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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)江戸時代の食生活

 ア 食とむらの人々

 (ア)『清良記』などに見る食べ物

 江戸幕府開設(慶長8年〔1603年〕)から大政奉還(慶応3年〔1867年〕)までの260年余りが江戸時代である。この時代を生きた農民・町人・武士は、どのような食生活を送っていたのだろうか。
 当時の農村の食べ物を探る格好の史料として『清良記(せいりょうき)』が知られている。『清良記』は戦国時代の大森(おおもり)城主・土居清良(どいきよよし)の活躍を描いた全30巻の戦記であり、そのうち別名『親民鑑月集(しんみんかんげつしゅう)』と呼ばれる第7巻には、この地域(写真1-1-8参照)の農業の様子が克明に描かれている。これは、実際には江戸時代前期に書かれたといわれるが、それでも現在(平成15年)のところ日本最古の農書とされる(⑨)。
 『清良記』には約110種類の農作物が挙げられており、現在と大きくは異ならない多種類の農産物が当時から生産されていたことが分かる。作物の中心はきわめて多品種にのぼるイネである。また畑では、冬作物としてイネに次ぐ主要作物の麦や、夏作物としてマメ類やアワ・ヒエなどの雑穀類が栽培されている。野菜や果樹の種類も多いが、これらはいずれも自給できる程度の生産量であったと思われる。『清良記』には、そのほかにも食用にしたと思われる野生植物が80種類余り記されている。その主なものを現代語で列挙すると、ヤマイモ・ミツバ・タケノコ・ヨモギ・ウド・イタドリ・ツクシ・タンポポ・ワラビ・イチゴ・ユリの根・マツタケ・シメジ・アケビ・クルミ・ナツメなどがある(⑨)。
 『清良記』は南予(なんよ)(愛媛県の南部地域)の一地域の記録ではあるが、農作物・食用野生植物ともに当時の伊予国内におおむね共通したものと考えられている(⑨)。
 次に、『宝暦武鑑(ほうれきぶかん)』(宝暦2年〔1752年〕)に記載された伊予八藩の幕府への献上品から食べ物を拾ってみると、鯛(たい)・鰯(いわし)・鰆(さわら)などの魚やその卵、海鼠(なまこ)・鯣(するめ)・鮑(あわび)・鰹節(かつおぶし)など、献上品目の多数を海産物が占めている。これらはほとんど乾物か塩漬けにして江戸に送られた。漁業の盛んな当時の伊予では、瀬戸内海・宇和海において豊富な魚介類が得られたのである。海産物以外の献上品では、蜜柑(みかん)・索麪(そうめん)・乾瓢(かんぴょう)・蕨(わらび)粉などが見える(㉑)。なお、ここでいう蜜柑は、現在栽培されている温州(うんしゅう)ミカンではなく、小振りの紀州ミカン(小ミカン)のことである。
 そのほか、元禄年間(1688~1704年)刊行の『日本諸国名物尽(にほんしょこくめいぶつづくし)』には、伊予名産の食べ物として宇和鰯(いわし)・素麺(そうめん)・白藻(しらも)(紅藻(こうそう)類の海藻)などが挙げられ(⑲)、正徳3年(1713年)刊行の『和漢三才圖會(わかんさんさいずえ)』には、農産物として大豆・胡麻、海産物として鮑・鰹・鯵(あじ)・白藻、松山名物として素麺が挙げられている(㉒)。

 (イ)村人の食生活

 幕府が出した『慶安の触書』(慶安2年〔1649年〕)には、農民の食生活について、「百姓の食料の主体は雑穀である。したがって、麦・粟(あわ)・稗(ひえ)それに菜・大根(だいこん)、そのほか何でもよいから雑穀を作り、米を多く食いつぶさないようにしなければならない。」といったことが書かれている。こうした幕府の農民統制の方針のもと、伊予各藩でも同様の布達(ふたつ)(広くふれ知らせるための文書)が出された。例えば、寛文10年(1670年)に西条(さいじょう)藩から、「百姓の食べ物は、常(つね)日ごろぜいたくを慎んで雑穀を食べ、米は気ままに食べてはならない。」と命が下され(㉓)、正徳2年(1712年)に今治藩からは、「末々の小百姓はいうにおよばず、庄屋・組頭・長(おさ)百姓であっても、妻子等まで常々雑穀を食べ、米を費やしてはならない。」とする布達が出されている(㉔)。
 しかし、こうした食生活規制の有無にかかわらず、厳しい年貢の取り立てにあえぐ一般の農民たちは、日常、白米を食べる生活を送ることはできなかった。『宇和島吉田両藩誌(うわじまよしだりょうはんし)』は、南予地域の農民の食生活について、「食物は極めて質素なもので麦飯の時が半分、あとは時に応じて粥・雑炊・はったい粉(麦などを炒(い)って焦がし、ひいて粉にしたもので、水や湯で練って食べたと思われる。)を交える。副食は野菜に限られているようで、農家が生魚を食べるのは祭礼や特別の客が来た時に限られている。祭礼の時でも多くは手作りの野菜と豆腐・蒟蒻(こんにゃく)であって、魚類はわずかに数尾を用いるにすぎない。」と伝えている(㉕)。また、宇和島藩領東・西三浦(みうら)(現宇和島市三浦東(みうらひがし)地区・三浦西(みうらにし)地区)の庄屋であった田中家の文書によると、庄屋の家であっても、隠居は米の飯を食べられるものの、その他の家族は米7・麦3の割合の混合飯であり、雇い人は麦とサツマイモが主食だったという(㉕)。
 今治地方に伝わる盆踊り歌に、次のようなものがある。

