらの城はすべて戦国時代の山城です。
 まず岡本城跡の調査では、兵糧倉庫跡と思われる樹林で85粒の炭化物を採取しました。そのうち分析可能なものについて調べてみると、78粒が米、4粒が大麦、2粒が裸麦だと分かりました。また三滝城跡の調査では、同じく兵糧倉庫跡と思われる場所で30粒の炭化物を得て分析した結果、7粒の米と1粒の小麦が確認できました。城川町立歴史民俗資料館にも三滝城跡から出土した炭化物が保存されており、これを調べてみると98粒が米、2粒が裸麦でした。
 兵糧の炭化物を最も多く採取できたのは小河城跡です。ここでは790粒の麦と10粒の米を得ることができました。確認できた麦の種類は大麦と裸麦で、その比率は裸麦の方がやや多いようです。
 以前、人に誘われて河後森(かごもり)城跡(北宇和郡松野(まつの)町松丸(まつまる)地区・富岡(とみおか)地区)を見に行ったことがあります。その時に私が興味を持ったのは、山腹にある小さな池とその周囲のドングリ林です。ドングリを俵に入れ水の中につけて保存する風習が古くからありますが、ここはそれができる条件を備えているのです。城の食料貯蔵については、米・麦だけでなく、こういった多様なものを考えることができるように思います。」
 当時の武士たちは、さまざまな工夫を凝らして保存がきく食べ物を持参、あるいは貯蔵して戦に臨んでいたのである。

写真1-1-4 上黒岩岩陰遺跡

写真1-1-4 上黒岩岩陰遺跡

覆屋(おおいや)の中に縄文時代の住居部分が保存されている。平成15年11月撮影