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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)無事な成長を祈って①

 ア 生児の儀礼

 誕生してから1年間は、この世に初めて生を受けた不安定な状況にあるため、初めてあの世に移った死者と同様に多くの儀礼を通過しなければならない。
 チツケ(乳つけ)…生後3日間は、生児に乳を飲ませない。最初は生児の胎毒(母体内で受けた毒)を下ろすためにゴコウ(*2)を飲ませ、さらに最初の乳は母親ではなく他人の乳をもらった。これを乳つけという。生児の側では、乳をもらった人をチツケオヤ(乳つけ親)といい、生児が大きくなるまで年玉(新年のお祝いに贈るもの)や歳暮を贈る慣習がある地域もあった。
 シチヤ(七夜)…名付けは一般的には生後7日目に行うので、この日を七夜という。また、命名が行われることからこの儀礼をナツケ(名付け)と呼ぶ地域もある。産毛を剃(そ)ったり、産婆、親戚を呼んでお祝いしたり、餅(もち)の贈答があったりする。
 ミヤマイリ(宮参り)…生後30日ころに宮参りを行う。期日は地域により異なる。ウジミセなどとも呼ばれ、神社に詣(もう)でて生児をわざと泣かせる。子どもの声を氏神に聞かせて、氏子になったことを承認してもらう儀礼である。
 クイゾメ(食初め)…多くの地域で、生後100日目に食初めの儀礼が行われる。モモカ(百日)と呼ぶ地域もある。生児の膳(ぜん)や箸(はし)・茶碗(ちゃわん)をそろえることからハシゾロエ(箸揃え)とも言い、米のご飯や赤飯を食べさせるまね事をする行事である。
 ハツゼック(初節句)…生後初めての節句を初節句という。女の子は3月3日の上巳(じょうし)の節句を初節句として祝い、男の子は5月5日の端午(たんご)の節句で祝う。共に年中行事に人生儀礼が結合したものである。初節句の時には、女の子に雛(ひな)人形、男の子には鯉(こい)のぼり(写真2-2-1参照)などが贈られ、盛大にお祝いする地域が多い。
 ハツタンジョウ(初誕生)…かつての数え年による年齢計算では、正月に歳(とし)をとるため、毎年の誕生日を祝う風習は無かったものの、最初の誕生日だけは古くから祝う慣習があった。子どもに餅(もち)を背負わせて歩かせたり、親戚に餅を配るなどの儀礼が行われる。
 こうして初誕生までの1年間、子どもはさまざまな儀礼を通過しなければならない。この間、誕生間もない生児は、トリアゲオヤ(取り上げ親)、チツケオヤ(乳つけ親)など多くの親に見守られながら、成長していく。