   盆が来たからこそ、麦に米まぜてエーソレ
   それにササゲをチョットまぜて
   ヤーレおかしいかエー(㉖)

 日常生活の中では米を食べることができず、お盆の日が来てようやく、麦に白米を混ぜた飯が食べられるというのである。
 宇和島藩領遊子津之浦(ゆすつのうら)(現宇和島市遊子地区)における文化6年(1809年)の龍王(りゅうおう)祭(龍王神社の秋の祭り)の際には、その前夜祭のお膳に、鱠(なます)(ミョウガ・ツイモの茎・魚の切り身)、汁(魚の切り身・豆腐・青菜)、香の物(ダイコン・ナス)、それにイモ類・豆腐・シイタケなどを盛った平皿と飯が並んだ(㉕)。村人たちがこのような料理を味わうことができるのは、村祭りやその他の祝い事、年中行事といった特別な日に限られていたのである。

 (ウ)飢饉を耐える

 村々はこのような貧しい食事情だったので、飢饉(ききん)が来るたびに餓死者を出した。伊予において最も深刻だったのは、享保17年(1732年)から18年にかけての「享保の大飢饉」だといわれるが、大きな被害をこうむった松山藩の状況はおおよそ次の通りである。
 享保17年は、長雨が続いて稲の立ち枯れ・腐敗が目立ち始めたところにウンカが大発生し、稲だけでなく雑草に至るまで全滅に近い状態になった。農民たちは、わずかに貯蔵していた雑穀をはじめクズの根・ニレの葉まで食べて飢えをしのいだが、結局多くの餓死者が出た。その数は領内全体で4、5千人にのぼるともいわれる。翌年植える麦種を村人たちのために食べずに残し、ついに餓死したという筒井(つつい)村(現松前町筒井地区)の義農作兵衛の逸話はこの時のものである(㉖)。
 松山藩もこの飢饉に際して貯蔵食料の放出などを行ったが、対策は遅れがちであった。そのような中で、食料に多少の余裕のある鷹子(たかのこ)村(現松山市鷹子町)の農民平左衛門及び五左衛門は村内の人々にダイズ・ソバを配り、古川(ふるかわ)村(現松山市古川町)の農民勘左衛門は蓄えた大麦を毎日少しずつ村人たちに配給した(㉖)。このように、農民同士の助け合いによって飢饉を乗り切った事例もある。
 飢饉の際の代用食を救荒(きゅうこう)食と呼ぶ。天保3年(1832年)の飢饉の際に、富岡(とみおか)村(現松野町富岡地区)では、クズやカラスウリの根の団子(だんご)、米糠(ぬか)3にキビ1の割合で混ぜた飯などを救荒食とした。また、天明5年(1785年)に朝倉上(あさくらかみ)村(現越智(おち)郡朝倉村朝倉上地区)に下された『飢饉之節心得(ききんのせつこころえ)』では、飢饉に備えてアワ・ヒエ・ハトムギ・エンドウ・ヤマイモや木の実などを栽培・採集することが命じられているが、このうち雑穀類は当時の村落ではそのまま日常食でもある。さらに越智郡の島々では、救荒食として広くサツマイモ(甘藷(かんしょ))が導入されて享保の飢饉に餓死者を出さなかったといわれるが、サツマイモは後にこの地方の日常の主食的存在となっていった(㉗)。
 救荒食となる野生植物として、マンジュシャゲ(ヒガンバナ・シデイ・シレイなど別称が多い。)がよく知られている(写真1-1-9参照)。マンジュシャゲの球根の皮をむいて釜(かま)で煮て、次に布袋に入れて水でさらすと豆腐のような固まりになる。これを焼いて食べるのである。そのほかにも救荒食とされた野生植物では、ギボウシは若葉をゆでて食べたり、ゆでた後に乾燥して保存しておく。スイバは若葉をゆでて和え物にしたり、茎の皮をむいで一夜漬けにする。ヒシは種子の中の子葉(しよう)に多量のでんぷんが含まれているので、ゆでて実を割って食べる(㉕)。これらはいずれも、厳しい食事情の中を生き抜いていくための村人たちの生活の知恵であった。

