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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)石のお亥の子さん

 石の亥の子をつく地域の一例として北宇和郡吉田(よしだ)町立間尻横網代(たちまじりよこあじろ)地区を取り上げる。吉田町は県の南部、北宇和郡の北西部に位置する。かつて旧吉田町は吉田藩三万石の陣屋(城を持たない小藩の藩主の屋敷)町として栄え、現在は県下最古の歴史をもつ柑橘(かんきつ)栽培やタイ・ハマチ養殖が盛んである。横網代地区は吉田湾に面する旧吉田町南部にあり藩政期に造成された地域である。
 伝統を有する吉田の亥の子について、『吉田町誌 上巻』に、「現在、亥の子石をはじめ、亥の子宿の様子など、だいたい明和(1764~1772年)のころあたりの姿をとどめているわけで、(中略)この風習は、つい最近まで二百年あまりもそっくりのまま継承されてきた。(㉓)」と記されている。
 『宇和島吉田両藩誌 旧記輯録(しゅうろく)(宇和島藩)』によると、「亥の日の前夜は通夜と号して銘々手弁当にて集まり暁八時(あけやつどき)よりつき廻ることなりしが追々(おいおい)夜中に小豆粥(あずきがゆ)を出し次第に増長して小豆飯にこくしょふ(みそ汁)を附けて出し、近くは本膳にして出す所もあり…(㉔)」と記し、さらに江戸末期、文政6年(1823年)の桜田某(さくらだぼう)の書き遺(のこ)した随筆には、「亥の子が子どもの遊びとは思わないほど華美になったことや、本来の行事が正しく行われなくなったこと(㉔)」を嘆く記述が見られる。また、安政4年(1857年)には、家中(かちゅう)町(武士が住んでいた地域)と町人(ちょうにん)町(町人が住んでいた地域)の亥の子連中の衝突『吉田亥の子騒動』が起こるなど、吉田の亥の子の過熱ぶりがうかがえる。
 吉田町立間尻元町(もとまち)地区の**さん(大正12年生まれ)と長男の**さん(昭和23年生まれ)に、かつて昭和30年(1955年)ころに住んでいた吉田町横網代地区の亥の子について聞いた。
 「私の家は広かったので、**が幼稚園にあがった昭和27、8年(1952、53年)からずっと亥の子宿をしていました。亥の子は組ごとに行い、組には昭和30年当時40~50の世帯があり、亥の子に該当する男子の小学生は20人くらいいました。亥の子は子ども組の行事で、きちんとした年齢階梯(かいてい)(年齢による階級)制があって6年生に亥の子を仕切る頭取(とうどり)がいて、その指揮によって運営されていました。当時は11月の最初の亥の日、一番亥の子だけ行っていました。亥の子当日は、お昼ぐらいまでいろいろな準備をします。宿には『段飾り』(口絵参照)という祭壇を設け、最上段には恵比寿・大黒様を配し、鏡餅に大きなタイや葉付きダイコン2本、お菓子などをお供えし、最下段には代々の亥の子石を飾ります。午後からは色とりどりの鉢巻(はちまき)やたすきを付け、勇ましい格好で御花(おはな)(ご祝儀(しゅうぎ))をもらった地区内の家々をついて回ります。現在は夕食をすませた後、今から20年程前に始まった、旧吉田町内の『亥の子大会』に参加し、かがり火の燃え盛る広場に幟(のぼり)を立て、地区ごとに元気よく競ってつき合います。会場は子どもたちの熱気が立ち込め壮観です。夜は『お宿回り』といって旧町内の他の組の宿をついて回りました。夜はほとんどの子どもが蒲団(ふとん)を持ってきて宿に泊まります。昔は個人の宿に泊まっていましたが、今のように公民館や集会所になったのはもう40年以上前になります。
 昭和30年代の1日目の晩の食事は、いりこを入れた炊き込みご飯、おかずは野菜の天ぷら、なます、魚の煮付け、野菜に豆腐やシイタケを入れた煮物で、2日目の朝は雑煮と決まっていました。昼は必ず赤飯が出ました。現在は夜と翌朝と昼の食事は公民館で出します。昔は原則として6年生の頭取の母親が料理を全部作っていましたが、最近、夜の食事は店屋物(てんやもの)(店屋から取り寄せる食べ物)の弁当を取っているようです。2日目は朝6時ごろに起き、まず地区内の四つ辻へ亥の子をつきに行きます。この時、なぜかダイコンを持って行き、その上でつくのです。これは田んぼの神様を大地に戻すためだと言う人もいます。
 同じ吉田町内でも、地区によって亥の子行事は大分違います。立間(たちま)地区は南予独特の鉢盛(はちもり)料理(高知県や南宇和郡では皿鉢(さわち)料理という。)で賄(まかな)ったようですが、旧町内に比べれば質素で、幟を立ててのお祭り騒ぎはしません。また海岸部の奥南(おくな)地区は子どもだけで亥の子を祝い、ついて回るといいます。その点、旧吉田町内はかつて陣屋町であった関係からか、他と比べると衣装もカラフルで、内容も派手で凝(こ)っています。
 亥の子の当日、一般の家では亥の子餅を搗き、ばらずし(ちらしずし)を作って食べたり、海が近く魚が豊富なのでたいていの家では、タイやブリの刺身を出して祝いました。」
 町内の数人に、戦後間もない昭和20年代の亥の子宿の主な料理を尋ねると、「ご飯はばらずし、海岸部の玉津(たまつ)地区では巻きずし、ダイコンなどの野菜・山菜・いりこを入れた炊き込み。おかずは煮魚や干物、いりこ、野菜・サツマイモ・豆腐等の煮しめや寒天(水羊羹(みずようかん))、ダイコンの酢の物、さつまいも料理。」といった回答が多くみられた。
 昔の亥の子は男の子だけの行事だったが、子どもが少なくなった現在、女の子も加わり、一緒にやっている。今、各地区の愛護班や公民館の行事として亥の子を行っているが、年々派手になり頭取(6年生)の親の負担も少なくない。日時・宿・食事や亥の子の運営など、以前と大きな変化がみられるものの、子どもの亥の子行事は時代をこえて継承されている。