 イ 成長を祈る食

 (ア)乳つけから食初めまで

 **さんと**さんに、宇和島市日振島能登地区の乳つけから食初めまでの食について聞いた。
 **さんは、「ゴコウは聞いたことがありません。生まれたての赤ちゃんには2、3日だけ乳首のようにしたガーゼに中将湯をつけて飲ませていました。中将湯は富山の薬屋さんが持ってきていました。」と言う。
 乳つけといって生児には母親以外の乳を飲ませる。**さんは、「生後3日目に乳を飲ませます。最初の乳は、他人の乳をもらいます。男の子の場合は女の子を持つ母親から、女の子の場合は男の子を持つ母親からもらいます。私は家内と隣同士で同年の生まれですが、私の母が家内に乳を飲ませたと言っていました。」と言う。
 **さんは、「お七夜には、赤ちゃんの頭の毛を全部そり、眉毛を口紅で赤くなぞっていました。また、お米7合(約1.26ℓ、約1.05kg)の産見舞いをもらった人を呼んでお祝いをしていました。」と言う。お祝いの料理は、「例えば、サトイモ・カボチャ・ジャガイモ・ダイコン・ニンジンなど季節の野菜の煮物、タイ・イサギ(イサキ)・アジなどの魚を使った刺身、ホゴ(カサゴ)などを使った魚の煮つけ、ワカメ・トサカ・サザエ・アワビなどの魚介と季節の野菜を使った酢の物、それにお吸い物などの料理ですが、その時々に手に入るものを使って作っていました。夏場ならそうめんが加わるし、たて網(上部に浮子(うき)、下部におもりをつけて海中に張り、魚やエビをひっかけてとる網。刺し網)にイセエビがかかればイセエビが出され、フカ(サメ)がとれればフカのみがらし(*3)が出され、おからが手に入れば丸ずしを作るといった具合です。料理の品数はめでたい数の奇数で準備します。ご飯ものは、赤飯、ちらしずし、白いご飯も用意していました。産見舞いにもらった米を使って作っていたのです。」と話す。能登は漁業を主な生業とする集落であり、その時々にとれたものを利用する料理であったといえる。尾頭付きのだしいりこが産見舞いで使われているのも、いりこの産地であったからである。
 宮参りは、**さんによると、「女の子は誕生後33日目です。男の子は少し早かったようですが、覚えていません。氏神様にお姑(しゅうとめ)さんが抱いて行って泣かせるんです。母親はついて行くだけで、お姑さんがいない家では、仲人さんが抱いて行きました。」と言う。
 食初めについて、**さんは、「能登ではタベゾメといっていました。生後100日目にする行事でした。適当なものをお膳にして、小さなタイの尾頭付き2匹、赤飯、野菜の煮物、酢の物、お吸い物などを作って、取り上げ婆さんか産婆さんが食べさせる真似(まね)をしていました。100日目で、まだ歯も生えていませんから。」と言う。

 (イ)節句の行事

   a 上巳の節句