 (エ)村のもてなし

 この時代の村の人々は、自身が貧しいながらも、外部からの訪問者に対して精一杯のもてなしを行うことがあった。遍路道沿いの村々で行われた四国遍路へのお接待(遍路に湯茶や食べ物などを振る舞ってその労をねぎらう行為)の風習は、その一例である。
 天保7年(1836年)に関東地方から遍路に来た野中彦兵衛の道中記を見ると、伊予で14回のお接待を受け、そのうち12回は食事の提供であった。出された飯は赤飯(せきはん)が最も多いが、白飯も4回ある。4回の内訳は、下畑地(しもはたじ)村(現北宇和郡津島(つしま)町下畑地地区)で白飯とだいこん漬け・野菜・餅、松山近辺で白飯とおひたし、太山寺(松山市太山寺町)境内で白飯と野菜、今治近辺で白飯にだいこん漬けとなっている(㉘)。普段自分たちが食べることのできない白米の飯を、旅の遍路には与えていたのである。
 また、「もてなさざるをえない」場合もある。例えば、藩の役人が検分(けんぶん)(立会い調査を行うこと)などのために村にやって来た時である。松山藩の藩役人出郷(藩役人が公用で村に来ること)の際の定式献立を『愛媛県史』から抜粋すると、村として特別な食事を用意しなければならなかったことが分かる(㉔)。藩役人が食事や宿泊をするのはだいたい庄屋宅であり、おおむね庄屋やその一族が世話をしたのだろうが、場合によっては村人たちも手伝いさせられたものと思われる。
 村に来るのが藩主の場合はなおさら大変である。元治元年(1864年)、西条藩主が寺参りの帰りに領内氷見(ひみ)村(現西条市氷見地区)の庄屋宅に休憩のため立ち寄ることになった。そのため、庄屋の一族などが、あらかじめタケノコ・シイタケ・ワラビ・タイ・ハマグリなどの食べ物を献上品として用意した。前日になると、配膳方(はいぜんかた)・火鉢方(ひばちかた)・魚取扱方・料理人・給仕人やその手伝い人など合わせて60人ほどがやって来て準備を行い、台所道具なども所定の場所に設置した。そして、いよいよ当日を迎えると、庄屋宅の人数は村人の手伝いを含めて100人ほどにのぼった(㉓)。
 やって来た藩主一行は、用意された紅ようかんと茶でまず一服し、続いてお茶漬・エビの葛打(くずうち)(刻んだエビを葛粉でまぶしてとろみをつけたもの)・春菊(和菓子の一種と推定される。)・はりはり漬け(干しだいこんの漬物)・ナシを食べた。さらに料理を食べ進むうちに雨模様の天気となったため、一行は予定を切り上げ急いで出立していった(㉓)。藩主の来訪は、村をあげての最大限のもてなしを必要とする重大な行事であった。

 イ 食とまちの人々

 (ア)町人たちの食

 幕藩体制下では、農民へ厳しい生活統制がなされた一方、町人に対する統制は比較的緩やかであった。したがって、町の自由な雰囲気を背景に、江戸を中心とする都市部に数々の飲食店・料理屋が登場したのである。江戸で最初の飲食の商売は煮売屋(にうりや)(道端で煮物や餅を売る商売)だといわれるが、やがて店を構える飲食店となり、その種類もすし・そば・うどん・かばやき・天ぷら・茶湯飯と増加した。富裕な商人たちを主な顧客(こきゃく)として、豪華な会席料理を出す料理屋も繁盛した(⑲)。
 なお、すしは元来、飯にはさむことで魚肉を保存するための技術として発生したのだが、この時代にコハダ(コノシロ)を飯の上にのせる握りずしが登場し、以来、この形態のすしが全国に広がった。このように新しい料理法が次々と考案され、例えば豆腐一つとっても『豆腐百珍(とうふひゃくちん)』という書物が著されるほどに多様化した(⑲)。都市部に新たな食の文化が開花しつつあったのである。
 伊予においても同様に、当初は町人に対する食生活上の統制は比較的緩やかであった。文政12年(1829年)の松山藩の町触(まちぶれ)(町々に出される法令)を見ても、町人は平常におごった飲食をしてはならないと命じている程度である(㉔)。
 しかしその後、天保13年(1842年)に出された触書からは、「天保の改革」に伴う倹約令とともに町人の食生活についても規制強化が図られたことが分かる。町人相互の饗応(きょうおう)をいさめたこの触書では、祭礼時に親戚(しんせき)たちを招く際の食べ物を鉢二つ分の料理と飯・汁に限定し、さらに、料理の細かい内容にまで規制が及んでいる。これが発せられた直後、禁令に背いたということで、松山城下小唐人町(ことうじんまち)(現松山市大街道(おおかいどう)1~3丁目など)の商人が押込(おしこめ)(門を閉じて外出を禁じられる。)・過料(罰金を支払わされる。)の処罰をこうむっている(㉔)。

