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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)野趣豊かないも料理

 土居町は県の東部にあり、燧灘(ひうちなだ)に面している。新居浜市と伊予三島市の間に位置する農村地域で、米や野菜を産し、特にサトイモは良質で有名である。山麓部には柑橘園が広がっている。また赤石五葉松(あかいしごようまつ)の特産地としても知られている。

 ア やまじ風とその対策

 宇摩地域特有の「やまじ風」は、日本三大局地風(山形県の清川(きよかわ)だし・岡山県の広戸(ひろと)風・愛媛県のやまじ風)の一つであり、しばしば家屋や農作物に大きな被害をもたらした。この風は、春季に低気圧が通る2月中旬から5月ころと、秋季に台風の通る9月から10月にかけて発生し、最大風速毎秒30mに達することもある(⑤)。この地域の地形にやまじ風の発生の秘密がある。東部に剣(つるぎ)山、西部に石鎚(いしづち)山の両高峰があり、二つの山にはさまれたあんぶ(鞍部)の地形をつくっているため、南のほうからきた風は、北にながれる谷にそって集められる。この集められた地表流は法皇(ほうおう)山脈を通過した後、北側山麓(ろく)の急な地形にそって吹き降りる。やまじ風とは、こうして集められ加速された風が、わずか15kmの狭い範囲の宇摩平野に吹き降りることにより発生する(⑥)(写真3-1-7参照)。
 『伊予三島市史 中巻』には、「住民の生活に大きな被害をもたらす『やまじ風』の対策は、古くから、住民の切実な悲願であり、長い生活の知恵から幾多の対策が考えられた。特に住生活上の建築様式、農業生産上の諸施設、作物の種類、耕作方法と対応技術、それに投下労力、漁業に及ぼす被害など他の地域には類例のないものである。(⑤)」と記されている。
 **さん(土居町入野(いりの) 昭和5年生まれ)にやまじ風について聞いた。
 「この地域はやまじ風の強いところで、春と秋に起こりますが、特に秋の台風時期になるとゴーゴーという大きな音をあげて風が法皇山脈から一気に吹き降ろして来ました。屋根の瓦や看板が飛び、小屋などはひっくり返りました。農作物では、実り前のイネが倒れて稲穂に水や土がつき、もみから芽が出て米が全く収穫できない年もありました。野菜や柑橘等も大きな被害を被りました。このように住民の生活や農作物に被害を及ぼすやまじ風への対策が検討され、風に強い作物である根菜類のサトイモやヤマノイモが栽培され始めました。」

 イ 村里のくらし

 **さんに、子どものころからのくらしについて聞いた。
 「私が子どものころは、田には米やタバコを作り、畑にはクワやサツマイモ、家庭で食べる野菜を栽培していました。家ではウシ、ウマ、ヤギ、ニワトリなどを飼い、堆肥を肥料として用いて化学肥料は全然使用しませんでした。国民学校(太平洋戦争中の旧制の小学校)から帰るとクワの葉を摘みによく畑に行きましたが、カイコを飼うころが最も忙しく、また匂いがきつく辛(つら)かった思い出があります。カイコは年間3回飼いましたが、マユの良いものは製品として出荷し、製品にならない不良品は、娘の嫁入り支度の反物(たんもの)と交換していました。昭和27年(1952年)ころにカイコをやめて、タバコやサトウキビの栽培を始めました。
 家が山の近くにあり、川水がきれいなために、飲み水や炊事、風呂水にも使用しました。夜10時以降に姉とともにバケツで運びましたが、瓶(かめ)に水を満たしておくのも子どもの仕事でした。使った羽釜(はがま)や鍋(なべ)は川で洗い、家でゆすぎました。冬休みには薪を採りに姉や友達とよく山にも行きました。
 食事回数は1日3回で、主食の麦ご飯は丸麦を炊いた後に、米を入れて二度炊きしました。おかずは野菜の煮物や煮しめが多く、何日かごとに土居町の海岸の蕪崎(かぶらさき)地区や天満(てんま)地区からリヤカーで売りに来る魚を買って、煮魚や干物にしました。
 おやつは蒸(ふ)かしたサツマイモをあじかに入れておいてよく食べました。また芋飴(いもあめ)、小麦粉に塩を入れて焼いたコッパチ焼き、サトウキビなどもおいしいおやつでした。芋飴はサツマイモを切って干し、発芽させた小麦とともに大釜でよく炊き、布でこした液をとろ火で何時間も煮詰めると黒い飴状のものになるので、さらにその中にはったい粉を入れて作りました。
 子どものころは、草履(ぞうり)を履いて通学し、遠足のときだけズックを使用しました。また雨の日は、はだしで学校に行き、近くの川で足を洗って草履を履きました。冬に履く足袋(たび)は、母が帯芯(おびしん)を壊した布を使ってコタツに入って縫ってくれました。各家庭では子どもが多く、寝るときは雑魚寝(ざこね)でしたが、私は祖母と寝起きしました。冬の寒い日には布団を暖めるために行火(あんか)(炭火を入れて手足を温める道具)を使いました。弁当は、農家で米があるにもかかわらず、先生に叱(しか)られるため米を麦でおおって持って行きました。
 昭和22年(1947年)に学校を卒業して農協に就職しました。農協では米・麦・キビ・コーリャン・サツマイモやトウモロコシの粉を販売していました。戦後のことで、人々は米穀(べいこく)通帳を持ちわずかの米を買って帰りましたが、それでは足りなくて、農家以外の家庭では着物を持って農家に行き、米と交換していました。
 味噌(みそ)や醬油(しょうゆ)は自家製で、麦を収穫した後の7、8月ころに作りました。気温が高くて発酵(はっこう)は容易でしたが、ハエやカが出るため注意を要しました。味噌は出来ると樽(たる)に入れて保存し、しばらくすると白かびが出る場合がありましたが、これは無害でした。小出しする場合には、“天地返し”と言って酸素を入れて変色しないように混ぜ返しましたが、ねばくて混ぜにくく、手が非常に痛かったです。」