 上巳(じょうし)の節句は五節句(*4)の一つの年中行事であり、人生儀礼とは異なる性格を持っている。旧暦の3月3日に行われ、一般に女の子の節句とされる。もともとの節句の意味は、季節の強い流れが節目を迎えて弱まる時で、そのような節目には邪気が入り込んでくるので、祓(はら)いの行事が行われたり忌み籠(ご)もる日であったという(④)。そのため節句には農事を休み、色々の行事が行われる。雛祭(ひなまつ)りは、このような行事に雛遊びの習俗が結びつき、さらに初誕生の子どもの無事な成長を祝う行事が加わったものである。
 能登の節句も例外ではなく、隠居や子どもが戸外で遊ぶヒナアラシ(雛あらし)の習俗を伴い、雛人形を飾って楽しむ。一方で、初節句には、親戚を呼んで会食が行われる。雛祭りについて、**さんは、「雛祭りは旧暦の3月3、4日でやっていました。雛人形は里の親からもらうのが一般的で、親戚や友人からもらうこともあります。人形を贈っていただいた人たちを呼んでオキャク(お客を呼んで会食すること)があります。にぎやかにやるところは鉢盛(はちもり)料理を作ったりしますが、普通はお七夜よりはにぎやかな程度のオキャクです。人形には、ひし餅と炒(い)り豆(あられ・トウモロコシ・ダイズを炒ったもの)をそれぞれ三方(神仏へのお供え物や儀式の時に物を載せる白木造りの台)に載せてお供えにしていました。ひし餅は2、3cmの厚みにした餅をひし形に切ったもので、白・赤・緑(草餅)の3色を3段に重ねます。炒り豆は水飴(みずあめ)で固めたりせず、種類別に分けて一つの三方に並べて供えていました。」と言う。ただし、自分たちが食べる炒り豆は水飴で固めていた。**さんは、「炒り豆は、水飴で固めたものをたくさん作り、1斗(約18ℓ)缶(かん)などに入れていました。冬の間はゆでぼし(ひがしやま)で、お節句からは炒り豆が貴重なおやつでした。」と回想する。県内の各地でも、子どもが喜びそうな菓子などがお供え(写真2-2-2参照)とされている。
 また、能登の雛(ひな)あらしについて、**さんは、「磯遊(いそあそ)びといっていました。能登の北側にあるトウノコエという磯に出て遊んでいました。3段重ねの手提げのお弁当箱とからつ(陶磁器のこと)のお人形さんを持って遊びに行っていました。お雛様にお弁当をお供えしてからみんなで食べていました。隠居(いんきょ)仲間は酒やさかなを持ち寄って雑談を楽しんでいました。磯遊びの弁当は、一番上に羊羹(ようかん)、寒天(寒天に卵を溶いて入れ固めたもの)、かまぼこ、2段目は磯もの(サザエやアワビなど)の煮つけ、一番下は巻きずし、いなりずし、おにぎりなどです。かまぼこは、エソを取ってきて、すり鉢でていねいにすりつぶして作っていましたし、巻きずしの海苔(のり)はイワノリを採ってきて、自家製の海苔の枠で作っていました。」と話す。