 (イ)金毘羅への旅の食事

 町人の日常の食事とは若干異なるが、この時代に伊予の各町の旅籠(はたご)(旅館)で出していた旅の食事について、岡太仲(おかたちゅう)の道中記から見ていきたい。彼は吉田藩の藩医であり、文久2年(1862年)3月に藩の人々とともに讃岐金毘羅宮(こんぴらぐう)に参詣(さんけい)して、『讃州金毘羅宮御参詣(さんしゅうこんぴらぐうごさんけい)』と題する記録を残した。この中には、旅行中の彼らの毎日の食事が詳細に記されており、宿泊した旅籠や立ち寄った店での食事の内容を知ることができる。その幾つかを以下に紹介する。
 金毘羅に向かう途中の3月5日、岡太仲の一行は内ノ子(うちのこ)(現喜多(きた)郡内子(うちこ)町内子地区)の旅籠「よしや」に宿泊した。夕食は、飯、平皿の上にあぶらげ(油揚げ)・こんにやく(こんにゃく)・牛蒡(ごぼう)・菜・こぶ(コンブ)、汁つミ入(魚のつみれがはいった汁)、小皿の上に香の物(漬物)である。翌朝は、飯、平皿の上にあぶらげ・椎茸(しいたけ)・しらがこぶ(とろろ昆布(こんぶ)を細かく刻んだもの)、汁、小皿の上に菜漬けの献立であったが、この食事は太仲には不満であった。給仕女の接客態度が悪く、「飯やわらかニてぐじやぐじや(㉙)」で、その上「御飯の菜水くさいのによわり醬油をもらひ(㉙)」食べる有り様だったからである(㉙)。
 3月9日には、一行は関ノ戸(せきのと)(現新居浜市船木関ノ戸(ふなきせきのと)地区)の旅籠「辰巳(たつみ)屋」で昼食をとった。新居(にい)郡と宇摩(うま)郡の境(現新居浜市と現土居(どい)町の境)の峠に位置する関ノ戸には、当時10数軒の旅籠・木賃宿(きちんやど)(旅人が食料持参で宿泊する安宿)が立ち並び、小さな宿場町をなしていた。彼らは辰巳屋で、飯、平皿の上に麩(ふ)・干大根(ほしだいこん)、別の皿の上にこんにやく、小皿の上に香の物といった内容の食事をとったが、酒好きの太仲は連れ1人とここを抜け出して隣の店に行き、酒3合を飲んで知らん顔をして戻ってきた(㉙)。
 翌3月10日の昼食は、川之江(かわのえ)(現川之江市川之江町)の「かどや」で、飯、平皿の上に菜・かまぼこ・麩、別の皿の上にねぎすあへ(ネギの酢和え)を食べた。彼はここでも酒を一杯やり、皿に盛られた「すあへ結構結構(㉙)」と喜んでいる(㉙)。昼間からたびたび酒を飲んでいるのは、旅の気安さからかもしれない。
 こうして並べてみると、彼らの旅の食事は一般的な町人の日常食よりはやや上等のものだったようである。旅をする機会が限られた当時の人々にとって、金毘羅宮・伊勢神宮などへの社寺参詣(さんけい)は生涯で数少ない行楽の旅という性格をもっていた。したがってその際に、金銭的に多少余裕のある者は普段よりおいしい食事を求めたのであり、飲食自体が道中の大きな楽しみだったようである。

