データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)七夕まつり

 七夕(たなばた)の行事について、「奈良時代、中国より五節供(ごせっく)(正月7日・人日(じんじつ)、3月3日・上巳(じょうし)、5月5日・端午(たんご)、7月7日・七夕、9月9日・重陽(ちょうよう))の一つとして我が国に伝わり、乞功奠(きっこうてん)と云う星祭が行なわれ、以来王朝文化の中に溶け込み、恋歌等が読まれ何等かの形態を保ちつつ江戸期に入り、七夕祭(旧暦7月7日)として、庶民の間に崇敬せられ伝統的な行事となる。(⑩)」とある。
 『四国の歳時習俗』には、「6日の早朝、畑のツユ芋、里芋の葉に溜(た)まっている露の玉を硯(すずり)に取って墨(すみ)をすり、短冊に切った五色の紙に星の歌、願い事を書いて、青竹の笹(ささ)に吊(つ)るし縁先などに立てる。七夕さまには、初物の西瓜(すいか)、南瓜(かぼちゃ)、瓜(うり)、ホウズキの赤い実などを供える。(⑯)」と記している。
 宇和島藩士三浦家文書(もんじょ)から、寛政9年(1797年)の記述をみると、七夕には笹に願いごとを書いた短冊をつけ、スイカ、ナス、酒、米などを供え、夜には燈明(とうみょう)を入れ、夕飯は汁(しる)と野菜の煮物などを食すると記されている。
 また、吉田藩庄屋毛利家(現北宇和(きたうわ)郡三間(みま)町是能(これよし))文書『家風仕栄記』の「七夕祭り」によれば、六日の夕方、七夕様に瓜(ウリ、スイカ、カボチャ)、ナス、ナシ、団子をお供えし、家内で人の食するものとして、団子、餅、しば餅や野菜、ナス、果物、そうめんなどが記されている。
 ここでは、七夕まつりの一例として喜多(きた)郡内子(うちこ)町の「笹(ささ)まつり」と周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町の「七夕まつり」を取り上げる。

 ア 内子の笹まつり 

 内子町は県の中央部、喜多(きた)郡東部の内山盆地(うちやまぼんち)に位置し、かつて大洲街道(おおずかいどう)沿いの在町(ざいまち)(城下町、宿場町以外のいなか町。郷村と町の総称)として栄えた。その繁栄ぶりは、今なお旧街道筋の八日市(ようかいち)・護国(ごこく)の町並みや佇(たたず)まいから、うかがうことができる。
 『新編内子町誌』によれば、現在の笹まつりは、「昭和32年(1957年)、商工会青年部によって商店の繁栄や感謝の意をこめて始められ、期日も8月6~8日となった。内子の商工会では豪華な笹飾り(写真2-1-12参照)で町を飾り観光事業化している。昔の笹まつりは、親指大の真竹(まだけ)に五色の色紙を短冊にして家ごとに飾った。現在、大人の腕大の孟宗竹(もうそうちく)に、マイト(円筒)型の豪華で地面に届きそうな飾りをするのとは雲泥(うんでい)の相違である。(⑰)」と記している。
 昭和30年(1955年)ころの内子町内の笹まつり(七夕)の食について、地元に住む3人に聞いた。
 八日市(ようかいち)地区の**さん(大正15年生まれ)は、「ご飯はばらずし(ちらしずし)です。具はゴボウ・ニンジン・ニシキ豆などに、かまぼこやちくわを細かく切り込んだもの。そうめんも夏場はよく食べました。おかずは、この地方の名物“焼さば”(口絵参照)を入れたきゅうりもみのほか、煮しめ、なます、ところてん、川魚などです。小田川が近く、ハヤ・カジカ・イダ・川ガニ(モズクガニ)・アユ・ウナギなどの川魚はよく取って食べました。特にアユや川ガニは高価なのでほとんど売りに出し、普段は口に入りませんでした。」と語る。
 「笹まつりコンクール」で、今年も笹飾りが特選になった本町の**さん(昭和18年生まれ)は、「その当時、庶民の魚としてハモが潤沢(じゅんたく)に出回っていました。小骨を切り、湯引きしてから酢味噌か、焼き魚として食べました。今もこの味は忘れられません。たらいに水を張り、冷たくして食べた手打ちのうどんもご馳走でした。今のように『七夕まつり』は派手でなく、当時は特別にお客を呼ぶこともなく、むしろ7月15日の『夏祭り』の方がにぎやかでした。七夕や夏祭りの定番料理は、具をたくさん入れたばらずし(ちらしずし)でした。」と話す。
 さらに、本町3丁目の**さん(大正11年生まれ)は、「内子の夏の料理に特別なものはありません。夏はそうめんが中心で、それ以外は手打ちうどんです。さつまにキュウリを刻んで入れたきゅうりさつまをご飯にかけてよく食べました。盆地のこの地方では、生魚を無塩(ぶえん)といい貴重品でした。魚はあまり使いませんが、秋口から冬の間は塩魚を使いました。夏場から秋口にかけては“焼さば”を入れたきゅうり和(あ)えが定番でした。古くから町内には夕方になると、さばを炭火で焼き、“焼さば”にして専門に売り歩く人がいました。」と言う。
 今年(平成15年)、46回目を迎えた内子の夏の風物詩「内子笹まつり」が8月6日から3日間、本町商店街で行われ、1.3kmの商店街には高さ約10mの竹に、色とりどりのくす玉や吹き流しが飾り付けられ、手作りの繊細な笹飾りが多くの見物客を魅了した。