   b 端午の節句

 端午の節句も五節句の一つである。男の子の初節句が行われるというだけではなく、例えば御霊(ごりょう)節句(*5)とか、旧暦の5月4日や5日を女の家(*6)と呼んだり複雑な性格を持っている(⑤)。
 端午の節句を象徴するのは、鯉(こい)のぼりや旗のぼり・五月人形である。**さんは、「子どもの母親の里から鯉のぼりか五月人形をもらっていました。」と言い、「端午の節句に特有な食べ物は、かや餅(もち)とふかし餅、それにしょうぶ酒です。かや餅は、米の粉を材料にしてチガヤの葉で巻き、わらで縛ってから蒸したもので、ちまきに当たります。病気を払い、産婦なら乳がよく出るようになるといわれていました。ふかし餅はふくらし粉を入れた小麦粉に、あんを入れてサンキラ(写真2-2-3参照)の葉に包んで蒸したものです。餅と呼んでいましたが、実際はまんじゅうといってもいいものです。しょうぶ酒は一升瓶(びん)の口をショウブで結ぶだけでした。ショウブを酒に漬けたりはしていません。長男の初節句の場合は、にぎやかに鉢盛料理で宴会をするところもありますが、忙しい時期ですから、普通はふかし餅とかや餅を親戚(しんせき)に贈るだけの場合が多かったです。」と言う。**さんは、「旧暦の5月5日といえば新暦では6月に当たります。忙しい時期で、麦刈りが済んで、すぐそのあとにサツマイモを植えていました。特に忙しい時には、麦のあとを耕しもせずに、切り株を残したまま、麦うねの間にサツマイモの苗を植え込んでいました。苗が活着したころに、サツマイモの上に土をかぶせます。当時はハイカラ植えといっていました。」と言う。
 各地区(図表2-2-1に記した地区)の端午の節句特有の食品を挙げると、ちまき、かしわ餅、サンキラの餅、しょうぶ酒があった。これらについて述べる。
 「関西はちまき、関東はかしわ餅」とされるが(⑪)、ちまきの例は少ない。今回の聞き取り調査地点(図表2-2-1参照)では、新居浜市別子山保土野(ほどの)地区と日振島能登地区のちまきだけである。別子山保土野では、米の粉を練って幅の広いシノベダケ(ヤダケ)の葉で包み、わらで縛って作る。能登ではチガヤで包んで作るかや餅で、これは文字通りの“茅巻(ちま)き”である。
 『愛媛の民俗』では、ちまきは産婦の乳の出を良くし除病に効能がある保存食であるとし、「越智(おち)郡や温泉(おんせん)郡の島々では、チマキ一対を年中家の出入口につるしておく。それを祇園(ぎおん)さんにあげるのだと言っており、こうすれば風邪にかからぬとか魔除(まよ)けになると伝えているのである。また周桑(しゅうそう)郡小松(こまつ)町石鎚(いしづち)地方でも、サンキラの葉や萱(かや)の葉で包んだ米粉団子と竹とトチの葉で包んだタカキビ粉の団子一対を六日に氏神様に供えてから持ち帰り、戸口(とぐち)に年中つるしておく(⑤)」と記している。ちまきを「祇園さんにあげる」という意味は、祇園神社が疫神(えきしん)を祭る神社であるところから、疫病が流行しないように魔除けの効能のあるちまきをお供えするという意味である。また、ショウブはその鋭くとがった葉の形や香りから同じように魔除けの役割を果たすと考えられており、端午の節句には、軒先にさしたり、しょうぶ湯、しょうぶ酒(酒にショウブを漬けるのが原型)、頭につけるしょうぶ飾りに使ったものと考えられている(⑤)。
 かしわ餅(もち)は、米の粉を練ってあんを入れ、カシワの葉で包んで蒸したものである。松前町昌農内(しょうのうち)地区では家の庭にカシワの木を植えて、その葉を使ってかしわ餅を作っていた。
 かしわ餅によく似ているのがサンキラの餅である。決定的な違いはカシワの葉で包むところをサンキラあるいはサンキライ(共にサルトリイバラのこと)の葉で包むところである。図表2-2-6に各地(図表2-2-1に記した地区)の例を挙げるが、これを見るとサンキラの葉に包みながらかしわ餅と呼ぶ地域がある。新居浜市別子山保土野と吉海町津島地区である。保土野では包む葉がサンキラ(保土野ではカラタチという。)でも、中身はかしわ餅と同じである。しかし、吉海町津島では包む葉がサンキラ(津島ではゴテンバという。)であるだけでなく、中身も違っているのに、かしわ餅と呼ばれている。中身はもち米の粉、もち麦の粉、サツマイモの粉を材料にした3種類がある。もち米は白、もち麦は茶、サツマイモは黒褐色になるが、すべてかしわ餅と呼ぶ。
 このことについて、『えひめの木の名の由来』では、「カシワの名は、古代には食物を盛る器として広くて大きい木の葉を利用し、その葉をカシキハ(炊葉)からカシワと云ったが、サルトリイバラの葉も当時のカシワの一つであったであろうとする説があり、その名残か、あるいは関東地方から流行して来たかしわ餅を包むブナ科のカシワの葉の代用にすることによる名の流用かのどちらかであろう。」としている。同書は、県内でもサルトリイバラをカシワと呼ぶ地域として、北条市、松山市五明(ごみょう)地区、温泉(おんせん)郡重信(しげのぶ)町、伊予(いよ)郡砥部(とべ)町、上浮穴(かみうけな)郡久万(くま)町を挙げている(⑥)。
 サンキラの葉で包んでかしわ餅と呼ばない地域もある。小麦粉を材料にする八幡浜市穴井(あない)地区、もとは小麦粉を材料としていたがもち米の粉になった城川町土居地区、まんじゅうをサンキラの葉で包んだ日振島能登地区などである。