 ウ サトイモ栽培といも料理

 宇摩地域のサトイモ栽培は、およそ300年の伝統があるといわれる。
 『さといも・やまのいも全書』によると、宇摩地域にサトイモが定着した理由には次の4つの事項が考えられる。

   ○ 宇摩地域は「やまじ風」の常発地帯であり、風に強い作物しか栽培できなかった。
   ○ サトイモは非常に栽培しやすい作物である。
   ○ 10aあたりの収益性が水稲に比べてはるかに多い。
   ○ 水稲栽培との輪作が行われており、畑作だと6~7年周期の輪作が必要だが、水稲を組み込むことにより3~5年
    の輪作でよくなっている。連作障害が出にくく産地維持ができてきた。

 以上の理由により、約1,700戸の農家が1戸平均12a(平成9年)の栽培を行っている(⑦)とある。
 現在、ここで栽培されているサトイモの種類はほとんど「女早生(おんなわせ)」である。「女早生」は「石川早生」に比べ収穫時期が10日ほど遅くなるが、収量が多く、根とり作業がしやすいなどの長所を持っている(写真3-1-8参照)。
 宇摩地域の中でも特に土居町の平野は肥沃であり、栽培されるサトイモやヤマノイモは良質である。県下一のサトイモの産地で、その多くは京阪神市場に出荷されている。
 また、サトイモにはでんぷんが多く含まれ、ビタミンB1・B2のほかたんぱく質も十分含まれている。消化や吸収もよく、老人、子ども、病人の栄養補給に大変優れた食材である。
 サトイモやツクネイモを使用した料理について、**さんは、「子どものころから中秋の名月にはサトイモ(石川早生)を掘り、初物として葉をつけたまま洗って、団子とともにお供えをしました。
 サトイモは栽培しやすく湿地を好み、種類には石川早生・女早生・赤芽(あかめ)・八(や)つ頭(かしら)・筍芋(たけのこいも)などがあります。収穫後は土に埋め、稲わらを被(かぶ)せたり、もみ殻に入れて保存しました。
 サトイモは、芋の部分を田楽(でんがく)や塩茹(ゆ)で、いもずし、いも汁などに、葉柄は汁の具や漬物などに使用します。また、サトイモとずいき(いもの茎)に米と赤味噌、油揚げを入れて炊いた“べったら雑炊”や、いもと鶏肉・こんにゃく・ゴボウ・ニンジン・シイタケなどを醬油で味付けした煮物、近年各地で広まっている郷土料理の“いも炊き”など数々の家庭料理に使用されています。ツクネイモ(ヤマノイモの一種)は擦(す)って食べたり、擦り潰して卵黄と塩を入れ、練って団子や天ぷらにします。ヤマノイモは、お好み焼きや茶わん蒸し、酒のつまみなどに利用されています。最近では、サトイモを潰し、牛ミンチとタマネギを加えて作った“サトイモコロッケ”や、ツクネイモにだし汁を加え、刻んだネギを入れて焼いた“ツクネのネギ焼き”などが大変好まれています。」と話す。

写真3-1-7 やまじ風が吹き降りる法皇山脈

写真3-1-7 やまじ風が吹き降りる法皇山脈

土居町津根。平成15年11月撮影

写真3-1-8 広がるサトイモ畑

写真3-1-8 広がるサトイモ畑

土居町津根。平成15年8月撮影