 イ 丹原の七夕まつり 

 丹原町は県の東部、周桑平野の南西部に位置し、かつて松山藩(はん)の在町として栄えた。町域を流れる中山川は肥沃(ひよく)な沖積平野をつくり、米と果樹を中心とした農業が盛んで、特にあたご柿(がき)が有名である。
 七夕について、『丹原町誌』には、「旧暦7月7日丹原町の七夕祭りは、このごろは新暦の8月7日に行われる。6日の朝早く、里芋や稲の葉の露を集めて来て墨をすり、五色の短冊に『七夕祭』『天の川』『星合の空』其(そ)の他和歌、俳句、絵等を書き、しゅろの葉を裂いてそれを通し、竹ざさ2本を対にして飾り付け夕方までに庭先に立てる。それに横竹を渡し、小田原提灯(おだわらちょうちん)、ほうずき、ふろう豆(ナガフロ豆ともいう)、なす等をつるす。かぼちゃ、うり、すいか、ぶどう等を供え、夜になるとちょうちんにあかりをともす。7日の朝は、柏餅や団子を作って供え、夕方短冊のついたささ(笹)を川に流して行事を終わる。(⑱)」とある。
 丹原町久妙寺(くみょうじ)地区の**さん(大正15年生まれ)に、昭和30年(1955年)ころの七夕の食について聞いた。
 「普段は麦ご飯でしたが、七夕さんの時は『ササゲのおこわ』を作り家族で食べました。田の畦(あぜ)で作ったササゲ(豆科の一年草、熟した種子は食用)は七夕さんに間に合いました。ササゲを薄塩で、もち米のおこわと別々に炊いて混ぜて作りました。当時は大変なご馳走でした。その他にはイースト菌を入れた蒸しパンとしば餅を作りました。七夕さんだけでの特別なお客はありませんでした。ハレの日の食はほとんどばらずし(ちらしずし)でした。周桑地域では、押しぬき箱を使って、ばらずしを詰めた『押しぬきずし』を年中作ります。すしの具(ぐ)は季節の旬(しゅん)の野菜・山菜・魚です。すしの上に載せる上盛(うわも)りは色とりどりのもので、その色合いが食欲をそそったものです。お客が来る時は、押しぬき箱(写真2-1-13参照)からぬいた四角いすしをすぐ皿(さら)に入れて出せばよいので、慣れれば作るのは簡単でした。たくさん食べる人は、二重(にじゅう)(二段)にしてくれと注文したりしました。また、七夕とお盆の行事食として、餅にあんこをつけたとりつけ団子(あんころ餅)を忘れることはできません。」と語る。
 小冊子『松山百点』には、「押しぬきずし」(別名型ずし)について次のように記されている。「山や海の幸をふんだんに使い、家ごとに伝統の味付けをした郷土料理だ。冠婚葬祭(かんそんそうさい)はもちろん、何かと人が集まる折に登場する色鮮やかな、おもてなし料理でもある。現在は、四角い木型だけでなく、季節の行事や祭りにあわせて、ひょうたんや扇、梅の花型などで季節感を表現している。(⑲)」
 近年、丹原町では「押しぬきずし」を応用して、町特産のあたご柿の葉を使った「柿の葉ずし」を新たな郷土料理として生み出している。
 今年(平成15年)、23回目を迎えた「丹原七夕夏まつり」は、8月5日から7日までの3日間開催され、色鮮やかな手作りの七夕飾りがずらりと並び、多くの見物客でにぎわった。

写真2-1-12 内子の笹まつり 

写真2-1-12 内子の笹まつり 

内子町本町通り。平成15年8月撮影

写真2-1-13 押しぬきずしの押しぬき箱

写真2-1-13 押しぬきずしの押しぬき箱

丹原町久妙寺。**さん宅。平成15年7月撮影