 (ウ)初誕生と餅

 生児の1年は、満1歳の初誕生の儀礼で終わる。能登の**さんは、「誕生日までに歩けるようになった子は、誕生餅といって1升餅(もち米1升〔約1.8ℓ、約1.5kg〕で作った餅)を搗(つ)いて鏡餅にし、風呂敷で包んで背負わせ歩かせていました。」と言う。
 柳田国男はこの誕生餅について、北宇和(きたうわ)郡など宇和4郡や土佐沖之島(おきのしま)(現在の高知県宿毛市沖の島)などで力餅と呼んでいるが、餅を「背(しょ)はすも叩(たた)くも踏ませるも皆同じに、本来は其子(そのこ)が此餅(このもち)から、生活に入用なる力を得るように」祈る儀式であったろうと初誕生の力餅に言及している(⑦)。
 『豊後(ぶんご)国風土記』國崎郡田野の項に、餅的(もちまと)伝説が記されている。それによると、田野は良く肥えた土地柄でたくさんの水田が開墾されていた。食料も余るほどにあったので、その豊かさにおごって餅を弓の的にして遊ぼうとした。すると餅が白鳥と化して飛び立ち、その年の内に田野の農民たちは死に絶え、水田は荒れ果て、それからの田野は水田に適さない土地になってしまったという(⑧)。また、『山城国風土記』にも伏見稲荷の縁起として餅的伝説が記されている。餅の的を射ったところ、餅の霊である白鳥が飛び立って山に降り立ち、そこに稲が実ったので社を建てたと述べている(⑧)。いずれにしても餅には稲の穀霊が宿っており、米の本質が凝縮された神聖な食べ物であったのである。人に力を与える餅を力餅と呼び、大きな丸い餅が神鏡にたとえられて「お鏡」と呼ばれたのもこのためである。既に古代から、餅は特別な食とされていたのである。
 ところで「もち」とはどんなものなのであろうか。一口に餅といっても、鏡餅、ひし餅、サンキラの餅、かしわ餅、しょうゆ餅、かや餅、ふかし餅など、さまざまな餅がある。『日本民俗学大系 第六巻』によると、「もち」の語源は色々いわれるが、その丸い形から望月(もちづき)(満月)の「もち」とするのが無難な解釈であり、餅の特色は形を自由に変えられる点であるとしている(⑨)。もち米を蒸して搗いた餅だけでなく、穀物の粉を蒸して作るのも餅であった。『愛媛の民俗』が指摘しているように、サンキラの餅やちまきも、霊力を持つものと解釈されていたようである。


*2:ゴコウ 母乳を与える前に、生児の胎毒をおろすために飲ませるもの。川之江市金田町の例を挙げると、クレナイ・カン
  ゾウ・フキの根・ショウブの根・イタドリの根を煎じたものである(③)。地域により数も種類も異なる。
*3:フカのみがらし ネコザメ・ホシザメなど小型のサメを調理し、みがらしをつけて食べる料理で、単にみがらしとかフカ
  の湯ざらしなどとも呼ばれる料理である。**さんによると、サメは熱湯をかけてたわしで皮をこすり、ザラザラした部分
  を除いて3枚におろす。それを皮つきのまま刺身くらいの大きさに切り、沸騰した湯にくぐらせ冷水でさまして作る。みが
  らしは芥子酢味噌(からしすみそ)のことで、味噌にカラシナの種子を粉にした芥子や砂糖を加え酢で溶いたものである。
*4:五節句 1月7日(人日(じんじつ))、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽
  (ちょうよう))の節句を指す。
*5:御霊節句 御霊信仰は、怨霊(おんりょう)が病気を流行(はや)らせる疫神と結びついた信仰である。怨霊がたたるため五
  月のぼりを立てない言い伝えが県内の各地にあるという。流行病を抑える行事が節句に結びついたのであろう。
*6:女の家 端午の節句をさす呼称で、その前日を宵節句という。田植えの時期を迎え、田植えの主役である女性が、男性を
  排除して家に籠(こも)る習俗があったのではないかとされる。

写真2-2-1 鯉のぼりとのぼり旗

写真2-2-1 鯉のぼりとのぼり旗

五十崎(いかざき)町御祓(みそぎ)。平成15年5月撮影

写真2-2-2 雛祭り・端午の節句のお供え

写真2-2-2 雛祭り・端午の節句のお供え

平成15年9月撮影

写真2-2-3 サンキラ(サルトリイバラ)

写真2-2-3 サンキラ(サルトリイバラ)

伊予市上吾川。平成15年9月撮影

図表2-2-6 かしわ餅とサンキラの餅

図表2-2-6 かしわ餅とサンキラの餅

今回の聞き取り調査から作成。