 ウ 武士の食

 (ア)地方武士の食生活

 この時代の地方武士の食生活を知る史料として、宇和島藩士であった三浦家に伝わる文書がある。この三浦家を例として、当時の地方武士の食生活を見ていきたい。
 三浦家5代目当主の義陳(よしひさ)は、寛延3年(1750年)から4年にかけて参勤交代のため江戸に滞在するにあたって、宇和島に残る留守家族の生活のために収支計画書を作成した。それによると、家族一人あたりの米の消費は1日2合半(0.45ℓ)であり、そのほか正月など年中行事の際のもち米や自家製の味噌・醬油を作るためのダイズの購入費用、そのほか若干の副食費用が想定されている。三浦家では納豆(浜名(はまな)納豆と呼ばれる塩辛納豆)や酢も自家製で、ナス・イモなどの野菜も屋敷内の菜園で栽培していた(㉚)。
 それでも俸禄(ほうろく)(江戸時代の武士の年間の給料)70石の家計は完全な赤字だったらしく、義陳は、もし留守中に借用米の返済を求められたら、主人が留守であることを言い立ててきっぱり断るようにと書き送っている。彼はその後、加増を重ねて宝暦9年(1759年)に150石となり、その結果、ようやく隠居の父親・義伯(よしのり)の食卓に、毎日生魚・薄塩魚がのぼるようになった(㉚)。三浦家は、藩内では中級以上の階層に位置づけられる家であるが、それでも生活は決して楽なものではなかったのである。
 次に、今治藩の上級藩士江嶋(えじま)家の料理を取り上げる。江嶋家初代の為信(ためのぶ)は藩の家老職をつとめ、当時の伊予を代表する文人としても知られた人物である。
 天保4年(1833年)の江嶋家の婚礼に際して夜の宴で出された料理が、最近になって江嶋家文書をもとに再現された。ここで特徴的なのは一番後ろの黒い椀(わん)に入れられた濃醬(こくしょう)と呼ばれるもので、魚のつみれ・焼き豆腐・イモ・ゴボウが入っている。また左右の大鉢には、縁起物の松竹梅として、板はんぺん(板かまぼこのこと)・焼鳥・サザエ・クルマエビ・小ダイ・イイダコ・卵・長イモ・コウタケ(河茸)・クネンボ(九年母と書く。ミカン科に属し、果実はユズに似る。)・ニンジン・フキノトウ・巻鮨(まきずし)が盛られている。そのほかは、前方が香の物、後方が茶漬飯である(㉛)。
 この料理を試食した人々からは「意外に質素だ。」という声があがったそうだが(㉜)、使われた食材の多さからすると、当時としてはかなり豪華な料理だったようである。

 (イ)江戸で暮らす

 次に話を三浦家にもどし、参勤交代による三浦家当主の江戸での生活を見てみたい。
 7代目当主の三浦義信は、天保7年(1836年)から翌年にかけて藩主のお供で江戸の宇和島藩上屋敷(かみやしき)に滞在した。彼は、屋敷地内の長屋の一角に二男直次郎・四男栄と親子3人で住み、自炊生活をおくった。俵に入れて保存している米をかまどで炊き、敷地内の空き地で栽培したナスなどを副食としたつつましい食生活であった(㉚)。
 彼は、江戸での食事について幾つかの感想を書き残している。天保7年10月にはそばを「珍しく快く食べた。」、11月になって宇和島への帰国が決まると夕食に魚の鍋焼き・ニワトリの汁を食べて酒を飲み、「今日はいつもより食が進むようだ。」、翌年2月には、帰国したら「妻の浅漬けを食べることができるのを楽しみにしている。」といったたぐいである。時には故郷を懐かしみ、息子たちが宇和島名物のイワシのさつま汁を作っている。また、銘々が酒・料理を持ち寄り、長屋で同僚とささやかな宴会をすることもあり、10月に開いた宴(うたげ)の献立は、カキの吸い物・マグロの刺身・ミカン・卵・落雁(らくがん)(和菓子の名称)などであった(㉚)。
 温暖な宇和島生まれで60歳代半ばに達した義信には、江戸の寒さは相当こたえたらしい。毎晩寝酒を飲み、藩主の息子からは寒さ対策になるからと餅を勧められている。そのほか、身体を温めるために試してみたニワトリ・イノシシ・カモシカの肉はすぐには効果がなかったが、白牛酪(らく)(白いチーズ)はよく効いたと書き残している。彼によると、白牛酪はつまみと同様に酒とともに食べる薬だということである(㉚)。

写真1-1-8 現在の三間盆地の農村風景

写真1-1-8 現在の三間盆地の農村風景

写真中央の円錐形に見える山が大森城跡。平成15年11月撮影

写真1-1-9 マンジュシャゲ

写真1-1-9 マンジュシャゲ

川之江市川滝町下山。平成15年10月撮影